知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

藪内佐斗司展「やまとぢから」

2013年09月10日 08時17分01秒 | 日本の美
近隣の美術館で閲覧してきました。
藪内氏は「せんとくん」のデザインで有名になった彫刻家です。
芸大出身で現在は芸大の教授。仏像鑑賞のTV番組でも有名です。


ただ、せんとくんの評価は今ひとつで、有名になったというか、評判を落としたというか微妙ですが。

彼の作品群を一通り見ると、せんとくんだけで判断できない奥深い世界を感じ取ることができました。
せんとくんの表情にも通じる「童子」がテーマの作品が多く、その力強い顔と体の乳幼児達が展示スペースを元気に走り回っている印象を持ちました。




うん、悪くない。
私のイメージ/思い込みも変わりました。
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新日本風土記「日本列島 ”だし” の旅」

2012年11月03日 09時09分52秒 | 日本の美
 NHK-BS放送で件名の番組を視聴しました。
 まずはHPからの番組紹介を;

日本人の食を語る上で欠かせない「だし」。鰹節や昆布、煮干しなどの自然の恵みを乾燥してうまみを凝縮し、調理の際に水に「うまみ」を抽出する。日本の風土の中で長い時間をかけて育まれてきた、世界に類を見ない食文化だ。
お米や野菜をだしで煮た離乳食、毎日食卓に上る母親のみそ汁、駅のホームの立ち喰いそばに、日本料理店の極上のお椀・・・日本人の暮らしには、どんな時も傍らに「だし」がある。今や「だし」は、脂分や塩分を抑えても十分な満腹感を得られるなど、その効用も科学的に証明され始め、世界から注目が集まっている。
番組では、極上の鰹節を生み出す鹿児島枕崎の職人、家族で支えあう北海道知床の昆布漁師一家などに密着。日本全国、四季折々の「だし」にまつわる人々の物語を通して、日本の風土が育んできた、独自の食文化を見つめ直す。


 油と砂糖には嗜癖性があり、制限無く摂取し健康を害する食材として有名ですが、マウスを使った実験でそれと同等の食欲をそそる食材として「だし」が注目されたことは以前から知っていました。
 番組中でも、その研究が紹介されています。京都大学農学部の伏木亨教授の仕事だったのですね。著書も多数あるようなので後日読んでみたいと思います。
「おいしさの科学と健康」(伏木亨)
 「だし」は油と砂糖と異なり、健康を害することはありません。つまり、日本人の健康を守ってきた伝統的な味なのです。
 古くは1200年代に活躍した曹洞宗開祖である道元も「六味」の中に「淡味」と記し、だしの存在を示唆しています。

 一口に「だし」といっても味の由来は様々。
 海からの贈り物では、東日本は「鰹節」、北日本は「昆布」が代表的。なかにはフグを使う地方もあります。
 山からの贈り物では「しいたけ」。
 禅宗の精進料理では「油揚げのだし」、つまり大豆由来。鰹節や煮干しなど生きもの由来の食材は使えないので工夫したのですね。

 これらの食材を煮たり焼いたり炙ったり干したり、それはそれは手間と時間をかけて加工し、うま味成分を凝縮する技を我らの祖先は磨き伝えてきたのでした。
 大切にしたいものです。

 私が子どもの頃は、鰹節本体を削り器で削り節にするのは子どもの仕事でした。カンナ部分で手を擦って切ってしまったことも一度や二度ではありません。袋詰めの削り節や顆粒状の調味料が一般的になった世代の若い人達にはピンとこない話かもしれませんね。

 さて、番組の最後の部分で、母親が自分で削った鰹節を赤ちゃんの離乳食に使う場面が出てきました。
 はじめて口にする10倍がゆを一口飲み込んだ赤ちゃんが、ニッコリ笑ったのが印象的でした。
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「民家に学ぶ家づくり」(吉田桂二著)

2012年08月14日 10時50分54秒 | 日本の美
平凡社新書、2001年発行。

著者は建築家であり「日本住宅建築の第一人者」だそうです。
私の子どもの頃は、農家の友達の家へ遊びに行くと、土間があって座敷があって・・・というのが当たり前でした。しかし、40年経過した今では、そのような家は皆無となりました。
この本は、そんな戦後の日本住宅の激変を専門家の視点から分析し、嘆き、未来を見据えた内容です。

