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Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

東大寺(重源上人像)

2004-10-24 | 仏欲万歳
 本日はちょっと異色な人を登場させる。ホトケでなくて、歴史上の人物である。
歴史上の人物の坐像がこの上ない名品となって通常ではその姿を拝むこともできないという扱いには訳がある。歴史上彼にしかできないことをやってのけた人であり、その時代に、いや現代になって文化財を眺めて廻る我々にとってもかけがえのない人であるからだ。
 そんな訳で、これも異色であるが少しだけ歴史的事象の説明もせねばならぬ。

 源平合戦のさなかの治承4年(1180)平重衡の軍勢が南都(奈良)を攻めたが、その兵火により東大寺、興福寺をはじめとする南都寺院のほとんどが焼失した。東大寺の大仏殿は、二階に逃げ込んでいた1700人にも及ぶ人々と共に焼け落ち、勿論大仏そのものも見る影もなく損壊。さぞかし悲惨な惨状であったと想像される。

 翌養和元年(1181)8月、朝廷から「造東大寺大勧進職」に任ぜられた重源は、諸国を勧進して寄進を募るとともに、源頼朝らの協力を得て宋人陳和卿(ちんなけい)らを登用するなどして大仏を修復・鋳造し、文治元年(1185)には後白河法皇を導師として大仏の開眼供養を行なった。
大仏殿・南大門をはじめとする東大寺伽藍の復興は、建久6年(1195)には大仏殿落慶供養を、また建仁3年(1203)には東大寺総供養を行なうことができた。

・・勧進職に就いてから僅か15年で、ほぼ現在の東大寺の姿にまで復興させたというわけだ。
  工期の短さにも目を見張るが(国交省にも見習って欲しい)、それだけの工事を完遂させる寄付金を集める実力に至っては、どう表現したらよいのだろう。政治家としか言いようが無い。
 
 とまぁ、重源上人とは簡潔に云ってそういう凄い人である。
彼の政治力と統率力のお陰で東大寺は見事復興に至ったわけであるし、彼の目に見出されたことで運慶・快慶を始めとする「慶派」が一気に花開くのである。彼が居なければ東大寺南大門の巨大で精巧な阿吽の仁王像を見上げて嘆息することも、興福寺南円堂の豪快な四天王を見ることも、今の我々には叶わなかったわけで、私なぞに言わせれば重源さまさまである。

彼が木彫の坐像となって今も座っておいでになるのが「俊乗堂」と呼ばれる気付かないくらいに小さなお堂。ここは鎌倉時代初期に重源上人によって創建された浄土堂があったところで、現在の俊乗堂は、16世紀の戦火で焼失した後、元禄年間に公慶上人が重源上人の功を称え菩提を祈るためにここに建てたもの。

快慶作と伝えられる重源上人坐像の脇には同じく快慶作の阿弥陀如来立像と、愛染明王像が居たらしい。それらもなかなかの名品であったはずなのに、失礼ながらさっぱり記憶にない。それ程、重源上人坐像にクギヅケだったのだろう。

上の写真は全身像でないので判りにくいが、まぁ所謂しわがれたお爺さんだ。
ちょっと猫背にちょこんと座り、口を不機嫌そうに結んで両手で数珠を繰っている。衣は墨色鮮やかで、まるで木彫の上に衣服を羽織らせてあるのではないかと疑うほどの写実描写。

そう、重源上人坐像はこれ以上ない写実描写の極みである。
枯れた首筋のしわがれ具合といい、帽子でもかぶったまま拝観しようものなら一喝されそうなくらいに不機嫌な口元。目は左右非対称に歪み、数珠を繰る指先はその珠の質感を確かめるように、老人独特のぞんざいな繊細さを覗かせる。
癇に障ることをこちらがもししたならば、星一徹ばりにちゃぶ台をひっくり返されて、それだけでは済まず硯のひとつも宙を飛んできそうな、そんな生き生きとした性格を備えた老人の姿がここにある。

偉い人の像を作る歴史は今までずっと続いているが、こんなにも不愉快そうで理想の欠片も反映させない像を他に見たことがあるだろうか?アイロニーでわざと醜く表現されているものを除いたとして?

 そりゃぁ、これだけの事業を成し遂げるにあたっては色々とワンマンなこともしただろうし、横車を押したことだってあっただろう。とはいえ彼は尊敬されてしかるべきであるし、現に彼の功績は称えられてきた。
今日しも、東大寺の仁王や大仏に目をやって「ふぇ~。凄いねぇ。大きいし、恰好いいし、モダンだねぇ」なんて感嘆する我々を、暗くて小さなお堂の中からこっそり見下ろして「へへっ。」とほくそ笑んでいるに違いない。

東慶寺(水月観音)

2004-10-22 | 仏欲万歳
 来週から再来週にかけて、北鎌倉が綺麗に色づくころ。

「縁切り寺」の名前で有名な東慶寺という山際の寺がある。
風情がよいところで、澁澤龍彦や和辻哲郎の墓があることから個人的に何故だかとても好きなところであったのだが、テレビ版「失楽園」のロケに使用されたことなどもあってからちょっと足が遠のいている。

山際の小さな門を自らの手であけて中途半端な手入れで美しい苔やシダの茂る階段を登ってゆくと、まるで個人宅のような社務所が右手に現れる。最初に行った折には木々を見上げているうちにふらふらと通り過ぎてしまって墓所に迷い込み、慌てて戻ったものである。
入り口の鐘をコロンと鳴らし、予め連絡を入れていた者であることを伝えると、清楚で品のよい女性が戸口を開けてくれた。

この地味だけれど風情満点の寺には鎌倉後期の水月観音が一体おいでになる。小さな坐像であるし、どどんと大きな本堂に奉られているわけでもなく、拝観のためには事前予約が必要なので名品のわりに知名度には欠けるかもしれない。

