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ささやかな身の回りの日常を書き綴ります。
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白川古事考 巻ノ六前編 廣瀬典編<桑名図書館蔵>に触れる

2019-03-16 14:44:06 | 歴史

白川古事考 巻の六前篇 その1

  白川城蒲生氏封内以後領土
一、白川辺りに伝わる古記に、天正十八年太閤秀吉公は小田原を退治して直ちに奥州へ下向された。七月十四日白河へ入り、長沼(岩瀬郡)に止宿した。この時松坂少将蒲生氏郷も供を承り、八月に至って伊達政宗押領の会津(羽州米沢より興して会津蘆名を退治する)の城を召上げられ、木村伊勢守に受け取らせる。同十七日氏郷を内書院へ召し出して当城(会津)を預かる間、領地の事は代々会津へ付した所の、一ヵ所も相違があってはならない。越後國小川庄(蒲原郡の内にあり今も会津領に属している)に仙道五郡、会津六郡(六郡は誤り、四郡である)都合十二郡、石高四十二万石である。その時白川城をも氏郷へ付けられ関右兵衛尉を置かれる。赤館以南棚倉は佐竹領である。

 按=落穂集に「秀吉は八月十五日白川の城へ帰られ、今宵は名月でもあるから当城中において月見の宴を催すこと、大名諸氏も登城すべしと触れられ、その日の薄暮に至り各出仕の刻がきて氏郷も登城した。その日の晩方に奥州の内で葛西大崎三十万石を木村伊勢守に賜わり、蒲生氏郷は会津黒川四十二万石を賜わって城主となる。其れまでは伊勢の松坂十二万石の領地であった。
氏郷が書院の柱に寄りかかって月を詠んでいた処へ、日頃から気を許した山崎右京進が側に寄り『今日は大身に取り立てられ、会津拝領の手柄なり』と云えば、氏郷はすかさず『大身には成ったものの最早この氏郷は廃れた。奥州の田舎者になるのだから』と返答したので、山崎始め一座の面々は氏郷の大器の程を思い知った」と載せている落穂集の説は疑わしい。会津四家合考には「八月十日午の刻会津着。三日逗留して帰路は高原越えを過ぎたまう」とあり、会津南の山より直ちに下野国へ出たようだ。海道高原山の難所「太閤おろし」と云って、昔太閤が難所ゆえに駕篭から降りられたと云う土人の説は正説であろう。氏郷が会津を賜わったのは白川城においては有り得ない。

一、武家の秘録に、葛西大崎一揆が起こり木村伊勢守父子が難儀している旨を、浅野弾正少弼長吉(天正十九年頃長政と改める)が白川において承り、浅野六右衛門正勝と云う者を伊達政宗に差し向けて「早速、一揆を退治すべき」旨を申し述べた。また氏郷にもその旨を申し遣わした。


一、天正十九年九月南部九戸に一揆起こり、これを氏郷が平らげた功に因って、田村四本松、伊達信夫、刈田柴田、それに出羽国長井の庄を賜わって氏郷の所領は百万石となった。その時の白河城代はやはり関右兵衛で、城付は四万八千石であった。(蒲生軍記にも此の事見えている)

一、武家の秘記に、奥州九戸陣の時、太閤の陣触れに「二本松を通り、白川より城々へ人数が入る際は通すべき事』と云う箇条が見えているので、その手当は有ったものと思う。

一、関右兵衛は代々伊勢國関の城主であった。上方で成長したこともあり、風土に慣れない嘆きを抱いて上方に上り、その跡を氏郷の家臣である町野長門守に付領させた。上黒川村庄屋の古記に、「この長門守は吉高と名乗った人である。文禄四年二月七日卒」とあり。

