Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

戦いびとの眼力と情報の受け皿。

2004-08-24 | 徒然雑記
 これも何かの偶然だろう。
昨日、耳のはなしと眼のはなしを聞いた。それも、別々の機会に。

まず、耳からいこう。
とある俗人芸術家で肉食で、平和主義者を自認する御仁が、食事どきに皆の前で私の耳を指差し、こうのたもうた。
「こいつの耳は、人の云うことになんて全く耳を貸さない耳だ。こういう耳の形をしている奴には、徳(得、を含む)がないんだ。」
 なんと勝手極まりない言い草。
アンタ、あたしの何なのさ、とでも言いたくなるような疎遠な相手にそこまで言われる私って一体なにかしら。 

確かに、人相学においては福耳、大きい耳、前のほうに向かって起きている耳などが、社会性や人気がある、所謂「聞く耳」であるとされている。ひきかえ私の耳はひとくちサイズに小さく、形は複雑だが頭の横にぴったりと貼り付き、さぞかしピアスが似合うであろう見事な貧乏耳。徳はさておき、富を得るのは難しいのかもしれない。
 冗談はさておき。 
徳というものは、自らが自らのうちに積み立ててゆくべきものであると同時に、周囲の人々の意識や言霊、環境などの外界から付与されるものでもあるということを忘れてはならない。なればこそ、徳というまぎれもなく美しいものを、真摯とは程遠いないがしろな気持ちで語る行為、また扱う行為は当人の内に住まう徳を減少させ、ひいては他者や自分を取り巻く外界や事象の持つ徳を引き下げる。
 昨夜、自分のうちから引き下げられたぶんの徳は、自分と自分を囲む素晴らしい環境の中でまた積み立てる。
 残念だが御仁。君が自ら剥がしてしまった君自身と君の部下のぶんについては、私は関知しない。

 そして、眼のはなし。
御仁のくだらない話から解放されると、涼しい夜が更けてきたのも手伝って、無性にラーメンが食べたくなった。
ボクシングの元ウェルター級アジアチャンピオンの経営する店は千葉の外房にあって、ちょうちんが4つほどゆらゆらと揺れて薄暗く、いい塩梅にさびれている。噂には聞いていたが、夜の胃に優しい、柔らかに甘い醤油味が確かに嬉しい。
「いやぁ、いい眼をしてらっしゃる。リングで対面したとしたら、『いや、どうやって戦ったらいいかしらん』と考えてしまうような眼ですよ。見透かされてるっていうか、その眼光には敵わないです。だから、いやぁ、いつもあんまりこういうことないんだけど、何話していいか判らなくて。」
ちょっとパンチドランカー気味で訥々と喋るタイプのご主人がここまで一気にまくしたてた。
ラーメンが美味しいのと、水槽の金魚が愉しくて私がただにこにこしていると、更に際限なく早口言葉になってゆく。
 
 戦うものであれば本来誰でもが持っていた、「一瞬で相手の力量と自分の力量とのバランスを見抜く能力」。法律とか社会性とか、色々な制度が整備されてこのかた、相手を見抜く力がなくとも、自分が相手を圧倒できなくとも、それが自らの生き死にに直結する世の中ではない。だから殆どの人間から、この力は退化して失われてしまった。
戦いびとであったご主人からは、自らが発する眼光も、相手の眼光を読み取る力も、失われてはいなかった。嘘やはったりや悪意を抱くものは、この種の眼をまっすぐに見ることができない。
この店で荒れたり暴れたりできる客はまずいないだろう。

 私の耳は、馬の耳。
ちゃぁんと聞こえていたとしても、聞こえないふりをしてるかも。

 私の眼は、戦いびとの眼。
悪意や嘘は、おとといおいで。



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