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白川古事考 巻ノ二(全)廣瀬典編<桑名図書館蔵>に触れる

2019-03-15 21:20:18 | 歴史

桑名図書館の了承を得て掲載しています。

和歌のかなには現代語に近づけるため、濁点を入れたのがあります。歌の気品を損ねるかも知れません。


白川古事考 巻之二 (1) 

   関門起廃  関の和歌附き
一、東鏡に「阿倍頼時南郡を掠めて領とし、西は白河の関を境に二十四日の行程、東は外浜によって又十四日の行程」とある。又同書に中尊寺建立のことを記して、「寺塔四十余宇禅坊三百余宇也。清衡六郡を管領する最初に是を草創する」とあり、先ず白河の関より外浜に至る迄二十余日の行程である。その路一丁毎に傘卒塔婆を立てて、其の面に金色の阿弥陀の像を描く(今、白河郡旗宿村の土民や下仏と唱える碑に基づく)。これ等は正しい書において「白河の関」が見えてくる始めであるが、土人に伝わる『白河古伝記』と云う書には、『藤原清衡の子基衡が鎮守府将軍としての頃、国が乱れていたので奥州の入口である白河に関を据えて野州を押さえ、また棚倉大垬へ関を据えて常陸下総を押さえた。両所に明神を祭り「関の明神」と崇め奉る。是を白河二所の関と云っている』年歴を以て考えると関の始めは基衡より早いのである。

 平兼盛の歌にも見えるが、関の設けは古鎮守府将軍であった人が、奥州一国の境界を固める為に置いたものであろう。〈按=旧事記に「志賀高穴穂朝五十有三年秋八月丁夘朔天皇欲巡狩日本武尊所平諸国冬十月従海路己而幸常陸尚到白河関」とあり、この時すでに関の名称としてあるのだが、実際には孝徳帝の朝に三関を置かれたことが関の始めとなっている。且つ旧事記は偽作の説があるので、固定せず疑うべきである。然しながら諸国の関に比べれば、施設も堅固にして名も秀でていることから唐土までも聞こえたらしく、明の太祖が僧無一を我が国へ遣わす時に、僧一初めの送別の詩(全詩甚だ長く本朝通鑑に見えている)に「白河関高玉縄下」の句あり、また京都智積院泊翁和尚は博学の人で、その文中(谷響集にあり)に、唐土鬼門関の事を引いていて、「日本風騒士以奥州白川関在東北隅称鬼門関蓋取名於交趾矣」とあり、又この関を二所の関と云うのは、四国雑記に『白川二所の関に至る』とあるので、足利の頃唱えた名称だとは思うが、然しその頃はもはや関は廃されているので、二所とは古伝記に言う如く旗宿と大垬を言うのでなく、旗宿村の首尾に関門二カ所を設けて旅行く人を改め、非常を戒めて、一重の関ではない二重の厳重な関であったが故に二所の関と言われるものである。

 大垬の方にも僅か六、七丁を隔てて、上の関下の関と唱える地がある。是もまた旗宿と同じ姿で二所に関門を作っている。今の官道白坂の土人は、旗宿の古道と白坂の官道とが「二所の関」であると云うけれど、今の官道には関があったとも聞かれず、遺趾と思しき地もない。恐らくは否定されるものだろう。
そうは云うものの昔の白坂は、今の駅よりは半道ばかりも西の方に所在して、その辺りを古ノ宿場と言っている。その界を越えれば下野の木戸村、戦村と云われ、那須家が白河と戦争した当時より名付けたものである。しかし、この道筋にも遺趾と思しき地はない。二所の関とは一カ所に二重に作ったものと定められて、殊に関跡の紛れもないのは旗宿の関跡であり、土地の形勢もこの処を括れば、行旅も俄に外の道へ避ける岐路がない。
 その地の見付に関山横はりと言って、蝙蝠の翼を打ち伸ばしたように、柵がぐるりと張り付いていたこと、また義経朝臣の旗立て桜や家隆卿の二位殿の杉、義家朝臣の母の衣掛楓等々古木が生い茂り、白河の流れも此の地より出て東流していることなどから、老公(定信公)は諸臣に命じて考察をなさせ、此の地の関址であると標し碑を立てた。碑表には「古関蹟」の三字を大書し、裏には左の文を刻み込んで表出なされた。

