知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「古文」で身につくほんものの日本語(鳥光宏著)

2012年07月26日 06時01分24秒 | 古典文学
PHP新書、2011年発行。
著者は琉球大学医学部で学んだあと、法政大学を卒業して予備校の名物講師となっている人物だそうです。

アラフィフになると、ふだん使わない英語の習得にはなかなかモチベーションが上がらず、日本の古典文学を読みたいと思う気持ちのほうが強くなります。少なくとも私はそうです。
いつかは日本の古典を原文で読んでみたい、という浅はかな考えからこの本の題名に惹かれて購入しました。

内容は、半分期待通り、半分期待外れ。

まず、日常使用している言葉の?を日本語の歴史を通じてひもといていく解説はとても楽しく読めました。母音に注目した推理はスリリングでさえあります。
音楽の時間に習った文語調の歌「蛍の光」「ふるさと」「さくらさくら」「こいのぼり」「おぼろ月夜」「君が代」の歌詞の説明もあり、自分が如何に理解していなかったか自省することにもなりました。
「ら抜き言葉」の何が問題なのか、という論考も目から鱗が落ちました。
しかし、助動詞の活用表(未然形・連用形・終止形・連体形・已然形・命令形)なんてのも出てきますが、すっかり忘却の彼方ですね。

一方、予備校講師という立場から受験生に向けた項目もいくつかあり、こちらはつまらないので読み飛ばしました。

メモ
 ・・・自分のための備忘録。

■ 枕草子の「いとおかし」は今の言葉で言うと「チョー面白い」。「~ぞかし」は今の言葉で言うと「~だよね」。

■ 「れる」「られる」の歴史的変遷
(奈良時代)「ゆ」「らゆ」
  ↓
(平安時代以降)「る」「らる」
  ↓
(江戸時代中期以降)「れる」「られる」

■ 「ら抜き言葉」のおかしい理由
 「らる」(古文)でも「られる」(現代文)でも、上に付く(接続する)未然形の語は決して「a」音にはならず、また「る」(古文)でも「れる」(現代文)でも、上には必ず「a」音となる未然形が来ることが一つの法則となっている。
 つまり、「食べる」「見る」の未然形「食べ」「見」の末尾が「a」音ではないのだから、「食べられる」「見られる」が正しい言い方となる。

■ 日本語「た」の秘密
 本来日本語には「き・けり・つ・ぬ・たり・り」という助動詞が存在し、「過去・完了・気づき・詠嘆・存続」などといったバラエティに富む表現をそれぞれが持っていた。しかし。京の貴族言葉中心だった日本社会に、室町時代から江戸時代にかけて、次第に関東の武士言葉などが入り交じる中で言葉が大きく変化して雪、「たり」が現在の「た」になりながら、「過去・完了・気づき・詠嘆・存続」という、それぞれ異なった助動詞が持っていた職能を一挙に全て引き受けてしまって現在まで生き続けているという訳なのである。

■ 「さくらさくら」の中の「朝日ににおう」の意味
 「におう」は嗅覚ではなく視覚的表現である。
 古語辞典で「にほふ」を引くと以下のような意味:色がひときわ美しく人目に立つ意。多く、視覚の綿での表現に用い、のち、嗅覚の表現が中心となる。


 読了後、この本は高校三年生の息子の本棚へ移動しました。

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