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白川古事考 巻ノ四 後編 廣瀬典編<桑名図書館蔵>に触れる

2019-03-16 11:46:41 | 歴史

 白川古事考 巻ノ四 後編

 その1

一、板橋村農家の古記に「流伊豆守治行は奥(州)石ノ巻という処に親者(親戚)があり、彼の計らいでその親者から『飛び入り』という名馬を求めた。この馬は頭が黒く胸腹は紅の如くで、所々に島のような白黒の色がある故に飛び入りと名付ける。治行はこの馬を義親に参らせると上野入道は大変喜び、類い希な名馬は武門の宝であるとして、郷主馬介、岡部民部、菅生隼人正、芳賀和泉守を召して馬を見せた。小針半左衛門親利が馬の上手であるところから、彼を召して庭乗りするように言ったところ、菅生隼人が『この馬は一時に二十里を走ると見当て、君ばかり出馬いたして臣下が同じく奉らないのであれば(追い付いて行けなかったなら)反って危うい事になります。是れはお返しして然るべき』と申し上げれば、義親は尤もであるとこの馬を返した」

 元和八年関山の地主より出された書に、「天正十一年佐竹義宣出馬有之砌那須ノ薄葉備中守人数二千許りにて攻候へども、旗宿中野内松に於て佐竹勢手痛く戦い候故、那須勢敗北する。備中守も那須へ立ち返る」(按=那須記を考えると、天正十一年頃の佐竹と那須は不和であり、戦争絶え無い時である)

一、板橋村農家古記に天正十六年の春(古記に記すところ只天正十六年の事ばかりではなく、それ以前のことより記して「白河記」と同じ事を別の人の手によって記したものであり、異同があるので全てを記して置く)
 佐竹は赤館、東館、流館へ向かう。その経緯を聞くと、先年佐竹義重の領地である常陸国太田の境を、東館讃岐守(白川の臣北讃岐守のこと。東館に居する故に斯く言うのであろう)が押領したことを遺恨にして白川へ攻め来ると云う。(此れは佐竹白川の確執の始め、永正の頃よりの事であろうか)数カ所の館々を攻め落とし、赤館を本陣として上台ガ原(今、棚倉の北に有り堀切の跡がある。上台村は今、棚倉新町へ人家を移す)数百丁を掘り切って陣を取る佐竹方、竹貫勘解由(竹貫三河守の臣水野勘解由左衛門のことであろう)渋江(渋井)内膳、小田帯刀、山本勘兵衛、水野隼人助、武田信濃守その勢三千余騎の佐竹勢が赤館目指して集まる。
 
 此の事が白河に聞こえて義親が出馬される。従軍は家の子郎党で斑目十郎廣基の子能登守、郷主馬介、芳賀和泉守、和知常陸介勝昌、菅生隼人正、この五人は家臣なり。大名分の諸侍には河東田上総介、流伊豆守治行、岡部民部少補、大塚越前守、菅生舎人、双石主馬介信広、舟田入道真海、硯石大学正伊(穂積大学棚倉赤館落城後硯石村に居)、本沼下野守、大和田主計、その外諸侍に遠藤八郎大夫、青柳対馬、小針半左衛門親利、鈴木弥六、熊田兵庫、板橋将監、大塚左八郎、中宿将監を始めとして二千余騎が評定して郷渡しを越え、逆川という所(今の逆川村と云う所)を挟んで陣を取る。先陣の硯石大学正伊は上台より攻め入り、赤館の陣所へ向けて散々に戦う。この時佐竹方では所々館々に兵共を遣わしていたので、赤館には漸く三百余騎を出ない数であったため、散々に打ち負けて八槻という所まで陣を引いた。

 正伊は勝ちに乗って追いかけ寺山という所に至った際に、何処よりともなく鏑矢一本が飛んできて弓手の肘に当たった。正伊は上台の出張りへ引き退く。この大学の先祖は紀州藤代の主であった鈴木三郎であり、四男の四郎兵衛と云った。同国穂積村に住んで今でも定紋は稲穂に丸である。十三代の祖穂積孫太郎正光以後は代々結城の臣である。