住宅建築に関しても、日本は江戸時代まで築き挙げた伝統を否定し、西洋化を推し進めた歴史が垣間見えてきました。
日本の多湿気候には風通しのよい木造建築(軸組造:じくぐみぞう)が馴染み、石を積み上げて密閉する西洋建築(組積造:そせきぞう)は合わないことを指摘しています。
密閉すると強制換気が必要となり、エアコンが欠かせない→ 電気を使う、という反エコとなります。
また、防湿・防かび対策に化学物質が必要となり、シックハウス症候群という有り難くない病気も抱え込むことになりました。

著者は「家に風土性を取り戻す」ことを提唱しています。

メモ
自分自身のための備忘録。

「家の造りようは夏を旨とすべし」(兼好法師)
 軸組造で造られる民家は、家の外周には壁があるけれども、内部には柱だけが要所に立つのみで、壁は至って少ない。壁が少ないから、内部の区画は障子や襖や板戸など、建具を多く使って区切られる。建具を外せば、がらんどうの大部屋の中に柱が数本立っているというような空間になる。
 これが民家に見られる内部空間の特質であり、構造的には昆虫の体に似ている。この構造は、湿気の多い日本の自然環境の中で、いかに快適な内部空間を造るかに対する結論だったと云うことの方が重要だ。言い換えれば、通風のよい家にする方法だったのである。冬の寒さは耐えがたかったけれども、夏の快適さはクーラーの比ではない。兼好法師の「家の造りようは夏を旨とすべし」を実行した結論であったのだ。
 一方、西洋の家は石や煉瓦を分厚く積んだ組積造で、したがって窓も小さく、外部との遮断性の強い造りになっており、日本とは逆に家の造りようは冬を旨としたことがわかる。


~続きは後ほど~
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京都の舞妓さん

2011年11月06日 21時08分18秒 | 日本の美
 NHKの「美の壺」で取り上げられました。
 知っていそうで実は知らない京都の花街(「はなまち」ではなく「かがい」と読むそうです)。
 説明を聞いて目からウロコがぽろぽろ落ちました。

 舞妓さんは明治時代までは10歳前後の少女がふつうだったそうです。現在は法律の関係で中学校卒業後の入門となっています。
 その出で立ち(振り袖、だらり帯、おこぼ、花かんざしなど)は子どものかわいらしさを引き立てるように仕上げられたとのこと。
 
 そして、驚いたのがその髪型
 数年毎に「割れしのぶ」→「おふく」→「先笄」と変化する決まりがあるそうです。
 全然気づきませんでした。
 晴れて芸妓になると、髪を結うことはなくなり鬘(カツラ)を使うようになります。取材で登場した芸妓になる直前の舞妓さんは「こうして髪を結ってもらえるのもあと少し」と寂しそうでした。

 京都のお茶屋さんは縁のない世界ですが、映画の「SAYURI」や「舞妓は~ん」で垣間見えたと思っていたら、やはり本物の雰囲気は違っていましたね。

 なんというか・・・日本らしさ、女性らしさを大切にしている文化だと思います。
 年と経るごとに、かような雰囲気に憧れを持つようになる自分に気付くのでした。

 その昔、郷ひろみと噂になった「佳つ乃」さん(舞妓さんではなく芸妓さんですが)はなんと美しいことでしょう・・・。
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「杉本家 歳中覚の日々 ~京の町家 200年のレシピ~」

2011年05月15日 05時53分46秒 | 日本の美
 先日、NHK-BSで件名の番組を見ました。

番組内容紹介>
 京都の旧家・杉本家では、江戸時代以来、年中行事や日々の食事の決まりを記した和綴(と)じの冊子『歳中覚(さいちゅうおぼえ)』にのっとった生活が、今も続けられている。そこに貫かれているのは、質素倹約と始末を第一としながら土地のものをおいしく食べようという京の町衆の精神である。『歳中覚』を手がかりに、杉本家の秋から春までの日々と見つめながら、時代の変化の中でなおも連綿と続く京都の文化を浮かび上がらせる。


 杉本家は江戸時代に始まる「奈良屋」という大きな呉服問屋さんでした。代々受け継がれてきましたが、先代九代目当主の杉本秀太郎氏は文学(京都女子大学教授)~文筆業を選択したため建物の維持に困難をきたし(主に経済的理由?)文化財登録~税金による保護に至っています(※)。