一、上黒川庄屋古記に、天正十九年出羽奥州検地始まり、浅野弾正少弼長政、石田治部少輔三成下向する。白河は青木但馬と云う者が検地する。それ以前は一反と云う地を三百六十坪としていたが、田地とも一反を三百坪とした。
 按=会津塔寺長帳続年日記に、文禄三年会津領田畝の検地改めが不同にして、百姓に甲乙ありと訴え出たことによって、氏郷がその趣を変えて今年の検地で縄を引き直す。四月六日より始まる白川郡は石川伯耆とあり、太閤は天下を検地して縄をつめ、高を増し強大を示す術として検地を興したもので、会津ばかりの為に検地したのではない。日記の説は非とされるものだ。

一、蒲生軍記、氏郷の上方へ登られる時の道の記に「天つ正しき二十年、前関白オホイマウチキミ入唐するにあたり、日の本の武士残らず御供出来るように備えていた。陸奥からも出立の途次に、白川の関を越える思いで、
 陸奥も都も同じ名所の白川の関、今其処へ行くと詠んでゆく程に、下野の国に至った。大変清らかな川の上に柳が有るのを見て、あれは如何なものかと尋ねると、此れは遊行上人に道しるべをした柳よと云われ、其れを聞いて新古今に『道の辺に清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ』を思い出して、今もまた流れは同じ柳かげ行きまよいなば道しるべせよ・・・按=那須記に、遊行柳は相模国淨光寺十九代遊行上人、文明元巳牛が白川へ通られるとき、この柳の辺りに道二筋あり、老翁が出て来て旧道を導いてくれたのでご褒美にお札を差し上げると、有り難い、誠は我は柳の灵(れい=火)なり、と云って柳の陰に消え失せた。此の事を詠んだものと思う。そのことの有無を知らないが、この道二筋とあるのは東の方は旗宿村古関の道、西の方は今の大道白坂の二筋ではないだろうか。

一、その後氏郷死後は飛騨守秀行朝臣となるが、蒲原四郎兵衛を憎んで太閤の命に背いた事により、減地されて野州宇都宮へ移された。その跡は上杉中納言景勝卿に賜わる。北越軍談には慶長三年三月の事なりと云う。

一、慶長五年景勝卿が石田治部少弼に興せられた時の事を「東国太平記」には『会津より白川まで十四里、其の道二筋の間、南山口は殊に切り所である。会津より四里余(里数不審、恐らく十四里ではないか)であるけれども、人馬を出すにも羽太鶴生の難所があって宜しくない。此れ故に朴坂(ほおさか)を切り塞ぎ、根子鷹助へ路を付けて黒川郡より白坂の西へ出る(黒川郡、字を誤る。黒川郡は奥州の間までも奥にあり会津より隔絶している。今の若松を黒川と云っているので、若松城下を差して黒川郡と云っているのではないか)この道へは本庄越前守繁長が千の勢いを以て働くよう鼓舞した。

 今一筋の道は背炙りの山(今の会津若松の東に当たる山)、勢至堂、長沼(共に岩瀬郡にあり)、井伊出(今、飯土用と云う白川郡にあり)を過ぎて白川に至るこの道は人数を出すにも宜しい。背炙りを登り這坂という切り所の十町ばかりあり、峠に登ると峠の絶頂からは会津領が目の下にある。西北は(東西であろう)出羽国湯殿山、羽黒山、秋田、酒田の海面に出、西南は越後本庄、出雲﨑の山々が見え渡る(今、その山に登っても外に高山があって本文に云うようには見えない)則ち背炙りの峠に土矢倉を立て、大筒野煙を篭めている。

 また只今までの白川海道簑沢口は(簑沢村は下野那須郡である)左靱(うつぼ)右靱と云う大節所があって、関東の大軍が一度に攻め入ることは出来ない。兎に角関東の御父子(訳者註=家康と秀忠)を思いのままに、白川表皮篭が原(城南一里余)へ引付けないと十分な勝ち目を得る事が出来ない。左靱右靱の山を切り崩して簑沢海道の往還を塞ぎ、其れより西二里ばかり堺の明神白坂の道を作り、関東の御勢を白川表皮篭原へ引き入れる為、近辺の在々里々を焼き払い山林竹林を切り取って道を作り、地をならして三里四方一面を畳のように手配して待ちかけていた。白川城の西南へ引き回した谷田川と云う深沼があり、その長さ二里余り、その東南に皮篭原がある。