 大学が上台に引き退いた後、佐竹勢は又郷渡しへ打出て陣を取る。(白河方が)評定したのは藤ノ川大沼の辺りに伏兵を百騎余り回して置き、佐竹が橋を渡り坂下まで切り出すなら味方は坂より陰へ引いて、敵が勝ちに乗り追いかけて来れば、その間に伏兵共が藤の川の橋を引いて来て一度に矢前を揃えて射るがよい。的が後へ引けば川岸に忍んでいた伏兵共が、一文字に射向かうべきであると評定極まって、小坂を前に当て控えていた(今の合戦坂である)。然る処で竹貫勘解由左衛門安政は武勇に長けた者で、藤ノ川の坂上に登って坂下の双石主馬介信広目掛けて戦う。信広は川の深瀬へ馬を乗り入れ、終に討ち死にしてしまった。義親は此れを見て一度に切り掛かるが、兼ねてより示し置いた事であり、坂半分より引く風情を見せると、佐竹方は勝ちに乗り追いかけて来る。考えた通りその間に伏兵共が藤ノ川の橋を切り落とし、時の声を発した。坂駈けよりも味方の兵共が時を合わせて矢前を揃え、詰め掛けて散々に射たので佐竹は叶わず引こうとしたけれど、橋が無ければ渡ることも出来ず、川へ逃げ陥れて死ぬも有り、二時ばかりの間に二百三十余人討ち死にの敗軍として引き返す。白川方には討死が三十八人であった。

一、同年三月六日佐竹は阿武隈川に沿って攻め登り、百目木(とうめき=舟田村と田島村との分かれ路の所で安永の頃迄農家二軒あった。今に館跡あり)と川を隔てて向いの本沼村の八幡館を攻め落とし、白川へ迫ろうとしていた。百目木修理亮が此れを見て一大変だ、この大勢が白川へ時を経ず攻め寄せれば、結城の存亡は計り知れない。我が此所にある限りは容易に白川へ寄させるものかと舟田入道真海、その子與十郎友純を我が館に入らせて、我が身は僅かに家人五十余人を従えて道を遮り必死になって戦ったが、敵は大勢であるから叶わず、その夜の明ける頃には深手を二カ所負って、漸く松林庵の門前まで退き其の処で終に死ぬ。(松林庵は今の搦村松林寺のことで、此の地の東の坊の入りと云う所である。天正の頃は早松林寺と云ったと古記にある)法名を春栄武船居士と号した。妻は芳賀和泉守の娘であったが、夫の死を聞くと時世の和歌を詠じて自殺して死んだ。(和歌が見当たらないのは惜しい)年は二十七才であった。夫ともに恥じることのない烈婦である。

一、何れの年の戦であろうか、佐竹より白川を攻めるときに、石川郡白石村の城主白石相模守晴光が、白川へ加勢すると向井主殿という者を遣わした。その帰路を伺って佐竹五百余騎が主殿を討ち取った。土人はその屍を埋めた地として主殿塚と云い、今下野手嶋村の北方にこの塚あり。相模守晴光も佐竹に亡ぼされて、今は城跡に八幡宮を勧請している。城内に向井郭本田郭と云う屋敷跡あり。
 按=竹貫郷入山上岡部次郎左衛門が天文天正年中、軍学の書を蔵したが、伝来の次第に白岩治部朝長と花押を署してあり、この晴光の一族が付録として考古の人の便に資するよう残した。

一、白河七郎の家伝に、佐竹の臣和田安房守(赤館に居る)の計策によって義親は常州太田へ虜となり、後に出家してその罪を謝され不説齊と号した。
佐竹の赦しを得て再び本国白川へ帰り、義顕と和睦して義親百年の後には白川の城を義顕に渡す事を契約した。義親より曷食丸と云う人質を出し置いたようである。二本松町松本新蔵と云う者の藏に

    

 また同人の藏に

    
 文中「八丁目」は政宗の臣、伊達兵部大輔真之が居する。太郎左衛門は安達郡四保松の大内備前の子である。会當とは会津と田村であり、南方は北条である。此の節、奥州までも北条と手を合わせて佐竹を挟み打つ事から南方と称するようになった。白河も田村とともに北条へ興し頃(日偏に之)の書、仙台白河家の藏に
(田村から白川への書状)