※ 『奈良屋記念杉本家保存会』・・・一般公開されています(ただし不定期)。

 『歳中覚』は当家家族のみでなく番頭や丁稚奉公もカバーする内容だったらしく、意外なほど質素です。季節の素材を丁寧に手をかけて調理する様は見ていてすがすがしい。番組中に紹介された献立には肉料理は皆無でした。
 一般日本人の生活から季節を感じさせるいろんな物が失われていく中で、食材・料理を中心に季節を感じながら過ごす日々をうらやましく思いました。現代ではとても贅沢な生活なのかもしれません。

 料理の他にも見所あり。
 杉本家4人(父・母・二女・三女)の身のこなしが素敵でした。別に役者・俳優さんではありませんが、着物を着慣れているゆえでしょうか。京都人の”はんなり”感が満ちていました。
 また、先人の営みを敬意をもって継承しようとする穏やかな、でも力強い心意気も感じ取れました。

★ 二女の杉本節子さんは京料理研究家、三女の杉本歌子さんは京都造形芸術大学非常勤講師(杉本家古文書調査研究主任)という肩書きをお持ちです。
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写楽とは誰か?

2011年05月10日 06時52分41秒 | 日本の美

 江戸時代の大首絵で有名な東洲斎写楽。
 わずか10ヶ月の活動期間に200以上の作品を残して忽然と消えた天才絵師。
 その人物像は謎に包まれたまま・・・。

 この謎解きは、以前から度々話題になるテーマです。
 議論の末、現在は大きく以下の3つの説に集約されるとのこと。

① 有名絵師説:北斎、歌麿等々
② 蔦屋重三郎説:版元
③ 斎藤十郎兵衛:江戸時代の能役者

 さて今回はNHKがその謎解きに挑戦しました。
 題して「NHKスペシャル 浮世絵ミステリー 写楽 ~天才絵師の正体を追う~」

 始まりはギリシャで発見された一枚の写楽の肉筆画。
 日本に残された数枚の写楽の肉筆画とギリシャの一品とを比較すると専門家により「本物」と判定されました。
 しかし、他の有名絵師の肉筆画と比較すると筆致がことごとく異なり、①の有名絵師説は消えました。
 意外なことに、有名な大首絵は浮世絵の生産システムに乗った作品であり、写楽は下絵を描くだけで、実際の描線は彫り師の手によりますから特徴はつかめず参考にならないそうです。

 ②の蔦屋重三郎は歌麿発掘で有名な版元。写楽の作品はすべて彼を通じて世に出ているので、売れっ子絵師が単独の版元のみ固執することはあり得なかったその時代の慣習により生まれた説ですが、彼が絵を描いたという資料は皆無であり現実味に乏しい。
★ ちなみに現在の書店・レンタル業の「TSUTAYA」は彼に敬意を表して名前をいただいたそうです。

 当初注目度が低かった③が今回たどり着いた答えでした。
 能役者は武士階級だったので副職が許されない身分でした。つまり、本名を隠す必要があったのです。これが「謎の人物」という妖しい魅力に繋がりました。
 また、10ヶ月と短期間で消えた理由として、変化する作風にヒントが隠されていました。大首絵は現代でもインパクトのある表現ですが、当時は役者の特徴を際立たせた手法が役者自身には評判悪くて今ひとつ受け入れられなかったと記録に残っているそうです。
 短期間で写楽は大首絵をやめ、一般受けする全身の役者絵を描くようになり、独特の魅力は半減し他の絵師とそう変わらないレベルに落ちていき自然消滅、というのが真実のようです。

 浮世絵の専門家を交えた推論はなかなか見応えがありました。

 随分昔に「課長島耕作」で有名な弘兼謙史さんの作品で「紅毛人説」を面白く呼んだ記憶がありました。確か「ハローハリネズミ」に収録されていたような・・・。
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「画狂老人~葛飾北斎」

2010年12月30日 08時27分56秒 | 日本の美

 葛飾北斎・・・しばらく前までは「富嶽三十六景」くらいしか知りませんでした。
 しかし1999年アメリカ合衆国の雑誌『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、唯一ランクインした日本人として俄然注目。
 私のつたない”北斎経験”を書き留めておきます;

