conparu blog

ささやかな身の回りの日常を書き綴ります。
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紅葉探勝ドライブ

2014-11-29 14:12:37 | 日記

前日から予定していた紅葉鑑賞ドライブに、28日(昨日)妻を連れ立って行ってきました。
あきる野市五日市(いつかいち)の本宿から入り、目当ての奥多摩周遊道を満喫快走して奥多摩湖に至る。帰途は道なりに青梅街道に抜けて文字通り奥多摩一周のドライブである。

天気は予報に反して曇り空であったけれど、薄雲を通しての視界は明るい。
多摩川を渡り五日市街道を西進。あきる野市街のコンビニに寄り、昼食用のおにぎりを買ってから多摩の奥地へと向かう。お茶はポットに入れて持って来た。

街道の終点である五日市を過ぎると、甲州への裏街道に入る。人家は落人の隠れ家のようにひっそりと沢筋に点在し、緩やかな勾配の曲がりくねった杉林の中を、縫うように車を走らせた。行き交う車は殆んど無い。
この道筋に秋川の源流域があり、川向いに「かけ流し瀬音の湯」の建物が見えてくる。そこを過ぎると 数馬までは寂しい山中行であった。

「どこに行くのかしら…」妻が心配そうに言う。
「山道だけど、この先に素晴らしい景色があるんだ」「知る人ぞ知る絶景が待っている、、、その知る人こそがお父さんさ」
夫の言い方が可笑しかったと見えて、妻は「ハハハ」と笑う。

数馬は兜屋根の家があるところで知られている。どっしりとした民家の構えは甲州との繋がりを感じさせる。
近年、と言っても随分前になるが、この数馬にも温泉が湧き出た。駐車場に5~6台の車が停まっているのを横目に、登坂の周遊道に入る。ここからは高原道路のような山上の舗装道が山を巻き、左手に山肌を抱いて右手に深い谷を見下ろす景観の連続が待っているはず。

山上の見晴らし台に着いたときは谷あいから霧が上がってきていた。もこもこと湧き上がってくる。足元から10メートルくらいまでの視界だ。幻想的な天然の舞台装置の出現に、感動と諦めの混同する中で咄嗟に浮かんだ歌を口ずさむ。

 山間(やまあい)の霧はさながら海に吠(似)て 波かと聞けば松風の音

妻は「すごい!」と感心している。絶妙の符合だったのだから無理もない。
「伊達政宗の歌で『山家霧』という歌さ」
「な~ンだ、お父さんが作った歌かと思った」「それにしても瞬間的によく出たね!」
「運転している最中に歌なんか作れないよ」「み~んな借り物…」

霧の中では昼食を取るのも味気ない。見晴らし台を離れて行く手の奥多摩湖を目指す。
車を走らせながら左手の山肌を眺めていると、道路から上方は霧も無くはっきりと樹木の色合いが見て取れた。
大方の落葉樹は黄葉の鮮やかさも消えて冬の装いの色を見せているが、ひと際目立つ楓の赤は行く手行く手で眼を楽しませてくれた。妻の眼元も満足そうである。

足下の奥多摩湖が見えてきた。山の中腹にはまだ霧が籠っていたが、湖水の辺りは何処までも視認できた
湖水脇の公営駐車場に車を止めて、少し遅い昼食にありついた。
青梅街道を経て帰宅するまで、全行程4時間少々の手ごろなドライブでした。

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古事記諸説

2014-11-25 22:07:46 | 随想

近年、『古事記』の人気が再来しているそうな。
学術的な研究者はさて置いて、作家の推理や素人の怪しげな解析も同列に扱われるところが面白い。
邪馬台国の卑弥呼は豊の台与に滅ぼされたという説もあり、大和建国は既に出雲王国によって既成化されていたとか、さまざまに新説珍説が続出しているさまは、ブロガーとして心強いかぎりであるとともに、深い闇はますます一灯の明かりを求めてさ迷います。

紀元前後は稲作や鉄器による弥生文化の開化時代であり、大陸からの技術や知識の伝播が日本の風土に溶け込んで独特の発展を促してきた。縄文人との融合も進んで、割と平和な時代だったのかも知れない。
強固な独裁支配者の存在は無く、互助共助による緩やかな集落体制に日本人の原型を見る思いだ。