   

(添え書き=関宿の梁田、下妻の多賀谷、常に北条と佐竹の間にあって、双方に苦しめられたようで、白川の佐竹と芦名の間にあるのと同じである)
以下氏康が白川への書状の中に、景虎が岩付陣を追散して、利根川端まで軍を進めたこと、謙信と佐竹の合力で北条を攻める動きなどを記したものがある。

   

一、会津四家合考に「芦名亀王丸天正十四年十一月卒、翌年老臣が寄り合い養子の事計る。伊達政宗の御舎弟こそ宜しかろうと云い、金上盛備、沼沢出雲守、渋川助左衛門等は佐竹義広が然るべきと言って詮議不究。白川結城七郎義親は幕下と云いながら、殊に盛氏の婿であるところから何につけても等閑ならず中(幕内)に居て、『誠に伊達も良いが佐竹義広を養子に乞い請けてこそ事は宜しかろう』と異見が有って、程なく彼の人を会津へ迎え取る」とあり。義親は近年佐竹に手痛く攻めつけられているので、義広を取り持って佐竹の心を取ろうとしたのであろう。

一、或る家の記録に「芦名亀王丸天正十四年十一月卒、翌年老臣が寄り合い養子の事計る。伊達政宗の御舎弟こそ宜しかろうと云い、金上盛備、沼沢出雲守、渋川助左衛門等は佐竹義広が然るべきと言って詮議不究。白川結城七郎義親は幕下と云いながら、殊に盛氏の婿であるところから何につけても等閑ならず中(幕内)に居て、『誠に伊達も良いが佐竹義広を養子に乞い請けてこそ事は宜しかろう』と異見が有って、程なく彼の人を会津へ迎え取る」とあり。義親は近年佐竹に手痛く攻めつけられているので、義広を取り持って佐竹の心を取ろうとしたのであろう。

一、或る家の記録に『伊達政宗は佐竹常陸介義重、芦名平四郎義広、岩城右京大夫常隆、相馬長門守義胤、白川七郎義親、石川大和守昭光、大崎左衛門督義隆等と取り合い(戦)仕る所、天正十六年権現様総無事御取(おんとりあい)然るべき由、秀吉公御指図に従い以て御使者を政宗へ仰せ下されて御噯遊びくだされると思し召され候処、奥州安積郡にて佐竹義重、芦名義広と政宗が対陣の節、岩城常隆が無事に取扱い相馬義胤、白川義親も和議する』此の時高倉合戦は四家合考に載せ、久保田合戦は仙道表鑑にあり、共に白川の人数出でたること見えて、白川の人数の戦いを詳しく記しているので、是を以て此れに録する。

一、会津旧事雑考、天正十七年白川義親、石川昭光が伊達政宗へ降るとあり。
   按=此の節白河郡三城目村東光院景政寺の僧は、政宗の意に叶い頗る軍国の㕝(?)に預かっていたらしく、その寺に石川昭光の文書を蔵する。

   
一、板橋村の農家旧記に『斯くて須賀川も落城に及んで(須賀川は二階堂盛義の後室が伊達政宗に城を攻め落とされた事を云う)討ち漏らされた者百余人が大里村(岩瀬郡の内にある)牛ガ城に籠る。佐竹より水野勘解由左衛門安政同隼人助、河合甲斐守竹貫中務少輔(此の二人須賀川落城の時既に討死しているので此れに出すのは誤りである)を大将として、都合六百余騎で楯篭る(二階堂後室にとって佐竹義宣は甥であり、岩城常隆の聟であると、或る家の記録に出ている)と聞いて討手の大将田村中務大輔(四家合考には石川昭光とあり)諸侍三十騎雑兵百余で大里へ向かう。

 白川より加勢として郷主馬介、岡部民部少輔、芳賀和泉守、大塚左八郎、菅生蔵人、益子駿河、中宿監物、双石左近右衛門、舟田真海、青木半左衛門等義親加勢として田村の旗下に属した。籠城には此の由(加勢)が聞こえたので大里の山上まで出張る。先陣松本讃岐が山陰より切り入って水野隼人と暫く戦っていた。中務がこれを見て味方の勢を一度に駆け入り、逆寄せするよう下知すれば、田村勢も白川勢も一度に山陰より攻め入って散々に戦い、双方手負い討死数十人となった。