 このときも、若い女がひとりで、しかも紅葉も終わり頃の物寂しい時期に仏像目当てに訪れるということでかなり不審がられて予約を取り付けるのに苦労したものだったが、成る程ひとりで来るにはちょっと心細かった。
「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」
という句を思い出すくらいにざわざわと、怖いくらいに風が木々を渡ってゆく。「すごい」という言葉がかつて持っていたほんとうの意味が心の芯に響いて、ごめんなさい誰でもいいから私を護ってください、という気分に駆られるほどであった。

 そんな訳で、美しい女性が社務所の扉を開けてくれたときはどんなにか嬉しかったことか。
内縁を通り、突き当たり奥の仏間に案内されるとそこには、床の奥、壁にしつらえられた円形の室
の中にその麗しい彼女はおいでになられた。

所謂「白衣観音」と称される厚手の白衣を着ていると断言できる中国風のゆったりと深いドレープがのたうつ衣文を纏い、片手に蓮の蕾を持って目線を斜め下方に落としている。視線の先には、風の全く無い夜に鏡のように澄み渡った水の表に映ってかぼそく揺らぐ月の面影。ぽってりと厚い小さな唇は気のせいかほんのりと紅を差した跡が残り、節目がちな目にはまるで豊かに黒々とした睫毛が生えているかのような錯覚に陥る。
豊かな衣服の裾からは足の甲から先が覗き、その甲の肉付きと一本一本が生き物のような足指に視線は釘付けになる。逃げ場のないほどに官能的である。

衣服のせいか、ひらひらとした飾りを下げた宝冠のせいか大陸的(中国的)な風情をぷんぷんと漂わせたこの美女は楊貴妃もかくや、その座り姿、歩き姿、もしくはひとひらの手先の動きや目くばせひとつで悪人の心もとろかし、数千の人間をいちどきに動かす力を持つ。
厚手の衣服に隠された体躯の全ては全く見てとることができないのに、いやそれだからこそ、たった一箇所むき出しにされた足のつま先がどれほどの威力を持ち得るものなのか。

現実の世界の女より、ハリウッド映画の女より、比べ物にならないその妖艶さが放つ力を是非一度ご覧になって頂きたい。
それから暫くの間、骨抜きになること請け合いだ。


建長寺

2004-10-11 | 仏欲万歳
 えーっと、紅葉の季節に間に合うように・・ということで北鎌倉。
秋を迎えると、何かに引っ張られるかのように思い出す場所である。愛する仏像は一体しかないにも拘わらず。

 仕事をしていたころ。
11月下旬にたまった代休をようやく1日だけ消化することになった。通常こんな日は疲労でぐずぐずと眠ってしまって、気づいたらもう夕暮れ・・ということが殆どなのだけれど、どうしてかその日は日々の癖で午前中にしっかり目覚めてしまった。珍しくあまりにくっきりさっぱり目覚めてしまったため、ちょっとお出掛けすることにした。行き先は北鎌倉。

車窓から大船観音を眺め、ちょうど昼には到着。
円覚寺からはじめるところ、御朱印帖がもういっぱいになってしまっていたので、納経所で購入。
「ここ(名前を書くところ)、どうしますか?」と受付のご住職に訊かれたので自分の名前を教える。
「言葉は、どうしましょう?お名前だけでよろしいですか?」
「お任せいたします。」
御朱印帖の表紙には名前を書く白地の欄があって、勿論名前だけ書いてもよいのだけれど、名前よりもうひとつ何かを書くことのできる中途半端なスペースがある。私は通常、そこになにかほんの短い一単語を入れることにしているのである。
「では、先に御拝観をお済ませ下さい。帰りがけに取りに来てくださいね。」

息を切らせて鐘楼までの階段を往復したりもして、台湾リスにチョコレートを奪われたりなどして、帰りがけに受け取った御朱印帖には私の姓の上に「雪月花」と美しい墨文字があった。

 浄智寺を過ぎ、建長寺へ。
鎌倉時代に大陸から伝わった禅宗と五山文化を日本独自に解釈して「鎌倉五山」と「京都五山」が作られたわけで、先の円覚寺や浄智寺と同じく、鎌倉五山のひとつに数えられる。建物は消失して再建されたものばかりであるが、境内の伽藍配置が禅宗独特の形を成している。禅宗と五山文化が、この時期に形成・洗練される「武士道」というやつの背後に流れる大切な水脈なのである。

さして思い入れのない寺の、やけにこじんまり纏まった小さな禅宗初期の庭園。紅葉はもう終盤で、紅葉以外の木々は殆ど枯れかけのような寒々しい状況。平日でもあるし、紅葉のさかりを過ぎたことでもあるし、私のほかに拝観者は誰もいない。せせこましく窮屈な、箱庭的美しさを持つ庭園に向かって、外縁によいしょと腰を下ろす。本を開くでもなく。

すると、暫くして大層場違いな響きが聞こえてきた。

  カキーーン    「えーーーーい」
    カキーーーン      「おぅーーい」

なんだなんだ。
目に見えるのは散り際の紅葉と、池に泳ぐ鯉、そして庭園を深く隈どる常緑樹。
耳に聞こえるのは連発する金属バットの音となんとも表記しづらい掛け声の連呼。そして、これが果てしなく続く。

 確かそういえば建長寺のお隣は野球の名門鎌倉学園。午後の練習が始まってしまったらしい。
嘆息しながら庭園に取り残される。
目に見えるものが脳内に呼び起こす形なきイメージや印象と、耳から侵食する音が呼び起こす印象があまりに食い違うと、それぞれの不協和音が頭のなかでわんわんと鳴って船酔いのようになる。大人しくじっとしていられず、なんかそわそわうろうろ、動物園のしろくまみたいだ。
野球少年たちに罪はない。
とはいえ、逃げるように次の寺へ向かったのは言うまでもない。