大陸や半島からの流民が増えて来ると、狭い地域には人口の飽和状態が起きて、他の地域への拡散や争いが起きて来る。2世紀から3世紀にかけてはまさしく流動的な時代が到来していた。邪馬台国が魏志倭人伝に載るのもこの時代である。一部の地域において、小国同士の争乱が卑弥呼という女王を立てることで治まったのであるが、小国であるが故に外敵には弱い面もある。 卑弥呼が魏に使いを送り盟主と仰ぐことで邪馬台国の安泰を狙ったとしたら、外敵からすれば「眼の上のタン瘤」であったに違いない。

卑弥呼の同時代に天孫族や出雲族がいたわけで、それぞれの住み分けがどうなっていたのか気になるのである。卑弥呼を中心とする北九州連合勢力と、一段と勢力のある出雲大和集団、そして天孫族の位置関係は二転三転しつつも、豊の国(広い意味で)の日向にあったのでは?となると、豊の台与(トヨ)によって滅ぼされた邪馬台国は新たに天孫族の本拠地になり得る。

こうして出雲族と天孫族の対峙が始まっていく。この二大勢力の出自には接点がないのだろうか。
大国主命の国譲りの状況がまるで無抵抗のような緩慢さで描かれているのが気になる。
黄泉の国に降った後も、出雲の霊魂が新大和朝廷を悩まし続けたことを考えれば、実際には過酷な実力による支配があったと見るべきだろう。時代が時代だけに現代の感覚では覗けない、霊的な視力も族長の中にはあったと思う。天孫族の言う『神の国の御子』とは、元を辿れば遥かな遠祖の道程であり、遠国の足跡を秘めた言霊と言ってもいい。大国主命にも同じような言霊があったとすれば『天に届くほどの宮居』を建て我が住居としようと言ったこと。根っこには共通する遥かな遠祖の道程がある。

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奥の畦道

2014-11-19 19:29:12 | 随想

本道の脇道から畔道へと道は細って、果たして行き着くところは奥の迷い道か?堂々巡りの狐火か?
最近になってSONY CLUBの電子書籍から1000円分の図書券を頂いた。それを元に『古代史の秘密を握る人たち 誰が本当の歴史を封印したのか?』と『古代史 残された謎 あの人物・事件・遺跡の常識を180度覆す』ともに関裕二著(PHP研究所) を購入してこれから読むところ。

巻末に近いところを拾い読みしてみると、『古事記』や『日本書紀』の中で垣間見える古代史の闇の領域が、次第に明らかになりつつあるらしい。その背景には考古学の発掘調査による、文献と実証の突き合わせがあるそうだ。であっても間あいだには推測の繋ぎ合せが欠かせないだろう。読み物としてはその方が面白いのだけれど。

「『古代』誰が本当の歴史を封印したのか」?このタイトルだけでも美味しいに違いない。
太安万侶が古事記の編纂を任されたとき、「ああしろ、こうしろ」と上の方で指示した者がいたようで、決して表には顔を出さない、したたかな御仁は・・・なんと大化の改新の立役者の一人に係わると云うから、大胆な推理にぶったまげた。

古事記には『トカゲの尻尾切り』ならぬ『トカゲの頭なし』で後世の人々を面食らわせてきたところがある。
今で言う『ゲーム感覚』であろうか、「分かるもんなら解いてみな」とせせら笑っている御仁が浮かんで来る。
時は天智天皇の弟、天武天皇の時代から絡んでいて、天皇の皇后や妃を送り出し、権勢を欲しいままにわが世を謳歌した人。
一門から排出した姓は数知れず、(実は自分もその流れの端切れではあるけれど)反響はさておいて推理には推理の論があるだろうから、「時の人」の如何にして関与したかについて、本文を追って覗いてみたいと思う。

祭祀をつかさどる中臣氏が神宮の設立とどんな関係にあったのか。出雲大社を代表する出雲系の神事に関与していたのだろうか、
巻末の一部つまみ食いでは分かる筈もない。

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脇道散歩

2014-11-11 12:51:21 | 随想

古代散策が終わったはずなのですが、少し戻って脇道に入ってみようと思う。
神武と兄のイッセ命がともに大和討伐に行った時に、兄のイツセ命は河内の「白肩の津」と云うところで長髄彦の矢を受けます。重傷ながらも紀ノ川の河口まで辿りついたところで亡くなってしまいました。

この後神武軍は吉野川を遡り、「八咫烏(やたがらす)」の援軍を得ながら大和攻略に成功するのですが、神武にとってイツセ命の戦死は悲痛だったと思います。橿原に宮を置いたときにイツセの御霊を祭らないわけがない。もしかして伊勢神宮が彼を祭っているところかと思い、祭神を調べてみました。調べてみて驚いた。