 過ぎてみれば佐竹方は多勢であり、叶わずに矢田野下野カ館まで引き退く。(矢田野に僅かな館跡あり)田村方にも侍百七十七騎が討死し、白川加勢の兵共も手負い討死十一人で悉く敗軍となって、田村は政宗の本陣へ引いていった。
 按=此の戦いは他の書には載せていない。翌年矢田野伊豆守が政宗の供をして小田原へ登り、底倉より逃げ帰るのであるが、大里に楯篭ったその軍は、四家合考藤葉栄衰記に載せてある。その時は白川の加勢の事は見えていないので、此の書には載せず。矢田野は須賀川二階堂の親族にして、矢田野大里等を領して矢田野を氏とする。

一、四家合考に『政宗は須賀川を攻落とし四十余日逗留されている内に、白川義親は那須ノ境関和久と云う所へ俄に要害を構え、人数を入れ置いて警固の勢を政宗に乞うた。政宗は伊達成実の手の者を分け出すべく下知をする。
 按=これは佐竹より那須を語らい(働きかけて)須賀川の仇を報いるだろうと見て、人数を出すべきだと慮って要害を拵えたものである。
 今の地理を以て見れば、関和久那須の界は四里も隔たっているが、佐竹は何時も此の筋より兵を出しているから、此の地に要害を設けたものであろう。
須賀川を石川昭光に恩補して(手柄に報えたか)政宗は黒川へ帰られた。

一、東太平記小田原陣の時、義親の一族中畠上野介が義親に諫言したのは、秀吉公鎮西南海北陸に威を震っている事は、五、六年の間聞き召した事であります。殊に今度坂東一の大名北条の一族も滅亡の期が近づくと伝えられる由も承っています。殿にも日を置かずに小田原へ御越あって秀吉公の御味方に属されることが当家中興の先表われに存じますと申し上げれば、義親は「我もそう思いながら家貧なれば行程の費、土産の品も沙汰し難く、徒に時日を移している」と云う。

 上野介申し上げて「此度の御ところ(古の下に又)の間は、旅費土産料は傍輩の面々に課役を掛けて調えます。先の土産の品は、秀吉公も遠境の御陣中であるから、米二百俵を献じられて然るべきです。その内の百俵ほどは某が調えて進ぜ、その余り百俵は傍輩共が調えます。但し遠地の旅程苦労に思し召されるなら、恐れながら某を御代官として罷り上がり、申し宣べることが叶えられますなら」と言い出したが、義親は同意せずに傍らの近習を集めて此の事如何かと談せられる。

 面々兵糧の運送の課役を厭がって言を巧みに申すことは、「今この乱世ですから諸民は草臥して貧しております。白米二百俵の課役運送の人夫費も莫大であります。その上彼の(中畠)上野は尋常を越えて利口第一の人でありますから、御代官にこと寄せて秀吉公御前で如何ように申し上げるか計り難いです」と申したので、(以下は四家合考の文である)義親は政宗に頼んで、使者一人を添えて「海松黒」と云う馬に逸物の鷹を添えて太閤へ進ぜられた。が、政宗は子細を承知して某の事は良きように披露するとして、会津を立って小田原へ登っていった。政宗は思いの外太閤より御不審を蒙り、底倉という山中に蟄居されていたが、身の上さえも案じられて煩わしく、義親のことは一向に沙汰もない。あまつさえ義親が太閤へ進ぜられた馬鷹も政宗が自身の土産と披露して、義親が上らせた使者を政宗御辺の事と、随分良いように太閤へ申し上げたものの、陣中の動きが如何ようになっているのか、未だ明らかでない上御沙汰もなく、結局、政宗身の上さえ云々の次第であるからと、言を返し遣わされた。委細の沙汰は向後承って、後より申し遣わせると白川へ下されたので、義親は誠であると心得て所領安堵の事は子細もないと政宗の下りを心待ちして日を送っていた。