  白河関址堙没不知其処所久矣旗宿村
  西有叢祠地隆然而高所謂白河達其下
  而流鳥考之図史詠歌又徴地形老農之
  言此其為遺址較然不疑也廼建碑以標
  鳥爾
  寛政十二年八月一日
   白川城主従四位下左近衛兼越中守源朝臣定信識

関を廃した年の何時であるかは定かでないが、和歌をとおして考えると平兼盛の歌に
 「みちのく白河の関こえ侍るによめりける」として

 便りあらはいかて都へ告げやらんけふ白川の関は越えぬと

また能因法師の
「都をば霞と共に出でしかと秋風ぞ吹く白川の関」この歌は、京都において詠まれたものであり、詠んでから白川の地を通過しないのは無念だとして陸奥に下ったともみえる。中古歌仙三十六人伝という書に、「竹田大夫国行者下向陸奥之時白川関殊刷之間人奇問其故答曰古曽部入道」(能因法師号古曽部入道)とあり、秋風そ吹く白川の関と読まれる所である。争点でもあるが、過ごす哉と言っているように見えるので、能因も実際にこの地へ下り、国行も同じように関路を過ぎたのだと思う。この時は関が存在していて、実際に見て奥に下ったものと思われる。その後鎮守府の任が廃されてから、この関門も設けなくなったのである。文治五年頼朝卿が奥州征伐に赴いた際に、泰衡の兵が此の地まで進めて防戦したと聞く。泰衡軍は仙道七郡、会津四郡、岩城四郡等を戦いの前に捨てて後退し、自ら敗戦に屈したのは、伊達の大木戸を限りに打出る事もない、泰衡兵の拙い謀り故であろう。泰衡亡き後に白河郡を始め仙道会津岩城をも勲功の賞として諸将に賜わったのは、それらの地が泰衡の管内であったことを知るのである。

元より山河の険しい処なので、その時に到る迄も朝夕に関が堅固であったのでは、此の地に一戦あるに相違ないから関を早廃したのである。梶原源太が頼朝卿に従って関の明神に在るとき、頼朝卿が「今巳に秋の始めなり、能因法師の古を思い出でざるか」と問えば、景季は馬を控えて「秋風に草木の露をはらわせて君が越えれば関守もなし」と詠み応えたことにもとづけば、関の存在の有無は計れないが寂寞とした様が思いやられ、明神の社のみ残っていたように覚える。

西行法師は修行のために、陸奥へ罷り来て白河の関に留まるが、所が処だけに常よりも月の面白くアワレに感じて、能因の「秋風そ吹く」という御歌の秀逸であるのを思い出され、名残り惜しいので関屋の柱に書き付けた。

「白川の関屋を月のもるからに人の心はとまるなりけり」

また建治三年の秋、一遍上人が奥白河の関を通るときに、西行法師の歌を思い出して関屋の柱に書きつける。

「行く人を弥陀のちかいにもらさじと猶こそとむれ白河の関」

と詠まれる類いは、未だ関屋は荒れながらも残っていたと思えるが、古は風流だとしても関門の吏が厳然として存在し、誰何して詰問すれば、かかる物哀れなる道心者の筆をとって関門の柱に文字など書き残すのはどうかと思われる。であるから関の設けは廃して家屋の壊れるままにしていたのであろう。文治五年結城氏がこの郡を賜わった後に城を築き、城を以て奥州の咽喉を制すれば、区々の仕切り関門のくびきで、國の柵鎖にする必要はない。その時に廃されたのである。

一、東鏡正治二年に工藤小次郎行光の郎従、藤五藤三郎兄弟が奥州の所領より(按=工藤左衛門尉は泰衡追討の功により、その子孫は天正の頃まで安積郡を賜わり相続していたこと、仙道表鑑に見える)鎌倉へ参向する時に白河の関の辺りで、御使が芝田(按=柴田郡を領していた人)を追討されるべきだと聞き、その処より駆け還り合戦を交え、彼の館の後ろから無数の矢を射る。又暦仁二年正月十一日今日、陸奥国の郡郷所當の事で沙汰あり。これは準布の例で沙汰人百姓らがワタクシに本進の備えを忘れ、銭賃を好み所済の貢年を追って不法があったと、その聞えがあるので「白河の関」より東は、下向する輩の取り持ちにおいては禁制に及ばず、また絹布粗悪がはなはだしいと言われぬように本のように弁済すべき旨を定めた。匠作の奉書を以て前の武州へ触れ仰せつけられると見える類いは、関門が廃された後ではあるが、「白河には関々」と喚く人の口吻癖になっているので、ついつい白河の関などと言ってしまうことから、冊子にも記すようになったのであろう。太平記にも白河関とあるが其の類いである。