伊勢神宮には内宮外宮それぞれに祭っている神が違う。だが、イツセ命を祭っている様子は無かった。内宮には当然のこと天照大神が祭られている。並んで手力男命・タクハタ姫という三柱が祭られているのだが、タクハタ姫は瓊々杵の母親(山祇族の出)だとしても、手力男命とはどうしたことか。これは天の岩戸から天照を引っ張り出した男である。

この伊勢神宮の祭神をネット探索した時に、面白いブログを見つけた。内宮、外宮ともに祭神が詳細に書かれ、伊勢神宮の謎について指摘しているのである。中西正矢氏と云う方のブログ『古事記は出雲が書いた』http://p.booklog.jp/book/57868/read
を参考に私なりの感想を述べてみよう。

中西氏は内宮の祭神について、天照大神と並ぶ祭神が脇役と正体不明者だとして、皇祖を祭る内宮であれば、天照大神、瓊々杵命、神武天皇あたりが祭られて然るべきであるのに、「奇妙な取り合わせ」だと言っている。
外宮には豊受(豊宇賀)大神、またの名をウカノミタマと言い、合わせて四柱鎮座している筈なのに三柱は不明と云う珍妙な展開は、尋常なことではないとも言っている。

何よりも驚いたことは、外宮を取り巻く諸宮の祭神がすべて出雲の神々だと言うこと。参拝の順序も外宮が優先されて、内宮が別格扱いであり、外宮が関守の役を担っているというのである。つまり「通せんぼ」して行き難くしていると云うのが中西氏の解説である。
『古事記』の内容そのものも出雲に重点を置いた書き方であるとして、出雲に関する事例は詳細に書いているが天孫族の事例はあっさり書かれていると。編纂した太安万侶は天の穂日命の末裔だが、天の穂日命の子孫は出雲国造にもなっている。
しかし太安万侶は従五位程の衣冠であるから、改ざんの主棒を担ぐとは思えない。やはり古事記の編纂を命じた天武天皇か編纂の完了を受けた元明天皇の周りで、出雲系の誰かが何かをした。としておこう。

私もブログ「古代をかじる」で、古事記『瓊々杵』の項では出雲平定の行跡が記されていないと書いた。天照大神の子として「太子天忍穂耳尊」が出てくるが神武までの勢いからすれば、天忍穂耳尊以前の勢力も強大だった筈だから、別の皇祖があっていいはずだ。何も書いていないのは不思議だと述べた。

中西氏の指摘は謎の暗部をこじ開ける鍵のような明快さである。分からないのは邪馬台国の卑弥呼との関連で、天照大神が果たして卑弥呼なのか?と云うこと。『瓊々杵の天降り』の項では『五部族の神を引き連れ』て東遷したとある。しかも「葦原の国が平定されたから降って行って治めよ」と天照と高木神からいわれている。五部族の神とはアメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマノオヤ、という海神族系の出である。すると、葦原の国が出雲だとすれば、それまでは荒れていた葦原の国を平定したのは誰か?ということになる。瓊々杵が出雲に着いたとき出雲を支配していたのは大物主(大国主命)であるから、大物主命が高天原の命令で平定したともいえる。そこへ天照の直系の瓊々杵が降って言って治めよと言われるのだから、大物主としては心穏やかでない。

天孫族が単一族で行動していたとは思えない。天照大神と一緒にいた高木の神の娘ヨロズハタトヨアキツシ姫は太子天忍穂耳尊の妻であり、山祇族の出だとされる。とすれば五部族の神と合わせてかなり広範な地域を支配していたことになる。この辺のことが『古事記』で消されているのではないだろうか。邪馬台国が九州にあったという見方は変わらないけれど。

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新しい都

2014-11-09 09:00:00 | 随想

「天照大神を太祖とする天孫族が天から『高天原』に降ってきた。」
古事記の神
には太陽神を信奉してきた天孫族の伝承が垣間見える。高天原とはいったい何処なのだろう。
瓊々杵の父、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)から始まる北九州上陸の拠点が、即高天原と云うのは短絡に過ぎるだろう。

カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)までの三代の勢いを見れば、渡来する以前の勢力がかなり強大であったことが覗える。
海の彼方の祖先の王国が幻のような存在であったならば、望郷も込めて「彼の地」と上陸した拠点を「高天原」と呼んでもおかしくは無い。
出雲が先住民の王国とするなら、北九州は天孫族の新興王国として勢力圏を拡げて来た。そして出雲は国譲りして影を潜め、大和の長髄彦は駆逐されて諏訪に逃れたが、捕えられて息の根を止められた。出雲の血統としては宇摩志麻治によって引き継がれるのである。宇摩志麻治は饒速日と御炊屋姫との間に生まれた子であるから、天孫族と出雲族(海神族)両方の血を受け継いでいる。