 ところが政宗は会津仙道を没収せられ、本領ばかりは安堵されて下られたが、義親の許へ使いを立て御辺の事を強く申し上げても如何なる子細なのか一向に御沙汰に及ばず、結局我が身の上さえこの様に罷りなったのだから此の上は力も無い。御辺その城の住居も如何になるのか、一先ず何処かの地を開いて居住し、他日殿下より御赦されて後に復されるべきと案外のことであったので、義親は如何にしようかと思案して太閤の御辺に出てお詫びを申し上げたが、許容無く領地を没収されてしまった。
 按=土人所伝ではこの処に少し異同あるとしても、皆此の時始めて白川が太閤へ通わせた如く云っているが、その前に通わせた文書を仙台の白川家に蔵する。

  
                                                     

 この文によれば白川の改易は御迎えに出なかったことだけではなく、他に子細あり。東太平記、白川記等に記されるのは一端であり、詳らかではない。


 巻ノ四後編 その2

 不説祚(訴)  人情
 義親は城西の金勝寺と云う禅刹に忍住して居られたが、(小峰)城を賜わった勢州人(伊勢)の関右兵衛尉が使いを立て、「由緒ある御身が地下に居られては下郎の推参も覚束ないでしょう、一先ず何れかの地へお退きいただきたい」と申したが余りにも痛々しく思われたので、公儀を恐れ斯く申し入れたのですと云って送る際に、義親は「某も左様に思っていたけれど暫くの間、住所を求めている内に延び延びになってしまった。近々立ち退き致します」と云って、那須の内湯本と云う所へ移られた。

 さて義親は累代の所領を離れ、古郷の青澳川(阿武隈川)に澄んだ月も如何かと萬(よろず)越方のことも懐かしく、それとなく往来の旅人に紛れて白河へ行ったが、関川寺は結城代々の墓所であるゆえ、得峯和尚に見参して今昔の物語をしていた。その内に義親に志しを抱いた郎従の先手より、地下に忍んで居た者共の方へ此のことを知らせると、十人ばかり酒肴を持参して関川寺へ参られた。始めの程は静かに忍びやかにあったが夜が更けるにつれて声高になり、哀れ世の騒ぎにもなってきて、『某(それがし)も一方の大将を承りたい。我も御為に思いを曝したい』などと、今すぐに企てをするような物言いであった。

 ここに小峰寺の僧が還俗して関右兵衛尉に奉公している者が居て、関川寺の喝食と馴染になりその夜も忍んで来ていたが、義親御座しているとあって潜めいて話をしているので、詮方なく仏壇の下に潜り込んで件の者共の話しぶりを聞いていたが、さては此の者共は謀叛の企てをしているのだと決め込んで、右兵衛尉に告知して恩賞に預かろうと思い、執事者方へ行った。執事者方に「昨日、謀叛の談合を聞きました。始めより承っています。先ずは住寺得峯を始め、武士には斑目信濃、遠藤某等であり、地下には当宿検断土橋但馬、星参河同じく孫三郎、矢部主税と申す者です」と談合の始終を真に迫って語ったので、皆は悉く絡め取られて終には首を刎ねられ、三十三間堂の前(今の桜町の端に昔三十三間堂があったという。今に小字となる)に獄門さらしとなった。

一、蒲生氏郷下向の後、関川寺へ所領を寄付されることあり。その子細は氏郷が未だ伊勢に居た頃、此の奥より馬を求めて上られる時に、白川にて難渋の子細があって滞っていた折、得峯の口入れで通された事もあり、此の馬が逸物であるところから氏郷秘蔵の馬として、関川寺栗毛と名付けられ、管領の地となった後に旧恩を思い寄せられたものである。

一、世俗の言い伝いに、昔此の地に毒蛇が居たのを、関川寺の住僧が法力を以て調伏した事を喜び、銭百文の内より四文ずつ往来の者より此の寺に納めたと云う。四家合考には太閤秀吉公の時、所々の関の役目が破れたので関銭を改め、川の字の関川に作ったとある。然しながら是より先に結城直朝の法名関川寺殿と云う、直朝の菩提所の為に営んだ寺であって、関銭というのは伝い混じりである。
今、関東では我が地に至る迄九十六銭を百文とするのは、天文の頃上杉憲政の家老長尾意玄が通用に利便だとして、関東の国々へ令して九十六文を百文とした。白川は関東に隣接しているので白川迄は省百文を用いたのであろう。