★  BSベスト・オブ・ベスト ハイビジョンスペシャル「葛飾北斎」      
 ▽4人の文化人がさぐる不朽の名作             
 ▽富嶽36景・北斎漫画など不朽の名作の秘密を読み解く   
【出演】(写真家)浅井愼平、(漫画家)黒鉄ヒロシ、(俳優)板東英二、(作家)いとうせいこう、(画家)平松礼二

 2010年12月に再放送されたものを拝見しました。
 4人の文化人がそれぞれの視点で北斎を語る番組構成。

■ 「赤富士」の分析(担当:浅井慎平)
 富士山を赤く描くなんて、想像上の作りものでは・・・と思いきや、実際に赤富士は存在したのでした。
 ただし、年に数回しか見ることのできない”幻の富士”らしい。”赤富士専門写真家”も存在するとか。なんでも、前日雨が降って岩に水がしみ入り、夜間に止んで朝日が岩を照らすときに赤く見えるのだそうです。番組の中で、実際に富士山から持ち帰った岩に水をかけて実演していました。
 また、北斎の赤富士の頂上付近は黒っぽい配色です。これは、雲の影らしい。
 創作と思い込んでいた赤富士は、変化する富士の一瞬を捉えた芸術だったのですね。
 脱帽!
 さらに、北斎は版画の複製を作る際の細かい指示を残しています。その文章が茶目っ気たっぷりで面白い。
 ”東海道五十三次” で有名な同時代の版画家・安藤広重との比較も紹介されました。広重の版木はシンプルで、後から絵の具で背景に手を入れなければならない一方で、北斎のそれは「指示通り作れば同じものができる」ほど完成度が高かったようです。
 北斎の作品には遠近法が導入されています。でも、約束事にとらわれず、強調したいもの・・・例えば富士山は遠近法の先にド~ンと鎮座させたり、もうやりたい放題。

■ 「北斎漫画」の分析(担当:黒鉄ヒロシ)
 マンガの歴史は北斎にはじまった?
 北斎は「北斎漫画」という膨大なイラスト集を残しています。長年出版し続けて15巻あるそうです。手元に近年発行されたダイジェスト版があるのですが、森羅万象のちょっとした瞬間・表情を見事に切り取ったイラストが満載され、息づかいまで聞こえてきそう。その画力・観察眼に黒鉄ヒロシさんも驚嘆の声を上げていました。

■ 「手絵本」の分析(担当:いとうせいこう)
 北斎は「絵の描き方」の類の教則本も残しています。
 それが堅苦しいものではなく、字をもじって絵にしたり、しりとり風に連想して絵を描いたりと、遊び心にあふれた代物。
 番組の中で、いとうせいこうさんは漫画家二人(しりあがり寿、吉田戦車)を呼んで「北斎絵画教室」を開きました。
 ひらがなの「あ」や「ら」からはじまる絵を描いてください・・・と突然云われてドギマギする漫画家二人。出来上がったものを北斎作品と比べると、一目瞭然、北斎一人勝ちでした。
 瞬間のしぐさを捉える観察眼と画力はマネのできない天性のものなのでしょう。

■ 「肉筆画」の分析(担当:平松礼二)
 私は知らなかったのですが、北斎は晩年に肉筆画も残しました。
 平松さんは日本画家です。アトリエにはおびただしい数の絵の具があり、絵の具フェチでもあるようです(笑)。
 彼は北斎作品が残されている長野県小布施の岩松院に通いました。そこには色彩鮮やかな孔雀の絵が天井いっぱいに描かれているのでした。陰影に富んだ色使いや細かい裏技の数々が紹介されました。
 また、北斎は絵の具の作り方も本に残しています。一度のめり込んだらとことん突き詰めてしまうタイプなんですねえ。


 私は北斎を ”ストイックな求道者として富嶽三十六景を仕上げた絵画職人” というイメージで今まで捉えていましたが、実物は全然違うようです。
 自らを「画狂老人」と称して、もう何でもあり! ・・・ひたすら絵を描くことに88年の長寿をつぎ込んだ北斎像が浮かんできました。
 誰も到達できない境地を見たことでしょう。

 なお、「ホクサイ」という雅号をかっこいいと思っていた私ですが、実は「アホクサイ」をもじったものとか、「屁クサイ」をもじったものという説が有力です。なんてこと!
 あ、番組中の板東英二さんは滝沢馬琴に扮した案内役です。
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「風の画家~中島潔」

