conparu blog

ささやかな身の回りの日常を書き綴ります。
[ブックマーク『conparuの白い航跡』もよろしく]

古代をかじる その4再

2014-10-28 14:08:46 | 随想
 
古代をかじる その4

そもそも何のために古代をかじるのか?ただかじるだけでは味気がない。古代において出雲の王国が影をひそめたのは何のためだったのか?天孫降臨説の大和王朝が隆盛を極めて行った時代時代の中で...
 

出雲王国が平定された後、瓊々杵に従属した出雲族の主流は、神武の代になって大和に移住するわけだが、出雲の地には何が残ったのだろうか。大国主命(大物主命)と事代主命は世に隠れ、大社の奥に眠っている。現在出雲を支配しているのは、天孫族の瓊々杵に近い有力者であろうし、邪馬台国の故地と王都大和の中継地として重要な位置づけにあるので、政治的にも出雲族の残存者を融和する上で、大社の建立の意義は大きかったはずである。

出雲大社の存立によって、黄泉に下った大国主(大物主)は陰の統治者として生き続けるのである。出雲大社と伊勢神宮の対比は陰と陽の相関であり、黄泉の力に対抗する新生の旭光として対立する。そうせざるを得ない大和の政権にとって、東方の蝦夷地に散在する山祇族(やまつみぞく=縄文人)の反勢力は厄介な存在だ。余談だが大和の橿原宮の真東に伊勢神宮がある。とても意味深に思えるのだが、既に風水の思想があったのだろうか。

天孫族のカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が橿原に都を定めてから、都の造営に費やした年月は数代に及んだであろう。当初から立派な建物があったとは思えない。
取り敢えずは大和の地を強固に固めることだ。

遠地の対抗勢力である熊襲や東国の蝦夷を討伐するのは、ずーっと後の世代で景行天皇の御子、日本武尊の活躍を待たねばならない。(当方の古代散策は必ずしも学術に沿ったものではありません。)

コメント

古代をかじる その3再

2014-10-23 19:08:51 | 随想
 
古代をかじる その3

饒速日が大物主の娘、御炊屋姫と結ばれて出雲族の婿となったまま居ついてしまったわけだが、ここに来るまでの経緯をもう一度古事記の初めごろに戻って辿ってみよう。高天原の天照大神と高木の神...
 

        饒速日と瓊々杵の出雲への関わり
                   
                   
  

高天原の天照大神は出雲を平定すべく、諸々の神と話し合っている。御子の若日子(天津彦根命)を出雲討伐に向かわせたが失敗したので、次に誰を送るか協議しているのである。

決まったのが太子の天忍穂耳命(あめのおしおみみのみこと)であったが、命は願い出て子の「天日矛瓊々杵命」(あめのひほこににぎのみこと)を送りだした。

別の項ではアメノヲハバリ神の子タケミカヅチを遣わしたとある。神の子を被せたのは天孫族の伝承的な武神信仰が背景にあるのかも知れない。
瓊々杵命が出雲征討に赴くまでに出雲では新たな事態が起こっていた。若日子の孫である饒速日(にぎはやひ)が出雲族長(事代主)の妹、御炊屋姫(おすいやひめ)と結婚して宇摩志麻治(うましまじ)を産んでいたのである。

瓊々杵命は出雲に赴いた時にこのことを知ることとなる。太子の子として天孫族王の直系である瓊々杵は饒速日に対して降伏するように説得した。饒速日は宇摩志麻治とともに瓊々杵の軍門に下って、抵抗する健御名方(たけみなかた=長髄彦と同人か)を諏訪に追い詰めて滅ぼした。

出雲族と天孫族の血を引く宇摩志麻治は物部氏の祖となり、その子孫は大和朝廷の重要な構成員となる。天孫族の本拠地は邪馬台国から大和へ移り、念願であった内陸の安全地帯に都を築くことができたのである。
瓊々杵命が出雲を平定してからその子、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)その子、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)=神武天皇の代になって、大和の地に連綿と日本の歴史が刻まれていくのである。紀元2世紀ごろの夜明けである。《初代神武天皇》

コメント

古代をかじる 再

2014-10-15 22:49:44 | 随想
古代をかじる その2
         
 
日本列島への民族移動が始まる前に、南方洋や大陸北方から個々に渡来し、移住した原住民がいた。蝦夷や熊襲となる元祖だろう。アジアの広範囲から人類の移動軌跡があり、足...


 「古代をかじる その2」は2013年10月13日にブログに載せたものです。
饒速日(ニギハヤヒ)と 瓊々杵(ニニギ)は同族の天孫族ですが、東征の一次隊と二次隊の違いがある。一次隊の饒速日は東征先である出雲族の入り婿となって宇摩志麻治を産み、 居ついてしまう。
本拠地の邪馬台国の命に背いた行為であるから、征伐隊の二次隊として瓊々杵が遣わされたのである。おそらく先遣隊の数倍の兵力と武器を以って出雲に乗り込んだのであろう。

出雲の銅剣の武器に対して鉄剣の武器を持った瓊々杵の勢力の前に、饒速日は帰順を余儀なくされ降参するが、出雲族を率いる長髄彦(ナガスネヒコ)は最後まで抵抗して絶滅するのである。
邪馬台国にとって大陸や朝鮮半島からの侵略に弱い、(九州の)筑紫野に居るよりももっと内陸の安全地帯を求めたかった。そのためには出雲王国の勢力圏を打破しなければならなかったのだ。

出雲王国の支配地は大和地方にも及んでいたので、後の神武(イワレヒコ)の代になって熊野地方から攻め入り征服します。大和政権の始まりです。

古事記に記された神武天皇の東征が、どのようなルートで行われたのか釈然としなかったのであるが
、出雲を征服した時点ではまだ筑紫野の何処かに本拠地があったようだ。
だからこそ瓊々杵の東征と神武の東征が重なって表されるのだろう。

大まかな足跡を掴むことで、流れとしては自然だと言えることもある。
ネット探索により、非常に参考になったブログもあります。古事記を覗いて謎の多い筋道が、自分の中では一本に纏まった感が得られた。ど素人の古代散策としてはこれでよい。

コメント

備えありても憂いあり

2014-10-12 23:09:04 | 日記

三連休の締めくくりは、19号台風の殴り込みとなりそう。
こちらは自称《暴風雨圏外》にあって台風の災害から免れて来たけれど、今度ばかりは如何かな。

毎度のことながら事前の予防策として、風に飛ばされそうなシートや植木鉢の固定をしたのだが、予防策をとること自体が免災の交換条件みたいな、「御まじない的慣行」と化しているところがあって、万一何もしないでいたなら、そんな時にこそ甚大な被害にあうだろうと、前時代的感覚を保持している。

ところが、敵は意外なところから侵害してくる。先ほどの台風18号では庭に面した居間の鴨居から雨漏り水が滴り落ちた。雨が小降りになったころ合いを見て外部を点検すると、壁とアルミサッシ窓枠の繋ぎ目辺りが怪しいと見たので、パテや充てん剤を装填した。

そして今度の19号来襲を前に念入りに壁を点検してみると、ベランダ取付け部の壁がパカパカ剥離して浮いているのを見つけた。おまけにひび割れている。雨漏りの本元はここだ!
心もとないが一応の処置をしといた。

部分的に家の補修をする場合や、ベランダ取り付け工事をした時など、今時の職人さんには悪いが、手抜きとか未熟な施工で当たり前に金を取ることが目立つようである。
外壁の補修くらいは自分でもできるので、キチンと直してみよう。下地のシーラーが大事だからね。

コメント