conparu blog

ささやかな身の回りの日常を書き綴ります。
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この一年、ありがとう

2008-12-31 18:12:00 | 日記

早々と柚子湯に浸り、時間待ちのカフエに来ているところ。後は熱燗をすすりながら、御節を食べます。例年のごとく、飲んで食べつつ紅白歌合戦を見ているうちに、うたうた寝てしまうかもね。

それでは皆さん、よいお年をお迎えください。

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料理チャレンジ

2008-12-29 21:54:00 | 日記

日中は好天気の快晴だったので、妻と徒歩コースをぶらりと歩いた。
大晦日まで後二日に迫り、正月料理などを作っている家庭も多いのではないだろうか。
我が家では妻が得意な腕を振るって、晩餐を作る慣わしになっているけれど、御節料理だけはコープTのカタログで取り寄せている。面倒なことはパスすることに決めているみたい。

さて、快晴の街頭を歩いたせいか、私が料理に挑戦してみようという気になった。
A新聞家庭版に紹介された『筑前煮』と言う、福岡の郷土料理で『がめ煮』とも言うそうだ。
根菜を主体にした鶏肉との取り合わせで、いかにも田舎料理の風采が好きなのである。
鶏肉を一口大に切って炒めたあと、ニンジン、ごぼう、レンコンの乱切りにしたものと、指でちぎったコンニャクを炒め、茹で銀杏を入れた、きわめて入門コースらしい「私の料理基本」といえるものである。が、が、出来上がってみれば、『筑前煮もどき』と言えなくもない。
こってり感はないけれど、味の方は結構いけていたので良しとしよう。酒を使う料理をしたのは初めてでした。

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新しい時代の始まり

2008-12-28 23:28:00 | 歴史

稚拙ながら中世の時代の変動期を書き出してみたのですが、時代の局面は連綿と次の時代に連結していくのだ、ということを言いたかったわけです。

平治の乱後、平氏の隆盛は目を見張るものがあります。
ライバルのいない独壇場で、清盛は太政大臣に登りつめ、中宮に参内させた娘徳子が後の安徳帝を産むことで、天皇の外戚にまでなっていました。

一門が殿上人となった平氏の治世は、揺るぎないものと、誰もが思ったでしょう。
風前の灯であった源氏の遺児が、図らずも助命にあって成長し、歴史の流れを振り返ったとき、胸に去来するものは何であったろうか。

既に藤原摂関時代は崩壊して消滅し、武家の平氏が貴族体制を引き継いだけれど、登りつめれば驕りの出るのは同じこと、平氏に不満を持つものも増えてきます。

伊豆に流された頼朝が、時代の終わりを見ていたとしても不思議ではない。
合い呼応するかのように、関東武者の中で密かな願望が生まれてくる。

頼朝が伊豆に流されて来たことは、歴史の配慮と云うべきか、新しい時代の萌芽が頼朝の眼を通して描かれてきた。

勿論、監視下に置かれた頼朝一人で描けるものではない。都の様子を逐次知らせる者がいたからこそ、リアルに平家打倒の狼煙が上がり得たし、武家政治という誰も想像したことのない、新しい統治の構想を練ることが出来たのだと思う。

細々と書くのはこの辺にとどめるが、平安朝の終焉に導いた争乱の道糸が、武士の台頭とともに政治体制を大きく変える事になった。

結論として、源平合戦が院政も含めた貴族政治に終止符を打ったことである。
国を二分しての大掛かりな戦いが、体制の改革を招き、鎌倉に武家政治の実権を打ち立てた。

ここに保元の乱から発した乱世の、大きなうねりが収束したと言えるのではないか。 おわり

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平治の乱へ

2008-12-28 02:01:00 | 歴史

世の流れは変転として定まるところなし。一滴の雨水が、やがて岸辺を洗う奔流となり、大河に合流し、とうとうと脈打つ大海に注ぎ出て、再び一滴の元に返っていく・・・。

貴族の力が衰退し、朝廷の威光も昔日の輝きを失った今、清盛と義朝という武士の頭領が登場してきました。
戦いを通して、自分たちの武力こそが時代を変えていくのだ、という思いが強まっていきます。