2010年12月24日 23時13分30秒 | 日本の美


私の好きな画家です。
作風は郷愁漂う背景にあどけない表情の子どもが佇むイメージ。
風になびく髪の毛や木々などの繊細に描き込まれた表情が見る者に「風」を感じさせ、いつの頃からか「風の画家」と呼ばれるようになりました。

2010/12/23にNHKで特集番組を放送していました。
なんと清水寺のふすま絵・屏風を手がけ、その公開が大反響を呼んだそうです。
見に行きたかったなあ。

背景の鮮やかな色彩(時には墨絵のような陰影)と柔らかな広がり感は、確かに屏風絵に向いていますね。

番組は中島潔さんの人生と作品の本質に迫った内容でした。

自分の存在を唯一認めてくれた母への思慕。
18歳の時にその母をガンで失い、しかしその2ヶ月後に再婚した父への憎悪と決別。
彼自身「父への憎悪と、失った故郷への思慕が絵を描く原動力となった」と悲しい事実を告白しています。

そして金子みすゞ作品との出会い。
彼が生涯取り組んだテーマである「大漁」は彼女の詩にインスパイアされたものです。
何度となく鰮(イワシ)の大群を描いてきましたが、その都度画面から受ける表情が異なります。
彼自身、今までは「死」のイメージが「生」に勝っていた、とコメント。
しかし、最新作である清水寺の屏風に描かれた「大漁」の鰮たちは圧倒的な生命力にあふれており、天に向かって上っていくのでした。





清水寺の屏風を作成中に父親の死を知り、そして完成後、彼自身がガンに冒されていることが発覚しました。
何かが吹っ切れ、そして全てが失われた経験。
人生の浮き沈みの果てに、彼の作風が変わりました。

過去の彼の作品の中には「ウメ吉」という可愛らしい子犬がいつもいました。
これは母ウメ子のモチーフで、いつも側にいて見守ってくれる存在。
暖かく包み込む母性的なものが満ちあふれているのは彼の願望を反映したものでしょう。
彼の作品からは峻厳な父性は排除されているのも頷けます。

そして、最新作にはウメ吉の姿が見あたりません。
あどけない子どもも、少し大人びて「自立」した雰囲気を纏います。
還暦を過ぎて、母の加護から飛び立った作者。

過去の呪縛から解かれた彼の魂がどんな作品を残すのか、楽しみです。


・・・手元に3冊の画集・展覧会の目録があります。
風邪の画家「中島潔の世界」ー童画でつづる30年史ー(2001年記念図録)
パリ帰国記念展「中島潔が描く金子みすゞ」ーまなざしー(朝日新聞社、2002年)
中島潔が描く「パリそして日本」(朝日新聞社、2005年)

その中で気になったコメントを書き留めておきます;

■ 初めて売れた絵は「雨やどり」という作品。
 銀座のあるお店のオーナーが好意で置いてくれたところ、ある歌手の目にとまって購入してくれました。そしてその歌手はその絵を元に「雨やどり」という歌を作り大ヒットしました。そう、その歌手とは”さだまさし”さんです。

■ 絵の勉強がしたくてお金も当てもないのにパリへ留学。
 午前中はルーブル美術館に入り浸り、午後は美術学校のデッサン授業に生徒でもないのに潜り込みました。あるとき、先生にスケッチブックを取り上げられ、「しまった、ばれた!」と思いきや、先生は彼の描いた線の美しさを褒めて他の学生に提示したのでした。この経験が画家になる決心をさせてくれました。

■ 39歳で苦労の末開いた初めての個展。
 お客さんが絵の前で涙したり、歌い始めるのを見て感動しました。私の絵に、暗い部分と優しさに満ちた部分が混在しているのは、暗さは39歳以前の、優しさはそれ以後の心模様が現れているのでしょう。

■ 彼の作品の中の樹木は、子どもが木登りして遊べるような巨木が多いのも私のお気に入りの理由の一つ。TV番組の中で樹木のスケッチをする場面がありましたが、彼は「枝振りが好きなんですよ。生きるために光を求めて枝を曲げながら伸ばしていく姿にたくましさを感じます。」とコメントしていました。

彼は現在肺ガンを患い、自らのいのちを見つめながら創作する日々を送っています。
その作品はどんな世界を見せてくれるのでしょうか。
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「遠野物語」by 森山大道