 其れより西方一里ばかりに西原という野あり、直江山城が下知して中畠の浪人(石川郡中畠村に中畠上野介と云う結城の親族あり、その臣の流浪したものか)蕪木と云う者が酒桶を二千程取り集めて、平地と同じように西原の野に並べ埋めさせ、黒川郡(此れも字の誤り)より逢隈川をその上に切り流してみると、水流は野の上へ流れつつ大河へ望むかのようだ。皮篭原の東に関山という松山あり、白河城下まで連なっているが此れに中条越前守、長尾権四郎、山本寺庄蔵、大崎筑前守、長井丹後守、田原左衛門、色部長門守、黒川右衛門、斉藤下野守、千坂対馬、飯森摂津、小田切治部、長尾兵衛尉、村上国清、烏山因幡守、竹俣三河守、吉江中務、諏訪次郎右衛門、平賀志摩、守沼掃部等を陣取らせ白川の城を丈夫に拵え、安田上総、双順易、島津左京進、入道月下齊を大将として人数四万が此れに属する。

 一番合戦は安田上総介、二番合戦は島津月下齊と定め、先に本庄越前守繁長其の子弥次郎この時改名して出羽守と号したが、この父子屈強の兵八千が南山口より朴坂へかかり、根子鷹助を過ぎ白坂の西に至り、父繁長は四千余で此の山に伏し其の子出羽守は四千で野州芦野辺へ打って出、嗣君(秀忠であろう)御着陣なされたなら態として一合戦して颯と引き取る。御勢は勝に乗って追い来たり、白坂を過ぎて押し込んで参ったならば皮篭原で待ち受けて、一番合戦を安田上総介、二番合戦は月下齊が引き受けるとした。これ又譜代二万の兵に地侍四万となれば寄せ手が大勢であってもそうは容易に打ち負けない。景勝は兼ねて、背炙りを越して勢至堂を後ろにし、長沼に待ち受けてそれより古田川布馬瀬に移る。(これも地の理において周辺を云い、大概を云ったのではないか)皮篭原の合戦半ばに関山の陰を回り、小井堀老野髪(下野国那須郡)を過ぎて嗣君御陣の後ろに回り、景勝旗本を以て切り掛かる。

 その時関山より中条、千坂、山本寺、松木等横合いを入れつつ安田、島津が揉み合いをする。然る時は景勝旗本が推し掛かり、前には安田島津が切り掛かり関山より千坂、斉藤、中条、竹俣等横槍を入れれば、寄せ手の大軍は是非もなく白川城の西南に向かって谷田川の深沼へ追い込まれる。この沼は二里余りで深いこと底なし、若し御人数で駆け入るときは人も馬も助かるもの一人もなし。谷田の沼を遁れ西へ落ちる敵は又西原の野川に逃げ掛かるであろう。本庄越前守繁長は四千を具して南山より鑓を入れるや西原へ追いかけよ。寄せ手は川と心得て人馬渡り掛かれば、埋めて置いた酒桶へ駆け込んで悉く滅ぶであろう。

 その時佐竹の先勢渋井内膳は五千ばかりで、御大将御父子の間を取り切るであろう。(北越軍記に、景勝加勢として奥鐘城が来るのを待っていると見える。鐘城が何地と云うこと詳にせず)御所は御先の嗣君が御合戦始められると聞き召され、急に鬼怒川(下野塩谷郡と河内郡の間に流れる)を渡り推し参られる。その左右と聞けば直江山城手勢一万、牢人二万ばかりで、会津山ノ内より出て高原塩原へ掛かり、那須ヶ嶽の麓、高林加野(今、加野とは頼朝卿の那須ノ狩り場の跡と云い伝える)は田地(那須郡大田原の西に有り)、佐久山大田原の間へ打って出る。佐竹勢は梅津半右衛門、戸村豊後が一万の兵で富田道場宿より石井を渡り姥ヶ井筋へ押通り、此れも佐久山大田原の間に推し出して合図の烽火を上げ、直江山城と東西より御所の旗本を立ち挟み、真ん中に取り囲み打ち取る。