前回の「神武東征」に載せるべき足取りです。(参考まで)


神武の橿原宮の造営に始まる大和朝の皇室の中で、婚姻関係を結びつつ重要な職責を果たしてきた物部氏こそ、宇摩志麻治の後裔として出雲族の陰の存在を続けていくのである。(私の古代散策はこれでおしまい)

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神武東征

2014-11-08 21:00:00 | 随想

伊勢神宮に祭られている「三種の神器」の由来は、瓊々杵尊が高天原を出て東遷するみぎり、筑紫野の天の岩戸にお参りして勾玉と鏡と剣を授けられた。『祖先の天照大神として奉際せよ』と託されたものである。高千穂峰の宮にあっても奉際していたであろうが、神武の東征によって橿原に都が築かれた時、東の日の出る地に宮を建て「三種の神器」を奉安したのが伊勢神宮の神宝となった。

神武の東征の足取りがあっちこっち跳んでいるのは、父親の彦火火出見尊や祖父の瓊々杵尊の足取りが混入されているからであろう。
瓊々杵尊と彦火々出見尊の親子が出雲を征服した後も、長髄彦が支配する大和やそれに連なる安芸の国や吉備の国には、まだまだ抵抗する勢力があった。

神武が兄のイツセ命を従えて大和征伐に赴いたのは、大まかに言うと日向の港から船団を組み、豊後水道の「速吸の門」を通って瀬戸内に入り、難波湾の河口から河内湖(当時は大きな湖があった)の北辺にある「白肩の津」に着いた。ここで大和を支配していた長髄彦の猛襲を受けるのである。戦いの端緒からイツセ命は矢傷を負ってしまい、神武軍は退散することになる。
イツセの命が「(天照大神の子孫が)日に向かって戦ったからこのように傷を負ったのだ、これからは南にまわって日を背にして戦おう」と言った。



船団は
矢傷を負ったイツセとともに、難波湾を出て泉ノ国に至る。ここで傷の手当てをした。
一応の手当てが済んだところで、さらに南下して紀ノ国の「ヲの水門(ミナト、紀ノ川の河口)」に着いたのであるが、とうとうイツセの命は絶命してしまう。亡骸は紀ノ國の竃山(かまやま)に埋葬した。

神武軍は紀ノ川を遡り吉野に至る。ここでは蕃族の強力な抵抗にあい、身動きが出来なくなってしまった。
膠着状態になっているところへ「八咫烏(やたがらす)」が現れるのである。(熊野一帯の有力者たちであろう八咫烏は、神武の進軍を助けて大和攻撃への道を切り開いた)

いよいよ大和への進入である。

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天照らす王家

2014-11-07 10:41:35 | 随想

天孫族の系譜で最も上位にあるのは天照大神であるが、これは人名ではなく信仰の対象である。おそらく大陸にいた祖先の時から祭られていたもの、太陽崇拝信仰が背景にあるのだと思う。
人名で最初に出てくるのが太子天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)と妃ヨロズハタトヨアキツシ姫(高木神の娘)であり、邪馬台国の卑弥呼や台与は出てこない。・・・となると古代の国家成立から考えて、北九州の群立国家の中で対外折衝に当たっていた官庁所在地は「伊都国」であるとされるから、実力から言って中心的な勢力圏を持っていた伊都国が、一時的に邪馬台国の卑弥呼に統括を認めたと考える。女王を以って争乱を抑えるためである。再び争乱が起きた後には台与を以って『邪馬台国』の消滅が訪れた可能性もある。

では「伊都国」がその後の九州を支配したのかと云うと、その痕跡も見られない。太子忍穂耳尊の登場を以って九州の新王朝(神の国=高天原)が出現したものと思う。おそらく朝鮮半島から渡来した王族の一人であろう。
一方出雲族の方は、早い時期から渡来して広い地域を支配していた。中世の桓武平氏が関東一円を支配していた構図と同じである。後発の清和源氏が関東の覇者となるには、平直方(後の源頼義=嫡流)を婿に迎えることで基盤が出来るのである。