2010年12月05日 20時29分00秒 | 日本の美

カメラマンの森山大道が柳田国男の「遠野物語」に触発されて撮り下ろした写真集です。
森山氏は幼少期、父親の仕事の都合で転居・転校を繰り返し、お盆に帰るような田舎がありません。
自分の「原風景」とは何ぞや?
その問いへの答えとして、半分シンボリックな感覚で漠然と「遠野」に憧れていることを彼自身が書いています。

訪れた遠野は観光崩れしておらず、人々が黙々と生活を続ける日本の田舎町でした。

ひたすらシャッターを切り続けた写真は、その生活を切り取った断片です。

・・・残念ながら、写真にあまり魅力は感じませんでした。
文庫本を出張中の電車の中で斜め読みしたので、写真が小さくて迫力が十分に伝わらないのかなあ。

この本は「フォト・エッセイ」の形をとっています。
写真で勝負するプロが文章で自分の作品を解説するのはタブーじゃないんだろうか、と思ってしまう私です。

大好きな村上春樹氏でさえ、彼が自分の作品を語るインタビューは見たくも聞きたくもない人間なので(苦笑)。

実は私もシンボリックな「遠野」に憧れる一人で、その点では森山氏と同じ穴のムジナです。
学生時代は「民俗研究部」というサークルに属し、日本の辺境に生活する名も無き人々に自分のルーツを探そうともがいていました。

だから、それ以上のモノ、その先にあるモノを求めてしまうのかもしれません。
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「京都~天下無双の別荘群」

2010年09月23日 21時53分50秒 | 日本の美
NHK-BSで件名の番組を見ました。
「あれ、前にも見たことあるな」と途中で気づきました(苦笑)。

京都の東山界隈には観光地以外に秘密の別荘群があります。
個人の持ち物なので非公開なのです。
これらは、明治~大正時代に財をなした名士達がこぞって日本美を極めた別荘を造営したもの。
創設者には野村證券の創設者や、松下幸之助、細川元首相の祖父の名前もありました。

この土地、実は明治時代になり南禅寺などから買い上げた広大な土地に工場建設を計画したものの頓挫し、広い空き地ができたところに粋人達が目を付けた経緯らしい。
よかった~。工場なんてできていたら、雰囲気が激変して京都らしさがなくなってしまいます。

それにしても、欧米に追いつけ追い越せと東京では煉瓦造りの西洋建築が造られた時代に、京都では和風建築・庭園が造られたことがうれしいですね。

別荘を管理するには多大な費用がかかり、個人で維持するのは難しいそうです。
現在の所有者の一人は「京都の文化財を一時的に預かっていると思ってます」とコメントされていました。いずれ誰かに預けることになる、という含みを持たせた言葉です。
実際、別荘の一つは世界規模のクリスティーズ・オークションにかけられ、アメリカのパソコン王(ビル・ゲイツと並ぶ人物とか)が落札しました。

ちょっと寂しいですけど、これが現実です。
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「ソメイヨシノ すべては1本の木から始まった」

2010年05月17日 06時08分54秒 | 日本の美
 サクラの季節は終わりつつある中、NHK-BSの「いのちドラマチック」シリーズでタイトル名の番組を見ました。以前、TVでこのような意味の解説を聞いたものの、残っていた「?」が解決されました。

 サクラと云えばソメイヨシノ。
 実は全国に分布するソメイヨシノはすべて一本の元木のコピー(あるいはクローン)なんだそうです。「子孫」ではなく「コピー」ってどういうこと?

 ソメイヨシノは江戸時代末期に東京は駒込の「染井」という土地の植木職人が「オオシマザクラ」と「エドヒガンザクラ」を掛け合わせて造った品種だそうです。つまり歴史はまだ浅い新顔なのです。
 オオシマザクラは大きい花が特徴、エドヒガンは葉が出る前に花が咲くのが特徴、そしてできたソメイヨシノはその両者の特徴を兼ね備えた観賞用サクラとなりました。
 いや、「観賞用に特化した」と言い換えた方がよいかもしれません。ソメイヨシノは受粉してタネを作る能力が無いのです!