 此の間一里半の所は野山森林や深田が多い。御所の御人数は案内を知らずに沼沢へ馳せ入り、ここで彼の谷崖へ墜とせば過半は此所において討たれる。その時御所は江戸の方へ志して退き行かれるだろうが、烏山千本口や鬼怒川の難があり、その上、直江、梅津、戸村の勢が跡を取り切って攻め立てれば是非もなく終わってしまう。

 御所勢は那須嶽の方へ退くであろうから、その時佐竹義宣は棚倉を打って出、強梨(今の地名)伊王野へかかり、芦野口へ推し出して渋井内膳と手を合わせ、直江戸村と立ち挟んで御所の真ん中に取り込み打ち取るであろう。
御所さえ討ち奉れば天下は図るに足りずと景勝と直江が内談して、何とか御所御父子を思いのまま白河表へ引き入れたいとの評定の外はなかった。景勝は自身ただ一騎と歩士二、三人を連れて密かに会津を出、背炙り山へ登り這坂の峠に馬を立たせて、山川の形勢を考えてから勢至堂へ下る。それから長沼へ懸かり井伊に出て古田川、布馬瀬、関山小井堀、老野髪へ出、騎兵を回すべき道筋を見積もり、それから白坂、堺明神までの間、樵(きこり)夫を案内として山中の道を通り、人も知らない山路を過ぎて堺の明神迄乗り廻す。それより鷹助根子、朴坂へ廻り南山口を経て又会津へ帰られた。

その1終わり

白川古事考 巻の六前編 その2

一、北越軍記にも前条の事を載せ、少異同はあるものの大概同じである。その内の一事の記をみると、前条のように手立てを整えたが、奥州棚倉領前の地頭赤館源七郎と云う牢人のその父伊賀守は、御所様から当分の召しに応じて伏見に篭っていたが、使者を下して「御所へ忠節を申し上げよ」との申し越しに因って、父の命を受けた源七郎は三千騎ばかりで奥州を忍び出てお迎えに登ったところ、御先手の皆川山城守廣照(下野国皆川の城主)が陣所である宇治江(氏家のこと)岩屋の地蔵堂に来られたので、(陣屋の跡今にあり)御所に申し上げるべき旨があって来た、と申し述べると皆川は人を添えて小山の御陣へ遣わしてくれた。

 赤館は小山に参られて本多弥八郎正純を介し、白川城の義御導(導きがあった)もあったので、赤館は辺りの人を除けられて一間に呼び入れられ、密かに子細を申し上げることは「上杉勢譜代三万に奥州牢人四、五万も馳せ着いて御所御父子を白川表へ引きつけ、四方から引き包んで討ち取ろうと巧みに謀っています。詳しくは存じませんが大抵の見分けはついています。景勝始め家中残らず白川を基所と定め、討死を覚悟で各神水を呑み、経帷子(きょうかたびら)を着て血脈をかけ死を掛けて待っています。(御所御父子が)白川表へ御着陣為されば、十に九つは御敗軍か若しくはご人数の大方は残り少なく討たれるでしょう。率爾に(軽率に)取りかからないように乙度(危難を越えて)為されますよう申し上げた。この旨が密かに御所の御耳に達して御了聞なされ、御譜代の諸大名を召されて密かに江戸へ戻られた。


萬世家譜に、「関ヶ原前景勝押(領)での白川城案内見に『那須の者度々遣わされたが、一人も帰って来ないので伊賀の者三人を白川へ遣わされ、案内を見届けて帰って云うには、那須の者共は白川大手口に、磔に上がっているのを見届けたと言う。