正法寺(如意輪観音)

2004-10-01 | 仏欲万歳
 ここのところ、近江、若狭のあいだをうろうろしている。
今日は小浜の入り組んだ日本海を眺めながら、思い出し話をしたい。

小浜の浜には、人魚の像がある。
ここで人魚があがるというヨーロッパ的なおはなしではない。
人魚の肉を食べて不老不死の肉体を得てしまった比丘尼が、この浜の近くにある寺の岩窟内にて入定したという話があり、その岩窟にも散歩がてらいってみたが、老婆姿の比丘尼像より、若い女の人魚像のほうがカタチになると思ったか。云われなければ小浜と人魚の繋がりは判らない。

ついでだが、とある小学校の前に、象の像がある。
洒落だと思われるのも小癪だけれど、ほかに書きようがない。
これは、日本で初めて象(インド象)が上陸した小浜の港を記念したものであるという。まるで小学校に付属したような位置にあるので、これも一見して云われは判りにくい。そして、象の像が小さめなのは、恐らく陸揚げされたのが小象であったと推測されるため。
残念ながら、陸揚げの記録はあれど、京都に到着したという記録はない。合わない気候で、京都に着く前に死んでしまったものだろうか。

 そんなふうに、小浜には海から色々なものがあがって来、海によって人との関わりが変化した。

小浜駅の向かいにある観光センターで長居をした。
受け付けのご婦人がとても優しく、私の拝観ルートに入っていないところでお勧めがあると云って教えてくれた。丁度その夜お茶会があってそこのご住職と逢うので、そのときに明日の拝観が大丈夫かどうか確認してくれるとのこと。シーズンオフに、たった一人で、若者が若狭の仏像巡りに訪れたことが余程嬉しいご様子であった。

さて翌日。
日本海の望めるホテルから散歩すること15分足らずで、紹介してくれた寺に到着した。
民家と合体したような、こじんまりとした寺の玄関を開けてくれたご住職は、小さな尼さんだった。
話は前日に聞いているから、とにこにこして本堂の厨子を開けてくれた。丁度イラク戦争が開戦した日で3月の末であったが、小浜の春は遅いから朝はまだ寒いでしょうとストーブも焚いてくれた。

 開けてくれた厨子の中は、金銅製の如意輪観音。坐像で、像高は記憶によると40cm程度。ご住職と同じようなまぁるい優しい顔をした、小さな仏だった。
出自は明らかではなく、恐らく平安末期であろうと推測されるシンプルな鋳造製で、思惟の指先も決して動き主張することはない。
言い切ってしまえば、美しく優しい仏像ではあるけれど決して秀でた名作という訳ではない。
それなのに記憶に残っているのは、ご住職のあるひとつのお話によるものだ。

 この仏像は、ずっと長い間秘仏だった。だから今でも、毎日厨子を開けっぱなしにはしない。
あるとき、奈良国立博物館への出品をどうにも断りきれなくなり、出品を引き受けることになった。
ご住職は、仏像が厨子から出されて、その代わりに狭い梱包に閉じ込められて、トラックに乗せられて長い道程を揺られ揺られするという状況を想像しただけで、その御身が心配で居ても立ってもいられなくなったというが、クーリエでもあるまいし、同行は許可されなかった。
そして寺の所用が一段落した日、普段あまり遠出をしないご住職が意を決して奈良まで足を伸ばし、展示されている如意輪を見にいった。無事に陳列されている如意輪を見て安心すると同時に、なんとも場違いな所に座らされてしまっている淋しさを胸にたいそう痛く感じたそうだ。
そしてそのとき、もう二度と他所に出品はすまい、と固く誓ったそうである。

 私は彼女の決心を是とも非とも云うことができないが、仏像とともに日々を暮らし、祈りを捧げ、お掃除をして供物を捧げつつしてきた彼女だからこその深い情と想いは、さもありなんと思う。
ご住職が仏像に捧げる、仏に対すると同時に、母が子を想うような情愛。
それだけのために、この寺を忘れることができないでいる。

充満寺(十一面観音)

2004-09-24 | 仏欲万歳
 滋賀の湖東は十一面観音の宝庫であるが、観光地としては開けていない。
当時、正しく貧乏学生だった私は長浜の小さな民宿に泊まっていた。
それが理由で、その日は朝から機嫌が悪かった。

民宿の風呂はどうやら経営する家族と兼用のようで、前の晩に風呂に入ろうと思ったら湯船に何か白いふわふわしたものが浮いていた。そして湯船に入ることを諦めた。
お手洗いにはスリッパがなかった。湯船と違って入らないという選択はできない。それでは自分が病気になってしまう。一旦部屋に戻って、靴下を履いてから改めて入ろうとした。するとタイミング悪く家族の誰かによってカギがかけられていた。
部屋は障子とガラスの引き戸によって仕切られておりカギがかからない。うつ伏せにごろんと寝転んで翌日の散策コースを検討していると、前触れもなく扉が開いた。結構な勢いで飛び上がって引き戸のほうを見遣ると、二歳児くらいの男の子が片手に破裂した饅頭を握りつぶしながら、そしてダーーーと嬉しそうに垂涎して叫びながら、テーブル脇の荷物に突進してきた。眩暈がしそうになるのをこらえて、私は荷物と子供の間にダイブして荷物と部屋が汚染されることを防いだ。

