知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「聖徳太子」

2010年03月04日 20時37分19秒 | 寺・仏教
NHK-BSで「法隆寺」という番組を見ました。
法隆寺はその昔聖徳太子が建立したと中学校の歴史で習いました。7世紀でしたっけ。
彼は「日本に仏教を取り入れた賢人」「十七条の憲法制定」と、日本人なら誰でも知っている偉人ですね(昔の1万円札の肖像でもありました)。
番組は前編・後編からなり、各2時間弱の圧倒的内容でした。

~番組紹介から~

<前編>
「世界の至宝・法隆寺の国宝全て紹介する特集番組。前編は昨年行われた科学調査から浮かび上がった世界最古の木造建築の謎を追いながら、飛鳥時代の宝物を中心に紹介する。
法隆寺の国宝をすべて紹介する。前編は、世界最古の木造建築に秘められた謎を追う。寺を創建した聖徳太子の死後、法隆寺は火災で全焼したとされているが、誰がいかにして寺を再建したのかは謎とされてきた。2008年、建物の年代を探るための科学調査が進められ、日本に異国の宗教・仏教が根づいた時の知られざる物語が浮かび上がってきた。至宝、名建築をご覧いただきなら、神秘的な古代史のロマンをたんのうしていただきたい。」

<後編>
「法隆寺の伽藍や宝物はがいかにして造られ、守られてきたのか。後編は技をキーワードに法隆寺が1400年の風雪に耐えた秘密を古式豊かな行事を交えてお伝えしてゆく。
後編では「技」をキーワードに、至宝がいかにして造られ、守られてきたのかを追う。1300年の風雨や地震に耐えて立ち続ける法隆寺の伽藍(がらん)。解体修理したときの秘蔵のフィルムを手がかりに、古代工人が持っていた驚きの技術や職人たちの絶え間ない努力に迫る。さらに、至宝が生み出され、守り伝えられた背景にあった、聖徳太子への篤(あつ)い信仰を、法隆寺に伝わる四季折々の古式豊かな行事を交えて伝える。」

法隆寺修復の際に学術調査が入り、そこから判明した歴史上の新事実を織り交ぜての内容です。

■ 法隆寺は聖徳太子が造った仏教研究所。金堂は「聖徳太子記念館」。
 当時、仏教は伝来したばかりでまだ日本中に広まっておらず、「異国の宗教」と捉えられていました。仏教普及の拠点として当初は立てられたようです。
 しかし完成から半世紀後、法隆寺は火事で焼失してしました。その時既に聖徳太子は没し、一族も政争に敗れて絶えた後でしたが、それでも法隆寺は再建されました。
 誰が何の目的で?
 再建された位置や仏像の配置から推測すると、再建は天智天皇・持統天皇が唐に対抗するために日本国内を統一する必要性を感じ、異国の宗教である『仏教』を利用して聖徳太子を「日本に現れた釈迦の再来」と崇めたようです。
 その証拠に、金堂に祭られている仏は聖徳太子の姿を等身大に写したものです。こんな仏は他に例がありません。

・・・現在はあって当たり前と感じる天皇制が安定したのは、実はこの時代からなのですね。わかりやすく云うと、宗教を政治利用したことになります。それも故人の聖徳太子人気にあやかって「現人神(アラヒトガミ)」に仕立て上げたと捉えることもできます。
 あれ、これって明治維新で国家団結のために天皇を「現人神」とした宗教を起こし、従来の仏教・神道・儒教を否定した明治政府と共通するところがありますねえ。
 違うところは聖徳太子は平和志向、明治維新は戦争志向・・・真逆です。

■ 聖徳太子の仏教者としての宗派は?
 歴史でならいました? 私は覚えていません。
 正解は「法華経」中心です。

■ 法隆寺・聖徳太子はなぜ消えることなく現在も伝えられてきたのか?
 前述の通り、天皇家が太子を利用するために保護してきたからと、女性救済を訴えるお経を取り入れ、徐々に庶民へ信仰が広まっていったから、とされているようです。

■ 仏像の素材としてクスノキは日本固有のもの
 トトロの住み処として有名になった感のあるクスノキ。これを仏像彫刻に用いているのは日本くらいらしい。つまり古(いにしえ)の仏像は素材により生産国が推定可能と云うこと。

■ 年輪で木材が切り出された年代が正確にわかる。
 年輪幅の基礎データがあれば、木材の年輪幅を測定して重ね合わせて一致するパターンを見つければ、正確な年代が推定可能・・・まるで指紋検査のようでした。法隆寺金堂の木材は西暦688年に切り出されたことが判明!