他部族を排除するのではなく同化しつつ主導権を握っていく。天孫族が出雲族の中に融和していく過程が、天若日子と孫の饒速日の出雲族への入り婿であった。ただ、主導権までは得られなかったようである。古事記第五項「天照大神と大国主命」の「天若日子」の段では、若日子が婿に入ったまま、「8年経っても音沙汰がないのはどうしたものか」と高天原の神たちが騒いでいる。そうしているうちに出雲では若日子の孫である饒速日が事代主の妹御炊屋姫と結婚して宇摩志麻治を産むに至った。

目論見の外れた高天原では、追討軍として太子天忍穂耳尊を送ることにした。若日子も王子であったから兄弟と云うことになる。太子天忍穂耳は自分に代えて子の瓊々杵尊を送ることになる。
若日子から太子忍穂耳尊そして瓊々杵の行動がかなり躍動的に記されているにも拘らず、それ以前の祖親が記されていないのは如何したことか。語るに語れない理由があるのだとしたら、戦いに敗れて渡来したか、何かの理由で親から追放されたと云うことも考えられる。

古事記の謎のひとつに「豊葦原水穂の国」「葦原中つ国水穂の国」とがあるけれど、前者は「豊」が示すように日向や豊前豊後の九州東部の広範な平地を指しているのではないか。後者は出雲の支配する豊かな土地を表しているように思う。

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卑弥呼の都

2014-11-03 19:21:39 | 随想

日本人は何処から来たのか?邪馬台国の所在地論争と合わせて、謎の民族とての物議を醸してきた我々の世代。
まぁ、大上段に構えなくても東の果てに位置する国なのだから、さまざまな時代の流民が漂着したであろうことは想像できる。
幾多の文明の変遷を経て、大陸や半島から新しい技術が流民とともに入ってきた。
大陸も半島も島国も激流の争乱期に巻き込まれたところに『卑弥呼女王』が誕生する機縁となった。

邪馬台国の周囲には伊都国、不弥国、奴国、末盧国、投馬国などがあったとされるが、男王の治世下でこれらの小国が乱れて相争うようになった。そこで女王を立てることで乱を鎮めたと言う。卑弥呼は邪馬台国を統べながら周囲の小国をも統率したことになる。その要因は大陸の魏の庇護の下に、女王の地位が確かなものになったからである。

ブログサーフィンをしているうちに、ある方の(名前が分からないのが残念)古代研究私論を面白く読んだことで、『卑弥呼の邪馬台国』が九州にあったという思いが強くなった。大陸や半島に近い北九州が最初の流民地として集落化し、徐々に内陸部へと勢力を広げていったのであろう。肥沃でより豊かな筑紫平野に至り、卑弥呼や台与の登場する時代がやってきた。国としてはまだまだ弱い基盤だったと思われる。大国の魏や晋国の保護を受けることによって、周囲の群立小国の脅威から都を守ってきた。


大陸の魏の後を継いだ晋も滅亡にいたると、九州の王国にも争乱の時代が再来した。そんな中に卑弥呼の時代は終わる。
次に登場したのが台与であった。次々と流民が押し寄せる北九州の位置関係を見ると、いつ強力な武力集団に襲われるかも知れない不安があったと云える。時代の次のステップとして、より内陸の安全な地域を求めるのは自然な成り行きだ。


古代筑紫を中心に海岸線を辿り、あるいは部族間の情報のやり取りによって、自分たちのいる所が(九州の)島だという認識はあったと思う。古事記の『瓊々杵』の項では、天照大神と高木の神によって豊葦原水穂の国を支配するように命令されるのである。瓊々杵命の東遷の足掛かりとして高千穂に赴く時、猿田彦に出会う。猿田彦は豊葦原の中心を治める者だと言って高千穂に瓊々杵を出迎えた。と云うことは猿田彦の豊葦原とは高千穂峰の東に広がる日向や豊後を指すのではないだろうか。

「日向を回りカササの岬に行き交うこの地は」『朝日の照り輝く国、夕日の輝く国』だと高千穂を褒め称え、高千穂の峰に宮を建て住むことになった。瓊々杵は高千穂が気に入ったらしく長年滞在している。瓊々杵の子のヒコホホデミ(彦火々出見)は兄の釣り針を失くして探しているうちに猿田彦の娘、豊玉姫と玉依姫に出会う。豊玉姫との間にカムヤマトイワレヒコ(神武)が生まれるのであるが、豊玉姫を返して玉依姫との結婚もあったりでなかなかドライな貴公子のようである。このヒコホホデミは高千穂宮に五百八十年いて亡くなったとある。御陵は高千穂の山の西にあると言う。


瓊々杵命が五部族の大軍を率いて出雲に向かったのもこの地からであろう。古事記『瓊々杵』の項では語っていない。

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