   結城氏庶流
盛廣=結城摂津守入道道栄と云う。白川の内数か村を領しその族系を詳らかにせず。証拠文書の文保二年の書に見る。後に坂東武家に属し亡くなる。

祐義=片見彦三郎は上野介宗廣の代元弘三年宗廣請け文に見る。鎌倉に在って義兵を挙げ北条高時を討つ。白河郡に片見村があり、祐義がその地に在った故に名乗ったものであろう。子息もあったようであるが後のことは詳らかならず。

廣尭=但馬与七左衛門尉と云い、白河郡田島村清光寺の開基にして清光寺殿鉄関宗無と云う。位牌今に存有する。牌子に「廣尭前常陸國住篠原城也延慶年中本領七ヶ村、知行高一万三千石而同年中陸奥住
田島城也元弘三年依』とある。
後醍醐帝の詔にして兄結城入道宗廣並びに一族相共に相州北条入道高時を征伐して軍功あり。暦応元年二月二十日卒と書してある。墳墓も寺の後ろにあるが、古碑多くの文字を滅している。子孫は天正の頃まで田島村を領し、結城ノ臣として田島信濃守と云う忠義を結城義顕に尽くしたことは「義顕」の條に見えている。此の信濃守の前に与七左衛門尭重と云う人が板橋村旧記に見えている。

 親光=太田判官又は結城七郎左衛門尉とも云う。親光の代であるが太田と名乗る事詳らかならず。常陸国太田を領したのか其の頃白河より常陸の内を所々領していた。親光は兄親朝とは打って替わり、和田、楠にも劣らず忠を尽くした。太平記元弘二年秋、畿内近国の凶徒が蜂起する由を注進する。相模入道大いに驚き一族その外を東八カ国の中に、然るべき大名を催して差し上げた。その内に結城七郎左衛門も加わっている。

 同三年四月後醍醐帝は伯耆国船上より人数を差し向け、京を攻められた時に両六波羅は度々の合戦に打ち勝っているので西国の敵は恐れるに不足と欺きながら、宗徒の勇士と取り憑かれている。結城九郎(七郎の誤りであろう)左衛門尉は敵になって山崎の勢に加わると見えている。同月二十七日には八幡山崎の合戦と兼ねてより定められていたのを、官軍これを聞いて難所に出会って不慮に戦いを決せよと、千種頭中将忠顕朝臣は五百余騎を赤井河原に控えられ、結城九郎左衛門尉親光は三百余騎で狐河辺に向かうとある。

 北条悉く平らげての後、六月六日東寺より二条の内裏へ還幸の時、親光御供仕った。竹内慈厳僧正を召されて天下安鎭の法を行なわれた時には、甲冑の士四門を固めるがその警固には結城七郎左衛門親光、楠河内守正成、塩谷判官高貞、名和伯耆守長年であった。大塔宮を流罪に処せられる時、宮御参内されたが、結城判官、伯耆守二人が兼ねてより勅を承る用意していたので、鈴の間に待ち受けて奉捕した。又西園寺大納言公宗は北条刑部少輔時典を大将として謀叛の企てありが露見したからには、結城判官親光、伯耆守長年を差し副えて大納言公宗、橋本中将俊季並びに文衡入道を召し捕って参るよう仰せ下されて、勅宣の御使い其の勢二千余騎が追手搦手より押し寄せて取り巻いた。

 俊季朝臣は退いた後の山より何地へともなく落ちて行った。公宗卿と文衡入道を召し捕って、文衡入道を結城判官に預けられ三日三晩の拷問に付されて、残すところ無く白状した。この頃天下に唱えられたのは、結城、伯耆、楠千種、頭中将を三木一草と云われ、朝恩に誇れる人々だと記されている。建武三年正月足利尊氏が関東より攻め上がった時、親光は新田義貞と共に大渡において東兵を防いでいたが、叶わずに引き退いた。建武年間記に恩賞方番文と云う下に、親光 太田判官 と見えている。朝廷の要職を務めていたものか梅松論に親光討死の事を記して曰く(太平記と異同あり、梅松論が詳述しているので記す)