 不機嫌の理由は、まぁざっとこんなものだ。

不機嫌払拭のため景色でもよく見てみようと貸切タクシーには助手席に乗り込んで運転手さんには不審がられ、あまり順調なスタートではない。通常なら「美味しいものは最後に食べる」派の私としてはメインの仏像は最後にもってくるのが常であるが、この日は状況が状況なので、メインディッシュのひとつを予定の筆頭に組み入れた。それが充満寺である。

ここも湖北にありがちな小さなお寺だが、ささやかながら本堂がある。
しかし重要文化財を温湿度管理のままならない本堂に安置するわけにもゆかず、本堂脇に小さな庫裏のようなお堂があり「西野薬師堂」と呼ばれる。まるで御厨子のように小さなお堂には、手に薬壷を持たない薬師如来と並んで十一面観音がいる。奈良、聖林寺のひとりぽつねんと閉じ込められる収蔵庫を思い出すが、二人いるだけかろうじてお喋りができる分、淋しさも緩和されることと思う。

十一面観音の魅力は、一体ずつ全く趣が異なるところだと思う。
今まで何人か紹介してきた中で、充満寺の人はその寺の名が体を表すかのようにずっしりと骨格ができているうえに程よい中年腹が存在感を示している。年の頃、不惑といったところだろうか。

面長で頬の豊かな顔はくっきりと彫りが深く、知性に彩られた瞑想的な眼差しと和風アルカイックスマイルがとてつもなく私好みである。高めの宝冠をつけ、小さめの化仏はまるで冠の飾りのようで、バランスよく重みも感じさせずに頭部をリズミカルに彩る。肩に垂れる垂髪がないということは髪はすべて束ねられきゅっとアップになっているということで、更に瓔珞(首飾り)もつけていないので耳にはじまり襟足から首、肩のラインが涼やかに見え、胸元に至る曲線と肉感が強調されている。後代、衣を除く胴体(肉)部分に漆が塗られたことによってその艶と色味が黒人男性の肉体を連想させるうえ、一際厚い大胸筋とぽってりした初期ビール腹がなんとも云えず、男性的優しみに満ちている。
腰のひねりも僅かで腰回りはずっしりと太く、決して貧弱ではないであろう下半身の安定感が衣の上から想像される。しかし安定感を連想させるもうひとつの要素があり、それは平安期の特徴が顕著な衣文の様式である。派手に翻ることも、音楽的なドレープを奏でることもないそれは、魚の呼吸に合わせるように、また誰かが投げ入れた石の波紋が穏やかな湖面にさざなみとして広がってゆくように音も無く流麗である。派手とか地味とかいうカテゴリを超越した堅実なる優雅さが見受けられると云ってもよい。

右手は、だらりと掌を開いてしまうと開放的すぎると思ったかどうか、垂らした手先は中品下生印をとっている。人差し指や小指の先は僅かも反ることはなくまっすぐで、腕釧を付けた手首もあくまで太い。
左手は通例の如く宝瓶を持っている。否、彼の場合は、握っている。珍しく五本の指をぎゅっと丸めて、まるて槌かなにかを振り下ろしている最中のようにぞんざいに。だが観察をここで終えてはいけない。小指だけがごくごく気付かない程僅かに、ふわりと緩められているのだ。今まさに宝瓶を持ち上げ、もしくは持ち直した瞬間か、あるいは今まさにそれを我々のほうへと差し出してくれようとしているのか。
動作の始まりか終わりかのそのどちらかの一瞬が、その小指の「ふわり」に込められているのだ。

 媚びや飾りを敢えてむしり取ったあとに見えてくる上質な本質が香り立つ。
 女性的な小手先の色気を無視した、静かなる正統。

云うまでもないことだが、昨晩からの不機嫌はどこかへ飛んでいった。
というより、不機嫌だったことすら忘れていた。
 

羽賀寺(十一面観音)

2004-09-13 | 仏欲万歳
 さて、秋めいてきたことだし、小浜の港から日本海を眺めるのもいいだろう。
十一面観音巡りの途中だけれど、最初に「お水送り」の話をしたい。

 奈良、東大寺二月堂の「お水取り」は奈良市を代表する宗教&観光イベントとなってしまっており、意義や内容はさておきその行事の存在をご存知の方はかなり多いと思われる。では「お水送り」はどうだろうか。
お水取りは本来「修二会」の勤行の一部を成すものである。毎夜「神名帳」が読まれ、諸国の神々を勧請する慣わしがあったのだが、若狭の遠敷明神は趣味の釣り好きが昂じて遅刻してしまい、謝罪のしるしとして地に穿った穴から本尊に捧げる香水を捧げた、という話がある。その香水の水脈は小浜の神宮寺から地中を通って東大寺の二月堂まで延びているというわけである。
 若狭の港は、当時奈良や京都の都に最も近い港として長く栄え、若狭から都に至る琵琶湖沿いの街道には時代を先駆ける高度な文化や物資が行き来した。余談になるが、我が国に初めて象なる動物が上陸した港も小浜である。上記の伝承も、そんな奈良と若狭の密接な関係を暗示している。

 そんな訳で小浜には眼を瞠るほどの上質な仏像が人知れずひっそりと息づいている。
羽賀寺の十一面観音は、極めて上質な仏像のひとつに数えられる。
面立ちは、仏相手に失礼を承知で率直に云えば、私の好みではない。ちょっとだけオジン臭いのだ。
下膨れにちょっとたるんだ輪郭線に、嗅覚の鋭そうな小鼻の張ったくっきりと生々しい鼻、気付かないくらいに密やかに微笑むかの如く口角にきゅっと力が込められたぽってりと厚いくせに小さい唇。極めつけは目の形であって、細く開いた目は弓が弧を描くようで、全体的にみれば若干の吊り目なのに目尻は急激に垂れている。その複雑な感じが、コラーゲンを失って重力に負けた壮年の印象を与えるのかもしれない。眉は美しく立体的な弧を描き、対して目の下の膨らみは豊かというより硬く、細い目に沿って同じく細い一定間隔をもってこれもキュビックに切れ上がる。顔の造作の全てが奇妙に肉感的で、そのくせキュビックに昇華された表現を極めているのである。