一、那須記に、其の頃芦野五郎左衛門は那須修理大夫資晴の小舅であるから、那須中の大方が彼の云うままに従おうと思っていたところに、景勝が一通の書状を贈った。その文は

   
此れに因って五郎左衛門は那須衆へ勧めたものの、還って那須から打たれるとして会津へ走った。今の芦野家とは別である。

一、御所様は小山より江戸迄お引き帰り遊ばされ、八月七日の日付にて伊達政宗へ下向為され、御書に曰く

    
一、元和八年開山地主秋場雅楽、穂積重右衛門より領主へ書き出したものに、「慶長五年庚子上杉景勝会津居城の時、中条越前長尾権四郎、又白川の城代五百川修理が下知として、河東田大膳、中牧将監を武頭に地の侍、新馬を上げ、その上鉄砲百挺と隣郷の百姓を関山の麓、中野、内松、番沢、夏梨、十文字辺りに小屋を掛け、人数千余七月始めより九月中旬まで居た」とある。


一、その後関ヶ原にて西軍敗走し、景勝は米沢へ移された。其の跡へ東照宮の御婿である蒲生飛騨守秀行が再び六十万石を賜わり会津を領して、白川は町野左近吉氏が城付き高三万九千九百二十二石六斗五升で合(合致)なりと云う。
蒲生軍記に二万八千三百石とあり。この時白川の町割直しが有ったようで、中町高田屋に正保年中の書き付けあり、「秀行卒去其の子下野守忠郷(奉識従四位上)の代に城代町野氏が死し、平野目氏の支配となったが寛永四年正月四日忠郷二十五才で卒去する。実子なく弟松平中務少輔忠知が二十四万石に減地されて予州松山へ移される。其の跡会津は加藤左馬助嘉明へ四十万石下されて入部となり、この時より白川は会津領を離れて別に丹羽五郎左衛門尉長重へ下される。棚倉城より移る雄藩雑話という丹羽家の事を記した書に、藤堂高虎より長重へ内意に話があり、
『加藤左馬助には十万石から四十万石になされて会津へ移され、貴様は十万石になされて白川へ遣わされた義は、松平下野守六十万石の跡を両人へ仰せつけられ、奥州の押さえに成される為であるから、左馬助と別れて御入魂に成されるべき』と云われ、長重は奥州の押さえである勤めとして急いで築城もいたされた。(慶長年中、町野の時の城図を見ると、今とは異なり丹羽の増築により大堅固を加えている)普請が済んだ頃、左馬助が白川を通行なさった折り、長重も同道して場内を回る際に左馬助が申すことは、貴様には御武功の事に当たられる間、縄張りの内不足の所があれば、他所とは違うのだから遠慮なく所存を申し聞かせ賜われとのこと。左馬助の挨拶に、何ぞという節は御一同の事であるから少しも遠慮すべきに非ずと云い、何れも縄張りの残るところが無く感じ入ったと賞される。

 長重のたっての所望について、小口の所で少し申し述べられた所もあり。(この普請は寛永六年より九年までかかり成就した。大塚村の庄屋など肝煎りによって人足を指揮し、堀水に浸って日々精を出した後には、腰がひび割れて血流れたとその技に言い伝える)奥羽の諸大名の通行の節は、場内に立ち寄って物語などされた中に、伊達政宗とは相口とあって度々立ち寄られ、式事や酒宴の上で申されるには、「左馬助と貴様とで奥羽の押城を担うと云うが、我ら数万の勢で押し通せばチと難儀されるだろうな」と云いば、長重は挨拶を返して『如何に少勢であっても貴様の旗本を突き崩しさえすれば、ノソノソとは御通り難しかろう』と云ったので互いに大笑いしたそうである。ある書には政宗が白川の城下を通る時に、片倉小十郎に向かい、この城も朝食う前(朝飯前)に有ると云えば片倉は、いや、城中に江口三郎兵衛が居る間は昼前はかかるでしょうと言われた。江口は小松陣にも武功を顕わした丹羽家の勇臣である。また最上駿河守は尺八が上手で、白川泊まりで朝立ちというのに尺八の音が流れるのを聞いた長重は、駿河の尺八は自慢だから早々に吹いているな、と言われた。