一、古今の人の歌を読んで「白河の関」などと言うのは、些かこの地の事実にも精通せず、詩の品につられて言い出したが、自ら功名心で土地の光にもなり、好古の心を漏らすつもりもないので左に記す。

前の大納言公任集にミチサダが陸奥に下るとき、女の式部が遣わした歌を聞き給いて
 「今更に霞ヘたつるしら河の関をはしめて尋ぬへしやは」

橘為仲朝臣集に、十一月七日白川の関を過ぎ侍りしに雪降り侍りしかば
 「人つてに聞き渡りしを年ふりてけふ雪すへぬ白河の関」
また同集に白川の関をいつるあいたもみちいとおもしろし
 「紅葉々のかるるおりにや白川の関の名をこそかわへかりけし」

新和歌集に権中納言少将にて宇都宮へ下る時に侍り、ついに白川の関に侍りて
 「白河の関のあるしの宮はしらたか世に立てしちかひ成らん」

後拾遺集   民部卿長家  中納言定頼
 「東路の人にとはゝや白川の関にもかくや花の匂ふと」
 「かりそめの別れとおもへと白川の関とゝめめは泪なりけり」

内裏名所百首  建保三年十月二十四日 作者

  女房順徳院  僧正行意  参議定家卿
  従三位家衡卿  俊成卿女  近衛内侍
  宮内卿家隆朝臣  左近衛中将忠定朝臣
  前丹波守知家朝臣  前丹後守範宗朝臣

  散位行能       蔵人左衛門少将藤原康元
 便りあらば都へ告げよ雁金もけふぞこへつるしら川の関
 東路やまた白河の関なれどかぞえしままの秋風のころ
 白河の関の関守いさむともしぐるゝ秋の色はとまらず
 道のおくしらぬ山路をかさ子きて夕霧深し白河の関
 何となく哀れぞ深き行方もまた白河の関のゆうぎり
 あわれさはいづくをはてと白河の関吹きこゆる秋の夕風
 白川のせきの紅葉のから綿月にふきしく夜半の木枯
 染あへぬ木の葉やおりる秋の霜けさ白川の関の嵐に
 行くまゝに秋のおくまで白川の関のあなたにしぐれ降なり
 白川の関とは月の名なりけりあくとも秋のかげを留めよ
 秋霧の朝たつ山路はるかにも来にけり旅の白川の関
 ゆく末もまた霧ふかき夜をこめてたれ白川の関路越ゆらん

詠千首和歌
   関路秋風      藤原試験
 越へぬより思うも悲し白河の関のあなたの秋の初かぜ

新和歌集
   題しらず       有尊法師
 白河のせきもる神も心あらば我が思うことの末とをさなん

丹後守為忠朝臣家百首
   
関路帰雁       少納言藤原忠成
 きく人ぞ立ちとまるける白川の関路もしらずかへる雁金

木工権頭為忠朝臣家百首
 白川の関をば春はもらしかし花にとまらぬ人しなければ

俊成卿文治六年五社百首
 月を見て千里の外を思うにも心ぞかようしらかわの関

最勝四天王院障子和歌  建永二年
  御製     大僧正慈円  大納言通行
   俊成卿女  有家朝臣  定家朝臣
   家隆朝臣  雅経  具親  秀能

 雪にしく袖よ夢路よたえぬべしまた白川の関のあらしに
 初雪に冬草わくる朝ぼらけおくぞゆかしき白川の関
 白川の関の秋をばきゝしかど初雪わくる山のべのみち
 そことなく山路も雪に埋もれて猶たのみこししらかわの関
 五月雨のふる里とをく日数えてけさ雪深し白河の関
 くるとあくと人を心におくらさで雪にもなりぬ白河の関
 けぬかうえにふりしけみゆき白川の関のこなたに春もこそたて
 おもいおくる人はありとも東路やみちのおくなる白川の関
 陸奥のまた白河の関みれば駒をぞたのむ雪のふるみち