 建武三年正月十一日午の刻将軍都に攻め入り、洞院殿公賢公が御所に御座していたが、降参している輩は注進する暇も無いところに、結城太田判官親光が触れ回って忠臣の義を表したので、見る人は勿論のこと聞き伝える族迄も賞賛しない者は無かった。十日の夜山門に臨幸の時に追いついて奉り、馬を下りて兜を脱ぎ御輿の前に畏まって申し上げたことは、「此の度官軍が近く鎌倉へ攻め下るも、太平を致すべきところにも無く、天下がこのような成り行きであり、併せて大友左近将監が佐野において心変わりしたこともあり、故があるにしても一度は君の為に命を奉るべきと御暇を給わり、偽りの降参をして大友と打ち違え、死を以て忠を致すべきと思い切って下賀茂より打ち帰ったけれども、龍顏を拝し奉らんこと今を限りと存じますれば、このように引き返して来ました」と不覚の涙で鎧の袖を濡らした。

 君も遙かに御覧して送り、頼もしくも哀れにも思し召したので御衣の袖を絞られていた。去る程に東寺の南大門には大友の手勢二百余騎が打ち出てきた。親光一族益戸下野守(関八州古戦録に、益子は竹内大臣苗裔大納言紀古佐美十五世、紀八郎貞頼が始めて常州信太郡を賜わり信太庄司と称し、子孫連綿として今の益子紀四郎重綱に至る。

 四万三千石の所知を領している《天正の頃の事である》)家人一両輩召し連れ、残る勢は九条辺りに留め置いてから大友に付き偽って降参の由を言うと、大友は子細に及ばずと言って東の洞院の小川を越えて打ち連れて行くところで、大友が「将軍の御陣に近いので法によって御具足を預かりいたします」と言ったので、親光は「我ら御味方に参ったからには、やがて一方をも仰せを蒙り忠節を致すべきもの、戦場において具足を差し出すことの面目なし」と云いつつも、「御辺を頼り奉る上は恥辱とならぬように計らってください」と云って帯びた太刀を差し上げて川の西へ渡る時に、大友が「ご対面の後にお返しします」と言って太刀を受け取ろうとするところを抜き打ちに切り掛かった。

 大友は隙を与えずに駆け出しながら切り合ったので、親光はその場で討たれてしまった。同じく親類も十余人が一所に組み合って討死する。大友は目の上を横様に切られたが、大事な場合なので鉢巻きを頭にからげて輿に乗り、親光の頭を持参して参上した。事の次第は誠にゆゆしく痛ましいと見えて、「親光の忠節を尽くした最後の振り回し姿は、昔も今もそう有るものではないと覚え。弓矢取る者は皆天晴れな勇士であり、誰もが斯く有りたしと涙を流し讃えない者はなかった。益子下野守も討死し、大友は翌日になって死んだ。(関城書に其の跡の続きがあり、『忠と言えば親光の子孫もあるのでは?その名の聞こえないのは恨むべきである』と、太平記二十四巻に結城太田三郎とあるのは親光の後か)

朝常=結城三河守と云い親朝の次男である。高野郡に住んで居たと見えるが、本朝通鑑に此の人は小峰を名乗るとあり、才略は兄の顕朝にも優るほどであったらしく、文書に因って見ても本家白川よりも盛んだったように覚える。祖父や父と同じく南朝へ属していたが、後に父と同じく武家へ興した。その始めの文書、水戸結城家に蔵する。

    


 桜雲記に「正平五年九月二十五日奥州白川の住人、結城三河守が兄大蔵大輔に叛いて、再び南方に属し北畠顕信卿に従い、石堂秀慶を討つ。十二月に於て(註=この十二月は翌年の正平六年)奥州五辻源少納言右馬頭清顕と石堂秀慶が合戦し、石堂等敗軍となる。尊氏卿より朝常を招く為に与えた文書が相来七郎右衛門の蔵にある。