按=雄藩雑話に斯く有るけれども、元和三年三月六日に駿河守家親が卒する。源五郎義俊元和八年御改易なれば本文を疑う。若しかして別人の誤りかも知れない。
長重朝臣の詠んだ和歌として 

 千とせまでながれはつきし白川の波とや見えし堀のさざ波
と詠まれることもあったと云う。寛永十四年三月四日卒去、今の圓妙寺の後山に葬る。その時は曹洞宗巨法山大麟寺と云い、五輪の石塔がある。
            傑俊淨英大居士
  前  万里一條鐵  寛永十四丁丑
            三月初四日逝

            前三品藤原朝臣
  後         丹羽家譜長重公

一、長重の嫡子従四位下侍従左京大夫光重晩年致仕号玉峯性瑤、當武枝葉集に寛永十一年十二月二十八日叙従五位下任左京大夫十四年継家督、同十九年十二月晦日叙従四位下となる。丹羽と会津の加藤とで境目の事について不平が多く、加藤家御改易となる。此れに付いて丹羽家が城受け取りの事命じられたが、兼ねての意趣を挟み過分の取り計らいも有って、寛永二十年当城を改めて二本松へ封を移される。

一、松平式部大輔忠次寛永二十年入部、六年を経て慶安二年八月姫路へ移られる。榊原出羽守忠政の実子初の子であったが、大須賀五郎左衛門康勝の養子とした後、榊原家に嗣子が無くて困った。因って実家に帰る。一代松平の称号を名乗ると云えども井伊、本多、酒井、榊原は御当代の名姓であるとして、又榊原の氏に戻った。
寛文五年三月二十九日卒する。此の人は和歌を好んだたようで、白川年貢町庄屋大竹孫三郎の書き留めにも、初入部の時の歌として
 今も吹き音はかわらし秋風にむかしを思ふしら川の関
また鎮守鹿島明神へ詣でて
 にこりなき神の心を是そこのあふくま川の流れなるへし
林道春より前書きなどととのえて
 むさし野ゝ月も流れを導きてあふくま川のすみわたるらん
忠次朝臣返し
 むさし野を照らすあまりやみちのくの逢隈川の月は澄むらん
岩瀬郡須賀川北岩瀬の森という封内にて
 敷島ややまとことはの外にさえいえはいはせの森をこそみれ
連歌師昌佐が忠次の見回りとして白川へ下向して
 都出し春や関路の神無月
それを聞いた忠次はその跡を
 花かとまかふもみち散りかけ
と付けられる。また昌佐が江戸へ赴ける餞別に
 治れる君か代なれは白川の関にも留めぬわかれとをしれ
昌佐が返しに
 幾たひか君にあひ見んしら川の関もとゝめぬゆきゝ成りけり
また昌佐が此所の外に見るところは松島かなと云えば
 松島やおしまもおなしみちのくに又もきて見ん白川のせき
昌佐が返す
 陸奥の松しまならは又もきてあふくま川は絶しとそ思ふ
これ等を詠ませるのを見ると風流であったようである。

一、鵞峯文集に
  源吏部大郷君去林新徒食邑白川城
  今春在城行令之暇詠難日高歌二首見寄焉乃撮
  其尾字為唐詩韻奉呈焉
  累世先鋒来鉄鍼東奥要衝誰唐突春風吹越白川
  関幾見使君興馬越
  恩賜白河新就封東風寄語報歓悰春来雖隅関山
  雪舊約不渝花下逢