清盛たちが熊野詣で留守の間に、信頼と義朝軍は院の御所三条殿を襲い、後白河院と同母姉の上西門院を二条天皇もろとも内裏に軟禁して、王手飛車取りの絶好妙手の布陣を敷いた。その一方、逃亡した信西を打ち、その首を京大路に晒した。

しかも軟禁した上皇方に迫り、信頼は大将に、義朝は播磨の守に任じられた。播磨守であった清盛は領国を取り上げられたことになる。

一大事は熊野の清盛にも伝わりました。王手をかけられた清盛は九州に逃れようとしましたが、周りの諌めもあって思いとどまり、兵を集めながら京に向かいます。

清盛は十万の大群を率いて京に上り、義朝軍と対峙したものの、上皇と天皇をとられている以上、決定的な攻撃が出来ないでいる。このままでは勝ち目がない。

この状況を打破しなければ、十万の大群と云えども張子の虎である。
清盛という武将は、冷静に状況判断ができ、策力に優れているようだ。

清盛は一計を案じた。軟禁されている後白河院や二条天皇の奪還を狙ったのだ。

手立てを考え手筈を整えて、事の次第を院や天皇の側近に内通者を通して伝えた。
成功裏に救い出すには、市中に放火したり、騒ぎを起こして気を反らし、その隙に乗じてやるのが常套だったらしく、清盛もそうしたのである。

奇策は成功した。女衣を被った天皇は女車に乗って脱出し、上皇とともに六波羅の清盛邸に保護された。
形勢優位となった清盛軍は、勢いを得て大軍で攻めます。

信頼と義朝軍は戦力が劣勢のまま六条河原の決戦で敗北した。
信頼は首を打たれ、義朝は敗走の途次尾張で落命した。源氏の命運も尽きようとしている。
頼朝、牛若丸(義経)の命も風前の灯となって清盛の手中にあった。

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クーデター前夜

2008-12-26 01:12:00 | 歴史

一つの時代を生き抜くということが、凄烈で覚悟のいる時代だと、戦乱の中世を覗いて知りました。今の時代では想像もできないほど、一族の命運も家運も一蓮托生の主筋に身を任せて、浮沈の大河の彼方に立とうと懸命な姿は、勇ましく美しくもあります。

保元の乱で勝ち残った後白河院や信西は新進の気鋭を持って、新時代に相応しい政治を行おうとしましたが、美福門院の勧めもあって後白河院は退位し、二条天皇が即位しました。

貴族社会は極度に衰退の速度を早めて、経済的にも疲弊していましたから、信西は各地の国衙に命じて増税の布令を出しました。

信西という人は利に敏いところがあって、保元の乱で敗者となった頼長の広大な領地を国の直轄地とした後、その管理は信西自身が一手に収めたので実利は相当のものでした。

全ては信西の思いのままに行くかに見えたのですが、増税の実際の納付者は武士集団ですから、彼らの間で猛反発が起こりました。今の世と状況が似ていますね。

信西にはもう一つ、人事による不安を自らの手で作り出していたのです。先の乱で手柄を立てた平清盛と源義朝に対する褒賞が、不公平不平等だったからです。

信西は清盛を可愛がっていました、性格的にも似たところがあって、親近感があったのかもしれません。清盛には播磨守を叙任したのに対し、義朝には左馬守という御幸行列の引き立て役を与えました。義朝は当然不満を抱きました、内心快くありません。

信西ともう一人、政治に携わる藤原信頼という人がいました。信頼は馬廻り役で義朝の上司に当たる人でした。

信西は信頼を目の上のたんこぶのように疎ましく思い、ことごとく昇進の妨げをしたので、信頼の方も恨みを抱いていました。信西は人の恨みを買うほどに、意に介さないものには非情でした。