 
 此の書の康永二年は朝常の父親朝が始めて南朝へ属した年月である。親朝の条に載せる大蔵少輔へ与えた康永二年二月二十五日の書と符合する。合わせて見ると良い。朝常が南方の志を強く抱いて、簡単には翻さなかったのではないか。右馬頭清顕等と共に策応したその返書が白河七郎の蔵にある。

   


斯く有るけれど後に武家として、懇ろに味方に属せよと尊氏卿から招かれる書あり。相来七郎右衛門の蔵する書には、幾度も叛いている者をも招かれる当時の事情は、これらの書を以て知るべきである。

   


 此の人は会津の内、又は名取の内を領する。白河七郎の蔵に



 朝胤=朝常の弟で讃岐守と云う。沙弥宗心の文書に、田村一族穴澤左衛門茂季の任官の事を論じて、朝胤等のことは他に準じてはならないと、衆に異なる事を論じている。また、仙台白河蔵には ↓



 満政=白川辺りの古事記とも云える冊子に、朝常の孫満政と仙道の諸将で、誓紙を書いて笹川殿へ奉った図がある。白川の嫡家よりもれた故は不詳。

朝修=修理大夫に任じる。後土御門院宣を白川七郎家蔵する。朝修系図にも白川の庶流に見える。文書等にも常州の方を領したことが見えている。一万句連には既に修理大夫とあるが、この文書に拠れば文明十三年は未だ左衛門佐であるから、後より追書したものである。

直廣=系図に結城の庶流とある。文明十三年一万句連となる。八溝山鐘銘(依上の部に載る)天文七年奥州白川大檀那藤原朝臣直廣とあり。八槻大善院大盤若箱にも天文八年に寄付があり、白川を領して嫡流に似ている。文明と天文にかけて五十年ばかり(嫡流を)隔てた。直廣が二人存在したのか、又は長生きしたものか盤若箱の銘は

  大檀那奥州白川藤原朝臣直廣  斑目

 本願高野郷八槻近津別当権少僧都淳良
        番匠草壁左惣四郎
        塗師薄葉 新六
  出日天文八巳亥八月十三日筆者太白山之正悟
  生母山長廣寺 八槻近津之宮大盤若

 盤若の筆者姓名は石川末孫皇徳寺住侶才雲正首座六十二歳天文六年戊戌十月二十四日より同九年庚子蕤賓下澣日畢
按=直廣庶流であり白川郡の南方を領したようである。文書に白川南殿と有るのはこの家へ送ったものであろう。

直親=小峰下野守と云い、系図に拠れば三河守朝親の男である。本朝通鑑に上杉へ興し成氏朝臣を攻めた時、将軍義政公より御教書を下されて戦功を励ましたことを賞されるとあり、御内書の写しもある。その前後のことであろう。

   

   
   

  疑問
 会津塔寺日記に「貞治六年会津南の山川路音金村と那須板室村の間、十文字原にて、白川の地頭石堂民部大輔能高と音金本九九布郷地頭星刑部少輔廣盛が合戦する。九月七日石堂利無くして帰る」とあり、石堂の白川地頭と云う事考えられない。同書に「応安三年出羽国人兼頼白川に住む。今年結城親政を討つ」とあり、兼頼は斯波左京大夫家兼の二男修理大夫兼頼である。足利家より出羽の国司として下られて最上氏の祖となる。結城親政については疑いも無い。

 又康暦二年五月白川住人小山義政と宇都宮基綱が戦い、基綱討死とあり。小山義政が白川に住む理由は無い。そうではあるが下野粟ノ宮神主小野寺氏所持の小山系図に、下野守義政陸奥国東海道七郡検校職とあり、白川に住んだとしても計り難い。東海道七郡は未詳である。岩城相馬を東海道と云っても六郡しかない、若しくは仙道七郡の事か。同書応永三年奥州田村刑部大輔入道淨入と白川結城小山刑部少輔義景が合戦し、田村が利無く退く。文明十一年に仙道五十峯城主石川氏謀叛により白川結城政親が正月十一日合戦とあり。五十峯(いじみね)は石川氏世々居城していた泉(いずみ)のことではないか。語感が似ているので誤るか。

 巻ノ四後編終り
 白川古事考 巻ノ四(全)

 


 

 




     
                                                                                                                                                                

   

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