・・・法隆寺の年中行事の一つに先日亡くなった立松和平さんが参加している映像があり、懐かしく拝見しました。
 法隆寺へは中学校の修学旅行で行きましたが、金堂の薄暗い中に仏様がいた雰囲気しか覚えていません。
 また行ってみたいなあ。1300年前の柱に触ってみたい。

 それから、個人的に一万円札は福沢諭吉より聖徳太子の方が好きですね。
 明治維新って、必要に迫られて起きた史実ではあるんだろうけど、それまでの日本の伝統をバッサリ切ってしまった罪は大きいと思います。おかげで日本人は自分たちの国・歴史に自信が持てない情緒不安定な国民になってしまったのですから。
 現在も茶髪の若者(~中年)を見かける度に「日本人でいることに誇りを持てない」潜在意識を感じて悲しい気持ちになります。本人は意識していないでしょうけど。
 それまでの生活に根ざした宗教(神道・仏教・儒教)だけでなく、伝統医学も否定してくれたおかげで、いまだに日本人の体質にあった漢方医学が復権しきれていません。


アインシュタインの眼 ー宮大工ー

2010年03月04日 19時59分49秒 | 民俗学
~番組解説より~
「“木の生命力を活かす”宮大工の仕上げの技、カンナがけに迫る。細胞より薄い5ミクロンのカンナくずはどう生まれるのか。カンナがけした木は本当に水をはじくのかを解明。
カンナ仕上げでツヤツヤとした輝きを放つ白木造り。宮大工はなぜカンナ仕上げにこだわるのか。その一つは、宮大工がカンナがけした木材は水をはじくため、腐食しにくいという説。顕微鏡カメラを駆使してガラスのように滑らかな表面を徹底調査。また、細胞より薄い5ミクロンという極薄のカンナくずを生み出す宮大工のカンナがけの技をハイスピードカメラで解明。“木そのものの生命力を活(い)かす”、宮大工のこだわりに迫る。」

 ゲストとして登場したのは宮大工の小川三夫さん。法隆寺昭和の大修復にかかわった西岡常一さんの唯一の弟子です。
 西岡常一さんに関する塩野米松氏の著作を以前読んだことがありましたので、雰囲気はわかりました。
 西岡さんの残した印象的な言葉は「樹齢1000年の木は建築材として1000年もつ」「修復のとき、大木・巨木が必要だったが近隣にはそのような樹木はすでに無かった。吉野から運んでくることになった。今後は外国から探してくることになるだろう」というもの。

 さて、今回は宮大工のカンナの技を現代の映像技術で解析する内容です。
 宮大工がカンナを掛けると削りカスが絹織物のように美しい・・・「削り花」と呼ぶそうです。
 目から鱗が落ちる瞬間が何回もありました。

■ カンナを掛けただけの木の方が、上塗りした木より長持ちする。
 プロがカンナを掛けると木の表面の細胞をつぶすことがなく、乾いて引き締まった木(孔が閉じたもの)を用いると水をはじくため、劣化が最小限で済む。

・・・これには驚きました。私の建てた家の柱は合材なので、3年ごとにニスを塗らないとみすぼらしい外観になってしまいます。皆そうだと思っていたら、「ホンモノ」はまったくの逆なんですね。
 プロの板前さんがマグロを包丁で切ると細胞がつぶれないので味が逃げ出さず、しばらく時間が経っても味が落ちないのと似ています。

■ カンナ掛けの最適角度は37.5度。
 これより浅くても深くても表面がざらついてしまう。最適角度でプロが掛けると表面が鏡面のようになり顔が映る!
 外国でもカンナはあるが押すタイプばかり。引いて掛けるのは日本式のみ。

・・・これも科学的に実験したわけではないのでしょうが、経験則として培った匠の技ですね。

■ 木の種類により建築材としての寿命が異なる。
 マツは500年、スギは800年、ヒノキは・・・現在のところ1300年以上(法隆寺の年齢)。

・・・昔の宮大工はどうしてこれを知っていたのだろう。

同時に「法隆寺」というNHK-BS番組を見ました。
前編・後編とも各2時間弱の圧倒的な内容。
法隆寺は聖徳太子の時代(7世紀)に建造された世界最古の木造建造物です。
中でも五重塔は30m以上ありますが、これが1300年前に建てられ、かつ現存するのは奇跡としか云いようがありません。

こちらにも小川さんが出演していました。
そこでも驚きの匠の技が公開されていました。

■ 法隆寺の芯柱は周囲に固定されていない。
 地震のときに建物とは逆に揺れて緩衝し、被害が最小限となるよう設計されている。

■ 法隆寺に使用されている釘は鉄の純度が高く錆びない。
 現在釘を作るときは鋳型に流し込む方法ですが、昔の釘(『和釘』と呼ぶそうです)は刀鍛冶がハンマーで叩いて鍛え上げた入魂の作品です。昭和の修復の際、同じ釘が造れなくて困り果て、結局古い和釘を再度溶かして過多な当時に叩いてもらい再利用したそうです。

■ 山の木は生育の方位のまま使え。
 古代工人の言い伝え。南側を向いて育った木を北向きに設置すると歪みが生じて長持ちしないということ。

■ 宮大工は300年先を見て仕事をする。
 将来修理が入ったときに「平成の宮大工の仕事はお粗末だなあ」と笑われないよう、過去から伝わった技を磨いて残すのが使命、それが宮大工の心意気。

・・・日本人ってすごい!