Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

浄瑠璃寺(九体阿弥陀)

2004-08-10 | 仏欲万歳
 六年ぶりに、また私はここへ来ることを許して貰った。
山のうえにひっそりと佇む小さな浄土、浄瑠璃寺。

 三重塔の中におわす大日如来の姿を拝むことはできない。紅葉に囲まれた塔を見上げ、現世のいろいろをお願いする。そして振り返る。
振り返った眼下には睡蓮の浮かぶ小さな池。池の向こうには障子の閉ざされた白壁の本堂がある。

 本堂裏側の縁を通って、自らの手で障子を開けて堂内に入る。
都合九間の横幅には不自然なほど奥行きの乏しいお堂は、礼拝堂としての機能を殆ど持ち合わせておらず、堂と須弥壇の一体化したまるで大きな厨子そのもの。本来なら、真っ暗な閉ざされた厨子の中に収まるのは仏像その人のみで、人間は厨子の外からその内部に想いを馳せるか、もしくは運良く扉の開いた厨子の外側からその姿を見ることができる。
 ここでは、その真っ暗な厨子の中に人間が足を踏み入れることを許され、狭く濃密な空間にほんの僅か残された床に座り、時間の止まった同じ空気を共有するような感覚に囚われる。障子を透かして堂内に注ぎ込む陽光が白さの眩しい化粧屋根にやんわりと反射して、おぼろに堂内を明るく包む。
 
 阿弥陀の九つの印相をそのまま九体の阿弥陀坐像に置換して表現された世界では、九人の結ぶ印相は同じながらも各自の表情や個性は全て異なり、それぞれ異なる仏師によって刻まれたことを伺わせる。それほど別嬪さんでも男前でもない九体並んだ阿弥陀の力は恐るべきもので、「大きくて美しいものが」「狭く閉ざされた空間に」「たくさん揃っている」という非日常空間の条件をこれだけ満たしていることが、圧倒的な存在感とリアリティーで迫ってくる。そのくせ、無性に居心地がいい。

 拝観者が素通りしてゆくお堂の中で、木の床にぺたりと座り込んで左右いっぱいに広がる阿弥陀坐像を眺め、また阿弥陀から眺められる時間は、人間の時間概念を脱却して厨子の中に流れる自分の知らない時間概念へ少しでも近づこうと足掻く試み。
私がいくら年をとっても、まるで数秒か数分しか経過していないような変わりなさで迎えてくれるお堂の中で、次に訪れるときまで私の息吹と感慨の切れ端がその空間の片隅に少しでも残存していてくれることを願う。

 また、遠からず逢いにきます。

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