頭上の変化面は小さ目で、浄瑠璃人形の首が軍隊の赤ベレー上部ぐるりに陳列してある感じだ。それぞれの頭部と頭部の間には丁度変化面頭部ひとつ分の間隔が開いており、スカスカした印象を受ける。逆さにして紐をつけてえいやと廻せば、赤子の揺りかごの上に天井から吊るされたおもちゃの裾が遠心力で広がっているさまにそっくりだ。念の為補足するが、悪口を云っているつもりは毛頭無い。

宝瓶を持つ左手の指先は至って静かであるのに、たった今ひょいと花瓶を持ち上げたばかりに見えるのは衣の動性が成せる技か。十一面観音の特徴でもある圧倒的に長い右手はだらりと真っ直ぐに垂らし、手首から先にだけ不自然に力が籠る。するりと落ちそうになる天衣を、手首を無理に反り返らすという最小の仕草でかろうじて留めている、という一瞬の不意。下々の人間に大きな隙は見せない彼らだけれど、手首に籠る僅かな隙がむしろ魅力を増す。
今後数百年経ったら、耐え切れなくていつかあの衣が床に落ちてしまう日が来るかもしれない。

 特筆すべきは、衣の表現力にある。
まず、近年まで秘仏であっただけのことはあり、全身の彩色は猛烈に鮮やかだ。藍やみどり、緋色、朱や白に塗り分けられた衣は、平安時代ならではの貴族的な上品さで無闇にひらひらと翻る訳ではなく、その身に添ってたらりと垂れる布地はシフォンのように薄くはないが上質な絹目のずっしりとした趣を匂わせる。
肩から細く垂れる天衣、胸下や腰回りに自由奔放にうねる布地のドレープは積極的な動性に満ち、貝の身のように生々しく艶めく生命感に溢れる。自らがそれぞれに自由意思をもって這い回る布の切れ端の全てが彩色されているところを想像して貰いたい。その異形的、妖怪的艶かしさは比類ない。

こんな衣類を牛耳るに相応しいのは、機知たけたマスターとしての観音であったとしても頷けるのだ。
若々しい少年や青年の手にこの衣は余りある。
妖艶な女性にはこの衣は重過ぎる。

上質で大人、違いの判る男による「崩し」の美学に彩られた、決して崩せない完成形。
一般的な男前でない故に、むしろ厄介なのだ。こういう男は。
顔の美醜などをものともしない本物のダンディ。


 

渡岸寺(十一面観音)

2004-09-08 | 仏欲万歳
 さて前回、「ちょっと異形系がお好き」告白をし、十一面観音でスタートを切ってみた。よってこの流れにて暫くは十一面観音ラッシュで参ります。彼らは「ちょびっと異形」のホープであります由。

渡岸寺(どうがんじ)は滋賀県、湖北の小さな小さなお寺。
琵琶湖が土地の殆どじゃないの?とつい考える滋賀県、しかし寺の数は奈良、京都を上回って日本一というから今となっては驚きである。
かつては、京都に最も近い港であった福井県の小浜から琵琶湖畔を下って大津もしくは比叡を抜けて京都へと至る街道は、大陸の新鮮かつ上級な文化がその純度を保ったまま伝えられるという超都会であった。
後世、寺社仏閣仏像僧侶が廃仏毀釈の憂き目に晒された際には、近隣の京都奈良から命からがら疎開してきた仏像が滋賀の山裾や川底などで隠遁生活をされていたと聞く。

 華やかな歴史と廃仏毀釈の憂き時代との二度に渡って滋賀県はその意義と重要性を立派に果たしてきており、そんな訳であるので仏像の安置されている寺が本堂のみの小さなものであったり、僧侶もおらずして蔵だけであったりすることも多い。所謂「トナリ組」のようなものが管理をしている蔵も多く、地図を頼って辿り着くと、その年の係りの人の家の電話番号が土蔵や木造の蔵、もしくは本堂?の入口に貼ってあったりする。そこに電話をかけて、鍵をじゃらじゃらさせて誰かが蔵を開けてくれるまでのんびりと待ってみる、という塩梅。渡岸寺は、小さな門から境内、本堂と繋がってきちんと寺の様相をしているだけ、見事と云えるのかもしれない。

 みうらじゅんの「見仏記」をお読みの方には馴染みであろうし、町田市の某美術館に勤務する学芸員の佐々木氏を知る方はまぁ少ないであろうが、兎に角ここの十一面は、彼らを悩ませてやまない永遠のアイドルなのである。8世紀天平時代の作で、これまぁどうしようもない程強烈に美しく、生々しく、「仏像」の概念を星一徹ばりに覆すには充分な威力を持っている。
まず、頭にくっついている(というより乗っている)変化面のサイズが大きい。殆どの十一面観音においては、結い上げた髪の周囲を変化面が囲んでいるという印象があるが、ここでは頭をふたつ重ねた高さよりなお高いところに変化面が突き出ている。それほどのボリュームの頭を支える身体は女性的で胸板は薄く、ウエストは見事にくびれていて、例えていうなら黒人女性的なバランスとリズム感に溢れている。ぐっと強く左にひねった腰、今にも前に倒れそうに前傾して天衣は極端に風で翻り、前方へのエネルギーのベクトルを感じさせる。たらりと垂らした右手は異常に長く溶け落ちるようで、宝瓶を支える左手の指先はなんと挑発的に反り返っていることよ!足元から首までの動性と線の細さを持ってして、何故にあれだけの頭部を抱えていてバランスが崩れないのか?その造形の美は完璧であり、もはや謎である。
ここは仏像がアクリルケースに囲まれている構造で、光背がないために横のみならず卑怯にも後ろからのお姿を眺めることができる。横から見たときの危うい前傾バランスが、真後ろに立った時点では全く失われ、腰にきゅっと力を込めてポーズをとる女性の色艶が際立つ。