歌合  健保五年十一月四日  実氏卿
 残りける月のひかりのおくもみつ雪にやとかる白川のせき

同書に            高倉
 降りつもる雪をさながら照らす月こよいなりけり白川の関

豊原統 秋自歌合に  明応頃の人
 月影もいく有明にめぐりきてけふ白川の関のあき風

新後撰集           藤原頼範女
  みちの國へまかりて詠み侍る
 音にこそ吹くとも聞かし秋風の袖になれぬるしらかわの関

隣女和歌集に
   聞恋
 白河のせきのあなたにありときく壺のいし文いかで蹈みん

道助法親王家五十首和歌に
   開花          西園寺入道太政大臣
 山桜花の戸さしを明けそめて風もとまらぬ白川のせき
 色みえぬ花のかのみやかようらん雲にとじたる白河の関
 白川のせきのしがらみかけとめて花をさそいて春ぞくれ行
 ちらぬまはみすてゝ過ぐる人もあらし花にまかせよ白川の関


玉葉集           法師任齊
 越来ても猶末とをし東路の奥とはいわし白川の関

李花集 宗良親王の御集
   中院准后歌見せ侍りしにいつ方も道ある
   御代にちかければ又もこへなむ白川の関とありしそばに
 道あれば又も越なんと誰もみなけに白川の関路まさしき

金槐集 源実朝公の集
 東路の道のおくなる白川のせきあへぬ袖をもる涙かな


大蔵卿行宗卿集に

   関路深雪
 雪つもる庭にそしりぬいとゝしく猶やそふらん白川の関

源頼政集に
   於法住寺殿三熊野詣候間人々歌合わせられしに関路落葉を
 都にはまた青葉にてみしかとも紅葉ちりしく白河の関
藤原ノ光経の集に
 旅人のまた跡付ぬ雪のうえに月の光もしらかわのせき

祐子内親王紀伊の集に
 越ぬよりおもひこそやれ陸奥の名に流れたる白川の関

源孝範の集に
 白川や桜に春のせきならんこれより花のおくは有とも
 面かげは身をもはなれずなれ々て別れしかたはしらかわの関

源直朝の集に 文明頃の人
 あわれにも行年波は白川の関とめかたき旅のそらかな

正広日記に
 ふしはみつ又もそ思ふ秋の風きかはやゆきて白川の関

雲葉和歌集に
   法性寺釣殿にて歌合侍りけるに関路落葉を
              俊成卿
 色々の木葉に路も埋もれて名をさへたどる白川の関

実方の集に
   白川殿にて道つな少将せきとふしたるによりて
 いかでかは人にかよわんかくばかり水ももらさぬ白河の関

重之の集に
   はこかたのいそにて京にのぼる
 白河の関よりうちはのどけくて今はこかたのいそかるゝ哉

藤原雅経冬日詠百首
   神鏡通
 思ひ立つほどこそなけれ東路やまた白川の関のあなたに

高大夫実無の詠百寮和歌
   按察使
 奥深き人の心は白川の関しなけれは終もしられん

続詞花集に          藤原季通朝臣
 見て過ぐる人しなければ卯の花のさける垣根や白川の関

千載集   左大弁親家   僧都印性
 紅葉はのみなくれないに散りしけば名のみなりけり白川の関
 東路もとしも末にやなりすらん雪ふりにけり白川の関

続古今集    寂蓮法師  藤原季茂  従三位行能
 逢坂をこへたに果てぬ秋風に末にぞおもへしらかわのせき
 都出て日数は冬になりにけりしぐれて寒き白川の関
 おなじくは越えては見まし白川の関のあなたの塩釜の浦

続拾遺集    津守國夏  観意法師
 白川の関まで行かぬ東路も日かずへたれば秋風ぞふく
 夕暮れは衣手さむき秋風に独りやこえんしら川の関

続千載集           源邦長
 秋風におもふ方より吹き初めて都恋しきしらかわの関

続後拾遺集  大江貞重  津守国助  源兼氏
 別れつる都の秋の日数さえつもれば雪の白川のせき
 都出て日数おもへば道遠し哀へにげるしらかわの関
 限りあらばけふ白川のせき越えて行はへ越える日数をそしる

新千載集           澄空上人
 光台は見しは見しかはみさりしに聞きこそ見つる白川の関

新拾遺集           丹波守忠守
 今宵こそ月に越えぬる秋風の音のみ聞きししらかわのせき


新後拾遺集          左大臣
 都をば花を見捨てて出でしかと月にぞ越える白川のせき

拾遺集            源満元
 へたて行人の心の奥にこそまた白川のせきは在りけり

新拾遺集           西行
 都いでて相坂こへしおりとては心かすめし白川のせき

               後九条前内大臣
 秋風にけふ白川の関こへておもふも遠しふるさとの山


 (連綿と続きますが「白川の関」の歌はこの辺で終ります。)