しかし、信西には清盛がついているのでうかつには手を出せません。
信頼と義朝は手を結んで事を起こそうと機会をうかがっていました。

そしてその日が来るのです。清盛と重盛がそろって熊野詣をした隙を狙って、兵を挙げました。クーデターです。

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悲運の人

2008-12-24 00:46:00 | 歴史

左大臣頼長は父忠実に可愛がられ、兄関白忠通を家長から追い落とそうとします。実際には父忠実の思惑から発したことで、父の言いなりに動いていたのかも知れません。

しかし頼長は父忠実の後ろ盾があればこそ強気になっていましたが、兄忠通の権勢の前には、思うように事態が進展しません。
崇徳上皇は、いらいらしているこの頼長に目をつけました。「私と一緒になって、後白河天皇と関白忠通から正道を取り戻そうではないか」と呼びかけました。

頼長にとっても渡りに舟とばかり、上皇の申し出に賛成しました。戦力として源為義、頼賢、頼仲、為仲、為朝などの源氏親子が、平氏からは平忠正が呼応して参集しました。

おそらく父忠実が裏で手を打ったのだと思います。とにかく実戦部隊が馳せ参じたので、崇徳上皇も大喜びです。一方、後白河天皇の側でも動きは急でした。

関白忠通の下には平清盛、源義朝といった血気盛んな若手が集まり、京の都は一触即発の急遽騒然となりました。戦いには先ず戦議というものが有ります。

戦略戦法を講ずることですが、崇徳上皇側の為義が「明け方早く寝込みを襲おう!」と奇襲戦法を述べたのに対し、「寝込みを襲うのはフェアじゃぁないよ、もう少し遅い九時ごろにしよう」と、拒否されました。

頼長もこれに賛同しました。ところが戦法は、瞬く間に相手の陣営の知るところとなります。崇徳側にいた中にスパイが入り込んでいたのです。清盛と義朝は、「それなら我々が先に寝込みを襲おうではないか」と若者らしく即決しました。

決行の朝です、寝込みを襲われた頼長の陣営はなす術もありません、戦う前に負けてしまいました。
崇徳上皇の悲運は止まるところがありません、西海の讃岐の国に配流となって二度と都に戻ることは叶えませんでした。

配流地の崇徳上皇の嘆きと怒りは如何ばかりであろうか。一説には髪はぼさぼさで櫛も入れず、手足の爪も伸びるにまかせて鬼人のようであったとか。

都の空を仰ぎつつ、『憎き者は後白河、この身は讃岐の穢土に朽ちぬとも、霊魂は永劫にこの地に在りて都人に祟るであろう!』髪が逆立っていたとの説もある。

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末期症状の骨肉

2008-12-22 01:03:00 | 歴史

絢爛と文化熟成の貴族社会も、平安末期になると私利私欲が蔓延り、争乱の社会不安を引き起こすようになりました。

皇室も上皇の院政によって、いとも簡単に天皇の在位を縮められたり、退位させられたりで、天皇の権威が低下するとともに、後継の天皇との間に抜き差しならぬ険悪な感情が芽生えてきたとしても、自然な成り行きだったと思います。

平安時代は熟成期を過ぎて終息期に向かったのです。一つの時代は草創期に始まって、建設期ー熟成期ー終息期ー改革期ー草創期と巡り、新しい時代の幕開けを繰り返しながら平成の世へと繋がってきたと言えます。

天皇の外戚である摂関家が次々と姫君を入内させ、皇室との関係を強め維持しようとする働きは、皇位の継承で波乱が生じたときに、己の側を優位に導こうと戦いになります。保元の乱はまさしくこのような状況下で起こりました。

崇徳天皇は父帝鳥羽上皇の意によって、二十歳で天皇の地位を追われ、鳥羽上皇と美福門院得子との間に出来た近衛天皇に譲らねばなりませんでした。白河法皇が崩御してからは、崇徳帝も影が薄い存在になりました。

近衛天皇はたしか九歳で即位したと思いますが、十六歳(十七歳とも)で夭折してしまいます。しかも崇徳上皇が期待していた子、重仁親王の方には皇位が及ばず、いろいろ揉め事がありながらも異母弟後白河天皇に決まってしまいます。

更に追い討ちをかけたのは、後に後白河帝からその子二条天皇へと帝位が受け継がれたときでした。崇徳院は焦って来ました。「今のうちに何とかしなければ」・・・

父に疎まれ、出生の疑いを背負わされて、時代から振り落とされようとしている崇徳院自身に、時代は皮肉にも似たような男を引き合わせました。
違うところは父親の溺愛の中で育ったという事でしょう。