纏うお洋服の背面のシルエットや歩き姿など、背後にまで凛と気を行き渡らせる女性はごく少ない。仏像界においても同じこと。ここまで完璧に背後をガードしている女性は、どれだけ美しくて色艶に溢れていても決して声を掛けることはできない。ゴメンナサイとすごすご引き下がるよりほかない。暴悪大笑面に嘲笑される不思議な快感。語弊があるのを承知で述べるが、この像の前では大概の煩悩保持者はマゾになる。そうあることを強いられる。「それでもいいか」と思ってしまう。

彼等は仏であるから、人間を超えて美しく、人間を超える知性を持ち、人間が及びもつかないほどセクシーだ。遥か届かないものを物理的に届く場所へと引き下げる「仏を彫る」行為の特権と倒錯的な陶酔を想像すると鳥肌が立つ。

井上靖「星と祭」で、この十一面と、そこそこ近場にある石道寺の十一面を比較し、それぞれの男性による感想を述べさせている。ここで詳細には触れないが、彼らが人間に与え続けてきたイメージがきっと古今東西たいして変わりなかったであろうことを伺わせる。

聖林寺(十一面観音)

2004-09-05 | 仏欲万歳
 まだ人間より怪獣のほうが怖いと信じていた幼い頃、ロボットとか怪獣とか恐竜とか好きだった人は決して少なくないはず。今でも「恐竜展」は黒字万歳の展覧会代表格と聞く。
私は比較的少年的趣向だったにも関わらず、そういう系には見向きもしなかったのだけれど、ただの遅咲きにすぎないこと判明。
今まさに、好きなのです。異形系。
十一面観音、愛染明王、如意輪観音、多面千手観音などなど。

 「夜目遠目ちょっと見、人間。よく見ると、おい違うじゃん。」
ていうのがどうやら私のフェティッシュ心をくすぐるらしい。

さて仏像テキストには「木心乾漆像」の代表例として取り上げられることの多い聖林寺の十一面。
蛇足覚悟だが、観音菩薩は海のような広く美しい心を持つ女性の例えともされるが、実際のところ性別はない。という訳で、女性的な観音と男性的な観音と、仏師のイメージによって偏りが発生する余地がある。
聖林寺のそれは、明らかに男性的な人である。しっかりした肩幅からゆるりと撫で肩のカーブが丸く流れて、ぱつんと張り出した若々しくまだ丸い筋肉を感じさせる胸板。さらに下方へゆくにつれ、不自然な程にくびれたウエストへ到達し、そのアンバランスに一瞬感じた躊躇を吹き飛ばすかのように腰から下と袖下の天衣が風に舞う。更に、全身を覆っていたヒビだらけの金箔が残っているために、若い男性的躍動感と滅びと侘びの美学がそこに同居することとなる。

注目すべきはその指先。初めて彼と対面した際に私は記録代わりのスケッチブックに、その宝瓶をそっと柔らかく持つ(というより支える)指先の繊細なカーブと、この像を見るのに最も美しく見える角度とポイントを明記していた。そこだけはもうどうしようもないくらい女性的で、どんな女でも、この彼よりも艶っぽく煙草をくゆらせることはできない。断言していい。

彼に逢うには、本堂を出て左手に伸びる赤絨毯に導かれて一段高いところの収蔵庫へゆく。くすんだ白い鉄の、重い重い扉を力を込めて引く。ぎぃ、という鉄に相応しい重い音が響き渡る。
すると、真っ暗の収蔵庫内に、私の立つ背後から日差しが一条に差し込む。
彼の姿が日に明らかになるにつれ、目に見えない一条の光が、今度は逆に私を刺し貫くように伸びるのが感じられる。
「ひさしぶり。」「またきたよ。」
いつも、そんな言葉を最初に掛ける。それほどに、暗く冷たい収蔵庫内を想像すると苦しい。
淋しいことに彼の光背は破損して失われてしまっているうえ、正面からしか見ることのできない構造の収蔵庫であるため、折角露出している暴悪大笑面を見ることはできない。背景の壁の白さ、見上げる自分の座る赤じゅうたんの暗さ、その間にぽつんとひとり立つさまが悲しくてたまらない。
最初にここに来たとき、無心で筆を執ったのはそのせいだ。
何年ぶりに逢う友人、次は何年後に逢えるか判らない友人の写真を急かされるように撮ってしまうように。
好きだけれど多分もう逢えない人の笑顔や仕草をひとつでもたくさん覚えておきたいと願うように。

「また、ぜったいくるからね。」
そして再びの暗闇。

六波羅蜜寺(空也上人)

2004-08-25 | 仏欲万歳
 ながいきんさんの寺ばなしに触発されてひとつ。
誰しも見たことがあるはずだ。中学の教科書かなにかで、口から苦しそうに六体の仏を吐き出している彼を。欠食児童のように華奢な小学生程度の身長で、片足を踏み出してなんとか踏ん張っているように見える。そして顎をぐっと突き出し、渾身の力でウエッとばかりに六体の阿弥陀仏を吐き出しているのである。
そのインパクトたるや、並みのものではない。

 空也上人はあくまで修行僧であって仏さまではないにせよ、日本でいちばん有名な仏像(とそれに準ずるもの)のひとつと考えられる。大仏も有名だ!と仰る方々も多くおいでになるだろうが、奈良の大仏と鎌倉の大仏の写真を背景なしで並べてみて、果たして何%の正解率が弾き出されるであろうか?更に面倒なことを云えば、奈良の人(仏だけど)と鎌倉の人は、別人である。片やビルシャナ。片やアミダさまである。

