Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

夢見がちな迷子。

2008-10-08 | 春夏秋冬

 打合せ先から迷子になって、最寄の駅まで予定していた距離の倍以上を歩くことになった。
とはいえ、まるでそれが計算通りのおさぼりであるかのように空は高くて、街路樹はまだかろうじて緑色をしていて、通りすがった鳥居の向こうからは金木犀の香りがする。左手に提げたこの大きな黒い鞄を除けば大層身軽な心持だ。社に戻ったらその日のうちに企画書を書きあげなくてはいけなくて、本来ならそのために10分すら惜しいところではあるのだが。

 迷子のお陰で番地の数字が減るはずのところを逆に増えてゆくし、気付いていながら歩を進めるものだから電信柱に張ってある地名がおかしな風に変わってゆく。ふふふと笑って、どこの角から軌道修正しようかと考える。できるだけ、大通りではなく路地を選ぼう。それも、ビルに挟まれた日の当たらない路地で、開店しているのかどうかも怪しい古めかしい食堂があるような裏通りがいい。テーブルクロスは「クロス」とはいえないビニールで、ところどころに煙草の焦げ跡があるあれだ。多くの人の脳裏に、いつどこで見たかも定かでないのに共通して浮かんでくる不思議な風景を探して。
迷子は、人のこころをわくわくさせる。

 予定よりも30分遅れて駅に到着した私は、調子に乗りすぎたせいでぐったりと疲れていた。駅周辺に点在する高層ビルのひとつに入って、季節はずれの汗を収める。ビルの中にはガラス一枚を隔てた秋がまだ届いていなくて、観葉植物の厚い葉の先が冷房で茶色くちぢれている。
背中と同様に汗ばんだ掌を冷やしたくて、化粧室を探していたら、ビル2階の喫茶店の脇までまた5分近く歩いてしまった。鏡が多くやけにだだっぴろい化粧室には、その広さが無秩序に見えるくらいにたったひとりだけの先客がいた。私よりも更に小柄な中年の女性は、鏡に向かって化粧のパウダーを整え、控えめな色をした唇の紅を引き直していた。茶色のジャケットと淡い紫とばら色が混ざったような口紅、そして紅葉のはじまりのような橙のシャドウが秋の木の実を想起させて、ああ、きれいだな、と思った。

 紅を引き直した女性は、鏡に向かって確認をするように小さくにこりと満足げに微笑んだあと、その余韻が残るうっとりした顔のままベージュの帽子を外し、銀色の小さな毛抜きを取り出して自らの髪を一本、また一本と抜きはじめた。
ぎょっとした私が鏡越しに女性の額に眼を遣ると、近世のお侍もかくや、というほどに頭部前面から側面にかけての髪が失われていた。まるで頭皮ごと削られたかのようにあらわになった頭骨の丸みと、その背面に肩まで垂れる艶のある髪。凍りついて足を止めた私に気付き、軽く振り向いた女性は、はにかむような照れたような笑顔で、小さく会釈をした。

 そのときの私のこころの中には一瞬前に感じたような恐怖は既におらず、迷子の最中に感じたのと同じような涼やかな風と夢見るような風景の残像が確かに通り抜けた。