 

 白川古事考巻ノ二 2 


一、続日本紀
仁明帝承和三年春三月巳丑詔奉充陸奥白河郡従五位下勲十等八溝黄金神封戸二烟以応国司之祷令採砂金其数倍常能助遣唐使之資
(按=この時の遣唐使は藤原当嗣、小野篁である)承和八年三月癸巳奉授陸奥勲十等都々古和気神従五位下、とあるのが白河郡の古に見える始めである。

一、類聚国史斉衡二年二月陸奥永倉神列於宮社(按=この社を白川の神と知るのは、承和斉衡の後に撰ばれた延喜式に、白河の外他郡にはこの神名が無いからである)

一、延喜式神名帳白河郡七座
都々古和気神社(名神大)  伊波止和気神社  白河神社  八溝嶺神社  飯豊比賣神社
永倉神社  石都々古和気神社
また同書、名神祭二百八十五座の内に奥州の都々古和気神社一座あり。
 按=都々古和気は南郷の八槻と馬場に祀る。八槻は大善院別当で、馬場は面川大隅神主不動院別当である。大日本国一宮記に都々古和気は大巳貴男高彦根を祭ると見え、また神名帳頭書にも都々古和気は味耜詑彦根とあり、大善院縁起の略に『日本武尊為東夷征伐下向し玉い、八溝山の戦場へ出現し三神の面足尊、惶根尊、事勝國勝長狭命を加勢に勧請して地主は味耜高彦根である。後世になって日本武尊をも添えて祭る。地名の本の名は矢着(やつき)と云い、寛治年中陸奥守源義家朝臣は参籠して勝軍を祈願し、八本の槻木を神庭に植えて奉ったことから八槻となった』とある。

また、義家朝臣帰洛の後に勅命によって近津大明神と号し奉った。寛永二年八月正一位の勅許あり、祭式も年々数度に及ぶ。神主は古くは高野氏であったが(高野の地であるが故に高野姓を名乗ったものか)八郎永廣という者に至って今の別当兼良二十世の祖、二階堂左衛門大夫高盛=法名淳良に譲ったと言われる。次ぎに載せる文書によって如何に古社であるか知るであろう。「太閤秀吉公小田原へ向わせ玉いし時も、大善院良幹が参向して施薬院(秀吉公の出頭人)に就いて有明の牡蠣を献じた。殊印書を賜わり石田三成の添え書きもある故、この辺の白川石川などでの大名では所領を失ったとはいえ、神領は全く温存して、今も御朱印二百石を有する御供鉢の銘には(次のようなものもある)

敬白
奥州高野郡南郷八槻近津宮
奉造立  御鉢
大旦那   沙弥道久 結城満朝之
      橘氏女 (斑目氏か)
千代松

沙弥宗心
別当良賢
聖越律師長栄
大工沙弥勝阿弥
応永十八年大才辛卯十月十五日

又馬場の説には異聞があり、
崇神天皇御宇肥前松浦庄近ノ津という所に、面足命煌根命両神を奉祭する故に近津明神と云うのがあり、後に慶雲年中に常州久慈郡保内領(別巻に論じる。この節は奥州白河郡の内であろう)池田鏡山城主池田三郎富淂が八溝山の悪鬼を平らげた折り、夢中に白羽の矢を授け、我は近津明神なりと告げた。帝聞き召して近津の社を東奥へ遷させられるとある。これは神主面川大隅正伝来なり。また不動院の説は大抵大善院の説と類を同じくして、神徳は誠に千度戦うとも千度勝つとされ、天喜年中源頼義朝臣が東国在陣の時、神徳を崇め是を「千勝大明神」と称えられる。相続いて義家朝臣寛治年中に神前で、軍馬調練をしたことにより馬場の地名が起きた。この社、本は北郷三森村(馬場より二里北に有り)の山都々古和気社を大同年中に伊野庄(今の棚倉の地)へ遷移したと云い、(按=伊野庄、古い書に笹原ノ庄伊野村とあり、笹原庄とは白河城中笹原清水という名水も有り、白河も笹原の庄である由の言が伝わるけれど今は考慮しない。伊野庄は高野の部に載せた仮名文書イノヽカウトという地であり、和名抄の入野である)馬場の社が三森に在した時の神領と思われる郷名が、当今の社郷と呼ばれるところ。和名抄に云う屋代とは文字を糺さずに唱えるままに載せたが計り難い。元和八年に至り丹羽永重朝臣が常州古殿より此の地を賜わり、社地を今の地に方八丁計り寄付して遷し、跡地を城地とした。馬場は御朱印百五十石を賜わった。
此の社の文書も得たので下に載せるが別の項目とする。馬場は近津上宮と称しているが、昔奥州の内にあった常州依上に近津下宮があり、馬場は上下の宮なれば八槻は中央の社となるではないか。