 ではどうやって増やしてきたか?
 答えは「接ぎ木」。
 ソメイヨシノの枝を数十センチに切り先をとがらせ、それをオオシマザクラの幹に切り込みを入れて差し込めば生着して新たなソメイヨシノが出来上がり、数年後には花を咲かせるそうです。1本の木から接ぎ木用の枝は約1000本取れるので、この方法でネズミ算式に増やしてきました。

 驚きました。
 生物は「免疫システム」で自分以外の異物を排除するのでこのようなことは不可能ですが、植物は他の植物を取り込んでしまうのですね。

 接ぎ木で増えたソメイヨシノは、戦後焼け野原となった学校や公園中心に植えられました。
 そして60年以上経った今、異常事態発生!
 接ぎ木の限界なのか、各地でソメイヨシノが枯れ始めたのです。
 分析の結果、「過密な植林」と「花見で根元が荒らされる」ためとわかりました。
 つまり寿命ではなく「人為的」な原因ということ。
 木と木の間が狭いと1本1本の木に十分な栄養が行き渡らない。
 根元を人が歩いて踏み固めてしまうと根が水分を十分吸い上げられなくなってしまうらしい。
 すると、花見はサクラの木の下ではなくちょっと離れた場所から愛でる方がサクラにとっては有り難いことになります。
 う~ん、難しい。

 青森県の弘前城~弘前公園はサクラで有名ですが、なんと1500本のソメイヨシノがあります。最長寿は128年のもの。
 弘前でも例に漏れず一時枯れ木問題に悩まされましたが、うまく克服したそうです。その地元の枯れ木対策が紹介されました。
 それは「剪定」と「土起こし」。
 サクラは剪定に向かないと云われてきた常識を覆し、同じバラ科のリンゴを参考に剪定に踏み切りよい成績を残してきました。また、年に一回、観光客に踏み固められて根元の土を掘り起こして柔らかくする手当も行いました。
 すると、またソメイヨシノが元気に・・・今では全国からその手法を学ぶべく見学者が後を絶たないそうです。

 弘前市は私が学生時代を過ごした地でもあります。実は弘前城の桜祭りの裏方バイト(リヤカーを引いてイベントの準備など・・・時給350円!)もやっていました。
 サクラのピーク時は、「きれいだなあ」というより「幽玄な別世界」でしたね。
 でも、一斉の開花&散り際の美学は植木職人の作品だったのかあ・・・ちょっと複雑な気分。
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「サクラ」の美しさの秘密

2010年04月11日 17時45分22秒 | 日本の美
 日本人にとって、サクラは春になくてはならない風物詩。
 この時期になるとTVで全国のサクラを中継して放映します。
 私は学生時代に弘前公園(サクラの名所)の裏方バイトを経験し、ちょっとサクラにはうるさいのです。

 今春は寒い日が続いてサクラの開花は遅れがちでしたが、散るまでに時間もかかり見頃の時期が長かったようです。
 私も近所のサクラを観て愛でて写真に収めてきました。

 なぜ日本人はこれほどまでにサクラに惹かれるのでしょう・・・NHKの「アインシュタインの眼」という番組で解説していました。

■ サクラの魅力~ポイントは4つ;

□ たくさんの花を咲かせる
 一つの芽から、梅は1つの花を咲かせますが、サクラは3~5個咲かせるそうです。

□ 一斉に咲く
 サクラの花は冬眠するそうです。
 蕾に含まれている休眠物質が冬の寒さで消費されて減ってくると目覚めます。
 さらに開花物質が増えてくることで開花のゴーサイン!
 ソメイヨシノは接ぎ木を繰り返して増えてきたため、遺伝子的には単一とのこと。
 そのため、環境が同じなら同時に一斉に開花します。

□ 一斉に散る
 サクラの花びらはしおれて枯れるまでしぶとくぶら下がってはいません。
 まだ花びらが広がっているうちに潔く散っていきます。
 ゲストの植物学者さんは「人間に大切に扱ってもらうため」と解説していましたが・・・?

