conparu blog

ささやかな身の回りの日常を書き綴ります。
[ブックマーク『conparuの白い航跡』もよろしく]

突っ走る

2011-07-27 00:42:00 | 日記
かなり突っ走っている・・・お隣の国の和偕号衝突事故のことだが、検証もなく原因究明の手掛かりさえ穴の中に葬り去るとは、日本人ならずとも絶句してしまう。
経済、通信や都市交通インフラ、軍事力、外交、一気呵成の勢いで歴史の舞台に躍り出た姿は、さぞや我が国の維新時代もかくあったであろうと思わせる。

なりふり構わずの富国強軍への傾きも、突っ走っているゆえに脱線しないか心配だ。
現に南沙諸島の領有権争いがキナ臭いもの。

ふりかえって「FUKUSHIMA-GENPATSU」が白日の下に曝されているのも、原発政策で突っ走ってきた故の脱線事故だったからではなかったか?
福島にとっては軒を貸して母屋を乗っ取られた感があるだろう。電源立地でありながら消費地は東京なのだから。
放射能飛散が人畜菜果を放逐させ、原発の修復もままならない現状は目に余る。

二日ほど前、NHKテレビが「東京スカイツリー」世界最難関への挑戦―と題して634mを立ち上げる苦労を映していた。高所での作業が電子工学の機器を使いながらの、緻密な工法だったことにも感心した。3.11大震の途方もない揺れのなかで、建設現場の人たちは持てる力を最大に発揮して、世界最高塔を記録した。緻密な計算があっての世界一である。
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どうでも・・・

2011-07-25 00:00:00 | 日記
夏場は暑いせいもあるけれど、トンと家の外に出ることが少なくなってきた。
雨に当たれば放射能のつぶてアラレ、、、モウ体内被曝を恐れる年じゃないけれど、嬉しい気分じゃないのは確か。

本業の焼き物ヒーターを木っ端みじんに砕いてから、もう何年経ったことか。
趣味としての小品用のヒーターは手元に置いてあるものの、表現の素材としてはかなりハードな限定された領域のものだ。

敢えて何を焼いていたかは言わず語りにして、と云うのも可笑しいが、その後の職務が体育館の管理人だったとなれば、それ以前は絡脈が切れている。どうでもいいこと。

多摩に住んで30余年、住めば都の格言通りいくらか慣れてきたところです。山と川と緑の自然に囲まれ、歴史に育まれた街が往古の足跡を留めています。

其処此処に多摩の歴史が散在しているのは、『武蔵の国』の国衙が国分寺にあったからでしょう。歴史探訪が好きだけれど、今は好き勝手に行けない事情があるので、のちの楽しみにしておきます。
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土用丑の日

2011-07-21 23:26:00 | 日記
今日は『土用丑の日』、、、生涯最後の味となるか、夕飯に「鰻の蒲焼」を食べさせてもらった。少し小ぶりだが「鹿児島産」とか、の口上を添えた妻の手料理に舌鼓を打ちました。鰻屋の蒲焼ほどの滋味はないけれど、添え付けのタレに一味工夫して、それなりに味わいのある夕飯でした。

テレビに映る鰻屋の座敷でも、鰻を待ちわびた客が美味しそうに食べていました。
値段も上がったそうですが、年に一度の『丑の日』ですから、炎暑で弱った体を整えるには鰻が一番ですね。

台風6号の大雨のお蔭で「あの暑さは何処へ行った・・・」、すっかり冷え込んだ大気の下では、鰻の滋養も体に行き渡らないかも知れない。

節電でやり繰りしながら、自動車産業もようやく生産軌道に乗って来ました。貿易収支も僅かに黒字化し、被災した東北に生産拠点を作ることにもなりました。

経済復興のけん引となる産業が元気になって、ウナギ登りにもろもろの発展につながるように祈ります。
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お中元

2011-07-14 00:25:00 | 日記
こうも暑いとエアコンに頼らざるを得ない。一部屋に枕を並べて討ち死に、の体をなして暑気を払う。

昼過ぎに「お中元」の品を求めてI市の和菓子老舗K店に行く。この街も年に2,3回しか訪ねないが、以前よりも車の数が少ないと思うのはどうしたことか。
うだる真昼間に走行する、緊急性がないってことかな?
ハンドルを握る手で商店街を眺めつつ、街中の変わりようを思い出の風景と重ねている。

家庭菜園の畑を借りている、S宅に寄り「お中元」の品を渡す。借主は女房だから主格は彼女でしたけれど、同伴者としてお茶をいただく。
『高級な和菓子をまた頂いてワルイわな』留守番のお婆さんが言いました。
『このような菓子をくれる人も傍に居ねいからな』、どうやら気に入ってくれたようだ。
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怨念の力作用

2011-07-06 20:42:00 | 日記
一つのことにこつこつと取り組み、そしてやがては生涯の精神的骨肉となり昇華する。
芸術家であろうと哲学者であろうと町工場の職人だろうと、恩恵を浴する筋立ては同じだろう。懸命に生きる内的燃焼力が強いほど、結実も大きなものとなる。
しかしながら、なかなか思うようにいかないのが人の世というもの。
艱難辛苦の荒行筵に座らせられて、いつの間にか足も萎えて立たなくなる。

多くの人は自らの力で立とうとして、ガクンと膝が折れる。力の過信である。
周囲の支えがあってこそ立っていられることに気づかない。
見えない障害に躓く人もある。見えない世界にも力関係があって、行跡に左右することだってある。怨念の力作用とでもいおうか。

政界が萎れているのは何故だろう。
仮に怨念の力作用であるならば、とことん落ちるまで落ちてひっくり返る反動機を待たなければならない。そうとうに擦り減ったバッジをつけて。
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