 また、此の神は奥州の一宮であることは顕然としているが、仙台の塩釜明神を一宮と仰ぐ者もいる。恐らくは伊達家より東福門院へのお答えの中で、奥州の名所は封内にも多く有りと申し上げたことに因るようだ。(野田の玉川が今、名城に在るのは実際にこの玉川であり、「桜岡人不忘の山」が今、実際には白河に在るのを仙台という類いである)一宮もその類いであろう。然しながら諸国の一宮は国府の程近き所に多く在るものだが、近津は國の端に在しているものの、名神大である故に一宮と崇められているのか、又は白河結城が全盛の頃に陸奥に並びなき権威が有って国府に移譲されることもなかったと云うことか。

伊波止和気]今は所在不明。神名帳頭書きに「伊和古和気は手力雄命」とあり、萬多王姓氏録の河内国神別の内で、多迷連の下の注に「神魂命児天石都倭居命(あまいそつわけのみこと)之後裔也」とあって、上古に手力雄命には違いないが、何故に白河に祭られるかは計り難い。

白河]今、白河城東に鹿島と言い伝わる吉田家では、「根田村鳥子明神を白河神社に定め置かれる」とか、何の証拠が有って不詳白河神社を鹿島と改め祀っているかと言えば、常陸国と接しており鹿島は東方の大社であって威徳も異なり、衆人は信仰の渇望のあまり後年に移し祭ったものと思われる。此の類いは白河の鹿島のみならず、同郡飯土用村の鹿島は式内飯豊比賣神社であり、岩瀬郡桙衝村の鹿島も桙衝神社である。白河神社と同じ一般のことであろう。その証しを揚げてみるが、三代実録貞観八年(延喜元年より三十五年前にあたる)奥州にある鹿島社を載せて云うには、「正月二十日常陸国鹿島神宮司言大神之苗裔神三十八社在常陸国菊多郡一、盤城郡十一、標葉郡二、行方郡一、宇多郡七、伊具郡一、亘理郡二、宮城郡三、黒川郡一、色麻郡三、志多郡一、小田郡四、牡鹿郡一、と悉く郡々を挙げて記している。然しながら白河や岩瀬を言っていないのは古に鹿島ではなく、神名帳に載せていた儘の神であったからであろう。

 土人は源順の歌、「つらくとも忘れず恋しかしまなる逢隈川のあう瀬ありや」これを証しとするが、亘理郡の鹿島においても此の歌を引証しているので、白河の証しとは言い難い。別当最勝寺観音は仙道の札所であるが、三重塔は結城親朝の父宗広の為に造営したと言われる。

八溝嶺神社]始めにも載せたが黄金神である。黄金を初めて世に出した人を恵み祀った神であろうか、今、二座を祭る。山王大巳貴命と日本事代主命である。此の山は今、常陸、下野、陸奥三国の堺にある。絶頂の社の東南は常陸であり、西南は下野、社の後ろより北側は陸奥である。古の保内が陸奥に隷していた時は全く奥州の内にあった。白鳳十一年役行者が開基して仁明天皇勅願所(前に載せた遣唐使の黄金を出したことに因るか)である。日光権現の宮は水戸家により造営され、箱棟に葵の紋をつける。一の鳥居は、下野黒羽領主大関家が建てられた。山王の祠は棚倉の領主代々が建立して、太田家まで箱棟に桔梗紋をつけて修造していたが、小笠原家に至り山下の村落御代官所となり、建立の縁故が無くなって是れも水戸家の建立となるのである。奥の院は観音仙道の札所であり、別当上ノ坊光源院と言う。