 さて、空也上人のどこが凄いかというと、まずはその理想化を最小限に留めた際どいリアリズム。見たものに「美しい」というよりはむしろ「ちょっとキモチワルイかも」と思わせる表現の厳しさがそこにある。その厳しさは、畢竟、上人の修行の苦しさでもある。
もうひとつは、阿弥陀仏の御名を唱えるという形にならない「音」を伴う行為を独創的な表現方法によって実現したという点。仏像初心者の友人を連れて行ったら、「針金出てるよ、針金。痛そ~。」と云っていた。針金を口から引っ張り出し、そこに念仏の文字数と同じだけの仏を連ねてしまったという形は、はっきり云って無理矢理ではあるが、なにしろ伝えたいことはよく判るし、胸を突かれるような強さがそこにはある。
 
 あの像を見た者の表情は二通りある。仏を吐き出すという想像を超えた表現と、全身から滲み出る苦しさの表現。
前者が勝れば、人は驚き、うまい言葉が見つからないので、笑う。
後者が勝れば、人の顔は上人と同じ苦しみに歪む。想像して、無意識に真似てしまうのだ。
両方とも、修行の苦しみと、その修行を続けた上人の偉大さとを伝えるには充分。

 この小さな彼を彫った仏師は、ただひとつ伝えたい美しい信仰という美徳のために、美しさとはかけ離れた表現方法を用いて、それに到達したのである。

新薬師寺(十二神将)

2004-08-16 | 仏欲万歳
 カーナビっていうのは、信頼するとよくない。
使い方と信頼度をよく判っていなかった私は、奴が指示する方向を友人に指示することになるが、そのうちやめた。
何故って。
 確かに目的地付近ではあるけどさ、そこで案内終了するなよ。
 駐車場まで責任もって連れてけよ。
 まだ到着してないんだから、帰路の案内とかするなよ。
 リルートするなら愚図愚図しないでしてくれよ。信号変わっちゃうじゃん。

まぁそんなこんなで。
新薬師寺の駐車場へは、7年前の私の淡い淡い記憶に頼って到着。

 新薬師寺がもつ独特の「胡散臭さ」は形を変えても健在だった。
門を入ってすぐ、正面の大層邪魔になる場所にあった
『圧感(ママ)!世界的国宝』と字が間違っているうえに世界と国とをごっちゃにして、概念まで間違ってる看板は撤去されていた。あれ、結構すきだったのに。しかも、新薬師寺は世界遺産のエリアから外されているけれども、東大寺とか興福寺とか、国宝で世界遺産の登録物件ってある意味「世界的国宝」なんじゃないの?そう思えば、あれは時代を先取りした新しい概念だったということか。返す返すも、看板撤去が勿体無い。

その代わりに、入り口には金と銀のカエルが鎮座していた。なになに。
『やさしく頭を撫でてやって下さい。無事カエル』
・・・勘弁してください。
霊験あらたかな薬師さんの寺、じゃないんですか、ここは。薬師如来と眷属の十二神将がびっちり揃っているというのに、両生類のカエルになんでわざわざお願いしなくちゃいけないの。

 まぁ、こういうのは新薬師寺のお約束なので、相変わらずお約束のシタールが奏でるムード音楽みたいなのが流れる本堂へ赴く。
眼病祈祷ということで、不自然なくらいアーモンド型のぱっちりとしたお眼を持つ薬師は、恐らくその眼のお陰で、「ドモ。」と片手を挙げて挨拶しても怒られなさそうな親しみ易さを感じる。如来さまは概して悟りの境地においでになるので、頼りにはなるがどうもとっつき難い印象を与えるものが多い中、ここの薬師は別格。下々の者にもにこっと微笑んでくれる懐の深さと人情が滲み出ている。貴重な文化財でなかったら、お手てを繋いでみたいくらいだ。

 十二神将は、もう云うことないよね。
天平時代の、ちょっと控えめな躍動感。鎌倉時代のように鉄パイプ振り回しているような恐ろしさはないけれども、懐の内ポケットに静かに手を入れるやんわりとした仕草が奏でる迫力、というものか。内ポケットに例えハンケチしか入っていないとしても、「ゴメンナサイ」って云っちゃう。
歌舞伎の見得の仕草は仏像から来ているというが、ここの十二神将を見ずして歌舞伎だけ鑑賞するっていうのは無粋というもの。見得の真髄というものをきちんを押さえるべきだ。

 十二神将の足元には、怪しい標語がある。いつもある。
胡散臭いというより、意味不明だったり不吉だったり、どこから拾ってきたのか判らない標語。
昔はよく記憶したりメモしたりしたものだったが。飽きた。

 いざ。世界的国宝たちが寸分の隙もなく護る、突っ込みどころ満載の寺へ。

浄瑠璃寺(九体阿弥陀)

2004-08-10 | 仏欲万歳
 六年ぶりに、また私はここへ来ることを許して貰った。
山のうえにひっそりと佇む小さな浄土、浄瑠璃寺。

 三重塔の中におわす大日如来の姿を拝むことはできない。紅葉に囲まれた塔を見上げ、現世のいろいろをお願いする。そして振り返る。
振り返った眼下には睡蓮の浮かぶ小さな池。池の向こうには障子の閉ざされた白壁の本堂がある。