一、忠次の封を移した跡へ本多能登守忠義が慶安二年八月入部。美濃守忠政の第三子従五位下延宝四年九月二十六日卒。當武詩葉集に常照院と号する。寛文二年十二月二十九日隠居剃髪而号鉄齊号九景寺男子五人女子六人あり、至って強気の人で手荒いことが多かった。沢田九郎兵衛と云う家老の計らいで領地に竿入れ、高三万七千石を打ち出して男子へ配分した。今、白川の地の畠までも縄が詰まり民間難儀する。この時より家中の騒ぎあり。

一、武家堪忍記に、本多能登守藤原忠義奥州白河に居する。本知十三万五千石新地を開き運上課役掛け物あり、都合十七万余の土地上げとなる。年貢所納は六つ或いは七つ、八つ並び、七つ半は家中へ、四つは在江戸の年百石につき四人扶持、それに雑用銀少し渡す。國に獣魚鳥柴薪が多く、忠義文武を知らずに利欲が有って、サンカンを能く考えせこを入れ、民をむさぼり侫曲にして行跡不義である。家人を召し使うこと無理非道にして、或いは改易式に殺害する事数を知らず。故に侍を疎(うと)むところ甚だしい。暇乞いし家を捨てて去ること繁多である。国家の仕置きが悪いこと言うに及ばず民は困窮する。

一、藩輪譜には能登守藤原忠義は美濃守忠政の二男也(十三才にして父に従い大坂の軍に向かうとも云う)寛永四年播磨の國にて初めて所領を給わる(四万石)同八年加恩の事あり(一万石)。寛永十六年十二月遠江國掛川の城を賜わる(七万石)。正保元年正月十一日越後國村上の城に移る(十万石)。慶安三年六月九日陸奥国白川の城に移る(十二万石その後開発の田一万五千石を加え領する)卒年は七十五才である。
 真田古伊豆守信之の牢人松崎太郎左衛門と云う武勇剛強の士あり、則ち此れを召し抱えられたが子供三人居り、
嫡子松崎六之允には大小姓に召し仕えられ、女子二人のうち一人は奥州五十四郡にその名を知られた鑓の達人竹村治左衛門の妻で、もう一人は河崎甚五左衛門と云う者の妻となる。

 能登守殿家来知行取りで勤めていた処に、此の度の不慮の騒動が有って能登守殿侍に余り多く、計る子細は彼の六之允が常々能州在国の節は、鷹野の供に離れず召し連れられて勢子を申しつけられていたが、或る時また能州鷹野に出るという時に、六之允が如何したものか供支度が遅れ、待ち兼ねた能登守は外の者に申しつけて、終にその日は傍輩の指摘を受ける羽目になった。

 此れに依り六之允は己の遅引を尤もとせず、主君能州を恨み自余の面目一生の恥はここに極まる、と心得て家に立ち返り父太郎左衛門に此の事を述べると、聞いた太郎左衛門は左様なことは親に伺うまでもなく早々に暇を願えと申し伝えれば、六之允は尤もだと思い右の旨を頻りに願い出たが、能登守は此れを聞かず仰せになるのは、たとえ脇の者が申しても其の方は暇を取るべき者ではないと、色々精を込めた後に御息長門守殿弾正少弼殿など御相談して兎に角留まらせようとしたが、承服しないので能州は立腹して六之允の大小を取り上げて押さえ込み、番人として大西輿左衛門、大谷作九衛門、雨森弥之助同じく牛右衛門兄弟、関仁右衛門その外山田某等が交替しながら守っていた。

 数日が過ぎて番人の隙を伺っていた六之允は、番人がこっくりと居眠りしているのを見て、これ幸いと密かに番人の側に寄って彼の刀を奪い取り、直ちに引き抜きざまに一人を切り伏せた。残る番人が立ち騒ぐところを更に切り殺し、その外二、三人に深手を負わせて父の処へ逃げ帰った。
 家へ帰ると父と一所になって篭り、討手の来るのを待ち受けながら、道場小路(今の小峰寺で昔この小路は東城門の際にあった。侍屋敷となった今でも小路の名前が残る)に住む婿の竹村治左衛門と内々に相談すると、隣家と云うこともあり夫婦共に駆け込んで来て、舅と一所になって控えていた。