飯豊比賣神社]白河城北二里、飯土用村の鹿島が是れであると伝わるが、別に考えるところもなし。

永倉神社]白河城乾の方(北西)長坂村熊野相殿に祭る。長坂村は元永倉村だと土人の言い伝えがある。

石都々古和気]今、石川郡須釜村八幡である。神主所伝に寛喜三年領主石川肥前守光衡の命にて此所を選んだという縁起あり。内大臣鎌足公、常陸より奥州へ越えて、草中に一つの筒を見つけた。自ら破って中を覗くと魂子があった。虚空に光を発し、「我は炎神なり」と云う。神姓を問うと「高彦」と答えた。味耜高彦根であろう。山の名を筒子山と云い、鎌足公の名に因って村里を筒鎌と言うようだが、縁起文長の疑うことも多い。別に一考あり、試しに採録してみよう。此の祠を中央と見て前に石前(いわさき)郡あり、(或いは中古より岩崎と作るものあり、同訓で用いたもので岩前というのもある)後ろに石背郡(今の岩瀬)あり、又岩城郡は石ノワキとの事である。疑われるかも知れないが、此の神の鎮座の頃は此の地一帯が石何とか云われる所で、近郡をも総てこの様であるから、近郡の名も之に基づいて起こったと思われる。石川にしても石の緣があるのではないか。古い証文の不足が口惜しい。また同村大安寺文書の炭釜に作る塩竈明神の類いで、此の神始めて炭作りを人に教えられた事に因る名ではないか、
文書を出して証しとする。(炭釜=塩釜に於ける石川氏同族の領地争いを、結城氏が仲裁したものである)
 
        

関の明神」何れの世、何れの故に勧請したのか、今六つの祠あり。旗宿村の古道に一つ、今の官道白坂明神村に一つ(此の所堺を超えて下野の内に一所あり)、常陸の境の大垬村界を越えて一つ、依上の内に二つ(古には白河の内であった依上であればこそ)東鏡には文治五年頼朝卿奥州征伐の時、白河の関を越えられて関の明神に御奉幣されたとあるは、旗宿の明神である。此の祠の箱棟に伊達氏の紋を付けているのは、政宗朝臣が白河まで旗下に押さえた時の造営である。

古殿宮」竹貫郷十三村の鎮守である。年に二、三村ずつ順次に組み合わせて祭式を行ない、社に夜篭もり流鏑馬を行なう。康平二年の勧請と云う。

宇賀社」棚倉城下の鎮守である。赤館の東南山に寄り宮居する。(永禄年中鹿子三河守が赤館に居して、屋敷地に宮居を加えた故に今は鹿子山と号している)

天満宮」川上村にあり。社内棟札のような板に(訳者註=記してあるのは京の天満宮を勧請して川上村に移したこと。施主は本願寺派であり、永禄銭一貫文の寄付者に田代や塙が見える)

       

橘次社」皮籠(かわこ)村にあり、村名本は吉野宿と云った。承安年中、出羽宝澤の橘信高兄弟が、砂金交易をして故郷へ帰るところを、藤沢某と云う盗賊に出会い、この辺りで害されて行李を破られ取られた事により、皮籠の名が起こる。金子(こがね)橋、金分(きんはい)田等の小名もあり、後に義経朝臣が橘次兄弟を八幡の相殿に祭り、社を此所に建てられて長途に伴われし思いを謝せられたという。信高の墓として碑三基あり、石は皆剥落して全きものなし。文字有るようで分ち難い。下総国大須賀の辺りでも橘次のことを、此所と同じように語る者がいると聞く、何れの地が実説であろうか。

御霊社」三城目村にあり、鎌倉権五郎景政が白川石川の内に領地を賜わり住んだとされる。竹貫郷にも鎌倉山と云うのもあり、その由緒があって祭られる。恨むべきは所伝の宝物、古い軍配団扇併せて軍扇を失ったことである。別当影政寺に古文書あり(下に出す)、此の村において蘆毛馬を畜える矢柄竹という竹を植えると祟るとして、恐れること古来より言い伝えがある。氏人恐れて犯す者なし。我が定信公寛政年中吉田家へ請い、免許を得たうえで其の旨を社へ告げ、人の惑いを解いて馬を蓄え、竹を植えて民用に給するが祟り有ることなし。


 別当影政寺の古文書の一部を掲載します。












 
 
巻之二(全)終り





 

 

 

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