□ 「サクラ吹雪」の美学
 花びらはくるくるひらひら、風に舞って「サクラ吹雪」を演出します。
 散り際の美学の秘密は・・・サクラの花びらが①丸いことと、②反っていること。

① 丸い→ くるくる回りやすい
② 反っている→ 風に乗って舞いやすい

 番組の中で実験!
 丸い花びらを紙で作って紙吹雪にしてもくるくる回るだけでひらひらはありませんでした。


■ サクラの花の色の変化
 蕾のときは桜色の花びらですが、開いて散るまでの間に白く変わっていきます。
 一方、めしべははじめ白っぽかったのが徐々にピンク色に変わります。
 なんでも、自然界ではピンク色より白の方が目立ち昆虫を惹きつけるとのこと。

■ サクラの健康状態
 一つの芽から咲く花の数が3個未満は不健康、3~5個は健康、6個以上は非常に健康。
 それから、キノコが生えている幹は瀕死状態だそうです(街並木に多い)。

 なるほど、と頷きながら番組を見終えました。

<追記>
 もう一つ、BS放送でサクラの番組を見ました。
 岐阜県にある「淡墨桜(うすずみざくら)」。
 種類は「エドヒガンザクラ」で、散り際の花びらが白ならぬ淡墨色になることからそう呼ばれているそうです。
 Wikipediaによると「樹高16.3m、幹囲目通り9.91m、枝張りは東西26.90m、南北20.20m。樹齢は1500余年と推定」とのこと。
 1500年かあ・・・聖徳太子もまだ生まれていませんねえ。
 残念ながら近年は寝たきり老人のような状態で、樹木医の治療・介護が必要となっています。
 しかし、老いてもなお盛んで、毎年たくさんの花を咲かせます。
 わずか5日間で散ってしまうそうです。
 365日のうち5日間だけの檜舞台・・・儚いですねえ。
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「桂離宮 ~知られざる王朝の美~」

2010年03月22日 20時13分14秒 | 日本の美
これもNHK-BSで放映されたものを見ました。

~番組紹介より~
「日本の美の極致」とされる桂離宮。江戸時代初期、徳川幕府が「禁中並びに公家諸法度」を作り宮中への強い制限を加える中、京都の公家は文化面で対抗し「自らこそ本物の日本文化の継承者」と自負した。そうした時代、八条宮智仁・智忠親王父子によって造営されたのが桂離宮である。智仁親王は豊臣秀吉の養子となるが解消され八条宮家を創設してもらう。その資金と武家への対抗心を背景に、王朝の美を凝縮させた別荘・桂離宮を作り上げた。公家たちが、庭園にしつらえた茶屋をめぐっては和歌など雅な遊びに興じた場。仔細に見つめると、随所に八条宮親子の美的感覚がうかがえ、その人物像さえ立ち上がってくる。

 和の美を極めた夏の別荘・・・その目指す先には源氏物語の世界がありました。平安時代に栄華を誇った藤原道長が桂川流域に別荘を所有したと伝えられ、それが源氏物語のモデルになったそうな。
 江戸初期に源氏物語に憧れて、贅を尽くした別荘を建てた粋人がいたと考えるだけで何だかうれしくなります。

 当時振る舞われたであろう料理を再現したものに興味を引かれました。
 季節の野菜と桂川でとれた鮎・・・お腹が喜びそう。
 あの瓜を食べてみたいな。
 煮卵もありました(当時の鶏卵は貴重品)。
 その調理法は・・・割った卵を和紙に包み、ダシ入りのお湯で煮込みます。広げると和紙のしわが花びらの形になり「牡丹」に見えるのです。
 やりますねえ。
 実際に調理した板前さんは「これは湯加減が難しい。ずっとこの場を離れられない。」と苦笑していました。
 肉や天ぷらなどが受け付けなくなってきた年齢の私には、これ以上ないごちそうに見えました。

 桂離宮の建築には随所に嗜好が凝らされています。
 襖の金具は松の葉をデフォルメしたもの、壁紙は微妙な光の加減で表情を変える文様(雲母が使われています)。

 きらびやかな装飾ではなく、見つめていると奥深さに感じ入るような「和」の美学。
 素晴らしい。
 わかる人にしかわかりません(苦笑)。

 日本の宮廷生活って縁遠いというか、現代日本人には馴染みがありませんね。
 どちらかというと西洋貴族の社交界の雰囲気に憧れる傾向があります。
 男性ファッション誌にはスーツや靴に関する情報が溢れていますが、和服や下駄・草履を扱う業界誌は見あたらない。

 なぜなんだろう。
 これも明治維新の影響かなあ。
 それまでの日本を否定して、世界に追いつけ追い越せという時代でしたから。

 この番組でも、BGMは西洋音楽の楽器であるヴァイオリンやピアノでした。
 考えてみるとちょっとヘンです。
 和楽器の出番はないの? と突っ込みたくなりました。
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