 本堂裏側の縁を通って、自らの手で障子を開けて堂内に入る。
都合九間の横幅には不自然なほど奥行きの乏しいお堂は、礼拝堂としての機能を殆ど持ち合わせておらず、堂と須弥壇の一体化したまるで大きな厨子そのもの。本来なら、真っ暗な閉ざされた厨子の中に収まるのは仏像その人のみで、人間は厨子の外からその内部に想いを馳せるか、もしくは運良く扉の開いた厨子の外側からその姿を見ることができる。
 ここでは、その真っ暗な厨子の中に人間が足を踏み入れることを許され、狭く濃密な空間にほんの僅か残された床に座り、時間の止まった同じ空気を共有するような感覚に囚われる。障子を透かして堂内に注ぎ込む陽光が白さの眩しい化粧屋根にやんわりと反射して、おぼろに堂内を明るく包む。
 
 阿弥陀の九つの印相をそのまま九体の阿弥陀坐像に置換して表現された世界では、九人の結ぶ印相は同じながらも各自の表情や個性は全て異なり、それぞれ異なる仏師によって刻まれたことを伺わせる。それほど別嬪さんでも男前でもない九体並んだ阿弥陀の力は恐るべきもので、「大きくて美しいものが」「狭く閉ざされた空間に」「たくさん揃っている」という非日常空間の条件をこれだけ満たしていることが、圧倒的な存在感とリアリティーで迫ってくる。そのくせ、無性に居心地がいい。

 拝観者が素通りしてゆくお堂の中で、木の床にぺたりと座り込んで左右いっぱいに広がる阿弥陀坐像を眺め、また阿弥陀から眺められる時間は、人間の時間概念を脱却して厨子の中に流れる自分の知らない時間概念へ少しでも近づこうと足掻く試み。
私がいくら年をとっても、まるで数秒か数分しか経過していないような変わりなさで迎えてくれるお堂の中で、次に訪れるときまで私の息吹と感慨の切れ端がその空間の片隅に少しでも残存していてくれることを願う。

 また、遠からず逢いにきます。

円成寺(大日如来)

2004-08-09 | 仏欲万歳
大和の国の、柳生の里。
ようやく出遭えた、運慶20代頃制作の大日如来。彼には、以前に写真で見たときから恋をしていました。

 細めのなだらかな肩のラインに、智拳印を結ぶ控えめな肘の張りと、リアリティをかもし出す左右非対称な腕の高さ。若々しく理知的な顔は静かに、しかし厳しく思索をしているように薄い唇を引き結ぶ。
かつて身体を覆っていた金箔の殆どは剥落し、漆地が覗いている。そのまだらな感じが写真では一種無残な印象を与えていたが、実物からは悲惨な印象は別段受けず、まったく動きのない沈黙と静寂の思索の中にあって、体躯の薄皮一枚を隔てた中に混沌と有り余る若き知性とエネルギーが渦巻いているような、決して目を逸らすことを許されない強烈な個性を滲ませている。私にとって特別な光を放つ像であった。

 金堂には、阿弥陀如来坐像を囲んで、内陣柱の向かって右と左の手前から奥に向けて2本ずつ計4本の柱に、室町時代の聖衆来迎図が描かれていた。平安後期から図柄があったと云われているが火災のため、今ある柱絵は室町時代のもの。須弥壇の中央におわす阿弥陀如来と、それを囲む柱で三次元的に阿弥陀聖衆来迎図を立体表現するという大変珍しい表現方法に素直に驚嘆した。
 
 ゴージャスに舞台までついている金堂に入堂した往時の人々が、丈六の阿弥陀と、それを囲む極彩色の菩薩や天人が舞い飛ぶ柱を目にし、この山裾の寺で、庭園の池に咲いている睡蓮のほとりで、どんな夢をみたであろうか。
連れが一緒でなかったら、泣いてたかもしれない。

安倍文殊院(文殊菩薩)

2004-07-29 | 仏欲万歳
 もう7、8年前のことだろうか。願掛けを滅多にしない私が、寺で絵馬を奉納した。願いごとは「大学院合格」。
今になって思えば、何年次に、どこ大學のどんな研究科に入りたかったのかをきちんと記述したというはっきりとした記憶がない。その年の大学院受験には見事不合格だったのであるが、そんな記憶も薄れた今年になって社会人を辞め、今更大学院生となってしまった。
当時、絵馬を吊り下げるフックはもはやいっぱいいっぱいで、絵馬が滑り落ちることのない場所を探すのに一苦労した思い出がある。文殊菩薩の前にできた長蛇の列の順番が、何年もたってようやく自分に回ってきたということで納得したい。

 さて、遅ればせて本題に移る。
今後、ここで卑俗なまなざしで私に見られた仏像の話を時たますることがあると思う。歴史的な事実はものの本にいくらでも書いてあるので、これを書く間は敢えて本を開くことはせず、印象と感動と薄ぼんやりした記憶に頼って書いてみることとしたい。

安倍文殊院の文殊菩薩は、獅子座の足元からの像高約7メートルもある巨大木彫仏。快慶「らしさ」をぷんぷんと漂わせた「短距離走らせても速い文科系秀才」なんて感じの、躍動感と静的な知性とを同居させたきりりとした面差しの文殊に、かなりお高いところから見下ろされる快感。獅子は向かって右に顔をぐんと振って風を起こし、いまや足元の卑俗な者々を威嚇したばかり。
掲げる剣はまるで女王様がしなる鞭を構えているかのような隙のなさで、見上げる下々の私どもの口に出せず心に願うだけの欲求や祈りを透徹とした瞳で全て見透かす。俗人ではない尊いものに見詰められ、見透かされ、見出される快感は、はかりしれない。

仏(ほとけ)には触れないが、仏像には触れることができる。
見ることができる。記憶することができる。
ならば、記憶の中に美しい数々の仏像たちをとどめ、本棚に飾るようにその姿を鮮明にするために何度でも逢いにゆけばよいではないか。