 治左衛門は此の度の発端の節から色々と教訓を得て、その異なる状に及び諫めにかかったが、太郎左衛門は承服しないので治左衛門は是非もなく此の度の存じ切りとなった。一方同じ婿の川崎仁五左衛門も、この期に及んで此の典(人の道を記した書物)を働かさなければ、末代までの名を汚すとして一筋に存じ切りした(六之允が切られた)。

 舅と相計り、我が屋敷は会津町で(丹羽長重棚倉五万石から白川十万石となった時、会津の蒲生家減地されるにつき浪人多い。丹羽は百軒の家を作って百人の会津士を抱えたので会津町と名付けた)太郎左衛門の処より四、五町余も離れているということで、夫婦共に篭って合図を待っていた。その所へ伝え聞いた家中の面々が駆けつけて来て、軽率に押し入ることも出来ず門外で控えていた中にも、勇ある侍が我れ先にと駆け入り切り結ぶ者、また入るなり切られる者もあり、此所に奥平甚五左衛門と云う者が、その日の昇る一番乗りしたところを、彼の竹村の鑓玉に上がって死んでしまった。大谷作左衛門という者は六之允の番人であったが、此の事が起こってから早速駈けて来て、間に入ろうとしているところを塀越しに鑓付けられて死ぬ。(これを本多内記政勝が聞いて、左衛門の為には治左衛門は摩利支天であると言った)

 早川勘平と云う者(白石に領)は進んで内に入ったところを、治左衛門の妻に切られ深手を負って働くことも出来なくなった。平癒した後は女に切られた不届きとして暇を出された。坂崎治部左衛門という者は宿へ帰り、そのまま出て来なかったのでこれも暇を出された。長谷団右衛門と云う者は城より宿へ帰るに際し、太郎左衛門の門前で傍輩に別れて意趣はないものをと言って、そのまま通り過ぎた。池田孫四郎と云う侍は松崎竹村などと隣り合わせで、後れを取ったと人の口に掛かり、その節暇を願い申し出たが、能登守殿が云うには、一度後れを取った者でも重ねて武功あるものと、そのまま差し置かれたのは尤もなことである。古屋次郎左衛門も右に同じく同断である。斯くて此の度の夥しい騒動とあって、上を下へと返している内に死人手負いは多かった。けれども松崎竹村の両人は討たれなかったが、続けて切り入りする者がないので最早此れまでと心得て、夫婦子供も一緒になって家に火を掛け、それぞれが猛火と共に自害して果てた。

 勿論、彼の川崎夫婦の者共も少なく人に渡り合い、互いに手疵を被ったが、兼々合図の火事であるから吾も家に火を掛け、心のままに自害して終にはむなしい結末となった。此所において不憫な事があり、竹村治左衛門の嫡子で竹村出兵衛と号し生年十四五歳になっていたが、その節は近所へ遊びに行っていて此の由を聞きつけ、我が家に帰るところを道で捕らえられ、大小を請け取られた上押し込み置かれ、その後土橋へ磔に懸けられた。

 実に不思議な出来事で、能登守殿も良き侍を多く殺された。元来能州は武道の励みを第一としたので、家中倍者(陪臣)にも口上「行跡能登守流」とする一派もあった。(この屋は道場門外南側角の屋敷だという)
列封界傳に、忠義が所領の内二万石を嫡子忠平の家督の時に与え、忠平の弟長門守忠利と其の弟越中守忠次にもそれぞれ賜わる。忠利には石川に一万石、忠次には浅川に一万石の領とした。忠義は今の八幡小路、谷田川の崖に別荘を構えて『九景地』と名付け、國隠居して住んでいられた。石川郡矢吹村にも屋敷があった。其の家譜に墳墓始めは白川にあったが、後に大和郡山の玉龍寺に改葬すると見える。今白川において葬地を訪ねても何ら認める地はない。

 巻の六 前編終り

 

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