関白忠通という年の開いた異母兄がいるのに、父忠実は弟の左大臣頼長を溺愛のあまり、また忠通との仲もよくなかったこともあるが、弟頼長を家督の長にしようとしました。とうぜん兄忠通との間で雲行きが怪しくなってきました。そしてとうとう保元の戦端の火蓋は切られたのです。

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新時代の親政

2008-12-20 23:40:00 | 歴史

後白河天皇はワンポイントリリーフの救援ピッチャーだったはずですが、政務に就いているうちに止められなくなってしまいました。自分の下した政令で国を動かせるのですから、これほど冥利に尽きることはありません。周りが何を言っても聞く耳を持ちませんでした。

長い間蚊帳の外にいた親王時代を思うと、せっかく掴んだ幸運を手放す気にはなれなかったのです。当時が疎ましくさえ思えたに違いありません。

天皇が思いのままの政治を行え得た裏には、関白忠通亡き後の摂関家に代わる、藤原信西という男がいました。

学問を修める家筋で、家格は摂関家に遠く及ばないのですが、知力を買われた上に、妻が後白河天皇の幼少時の乳母であったことで、重用されることになりました。

時代の変遷は頂点に立つ帝と、政治に新しい施策で臨む信西という二人を引き合わせました。棚ぼた新政が始まったわけです。

(信西の妻が乳母を勤めたのは、後白河天皇の児ではなく、後白河天皇の幼少時でした。文中訂正しました。)



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皇系の乱れ

2008-12-20 00:38:00 | 歴史

保元の乱で崇徳上皇に組した貴族や武家たちが、追放されたり処刑されて政治の舞台から消えました。
同時に藤原頼長の広大な領地も没収され、類従の貴族も追放されたことで、藤原摂関家の威信は地に落ちてしまいました。

崇徳上皇と後白河天皇は同母兄弟なのですが、正当性からすれば崇徳上皇が優位でしょう。本来なら傍系である後白河天皇が皇位につける筈は無かったのですが、棚ぼたで転がり込んだラッキーボーイでした。鳥羽上皇の子といっても、政治的には蚊帳の外のぶらぶら遊んでいる人でした。

そんなプレーボーイが何で天皇になれたか?この頃は天皇の在位が短かったようで、崇徳上皇も父である鳥羽上皇から二十歳で退位させられ、異母弟の近衛天皇が位につきました。が、十六歳で死んでしまいます。

あまりにも若くして亡くなったので、次の天皇を誰にするかで揉めました。
本来なら崇徳に戻るか、崇徳の子がなるところですが、そうはなりませんでした。

崇徳上皇はよほど嫌われていたのでしょう。ここがキーポイントです。誰に、と言うと、父の鳥羽上皇と関白忠通であり、近衛天皇の母、美福門院でした。

美福門院には幼くして母を亡くし、養護していた皇室ゆかりの子がいました。後の後白河天皇の子です。
聡明の評判高いその子を天皇に推挙したところ、・・・「だったら、その親が先だろう」と言う者がいて結局、後白河天皇が棚ぼたになったと言うわけです。

皇室は時々おかしな現象が現れます。陽成天皇の御時も皇后の兄である、藤原基経の計らいで皇位を退けさせられ、代わって、これも傍系で本来なら舞台に乗せられない光孝天皇が皇位を継ぎました。

関白忠通の亡き後は~つづき

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中世の乱パターン

2008-12-17 01:48:00 | 歴史

歴史に記された動乱期を、再確認する意味でGoogleやOCNの検索を使ってみた。書き手にもよるが中世の争乱は、読んでいて絵巻物を見るように華やかでドラマチックであった。

古代においても、大きな転換期であった大化の改新は、蘇我氏を滅亡させた後のスケールの大きな展開で、額田王と天智、天武、両帝のロマンスを絡んだ万葉の世界が小説化している。
私には物語としての歴史イベントと言う感じが強い。

華やかな中世の乱では、何と言っても源平の戦いが際立って壮絶であり、輝かしいものだけれど、この戦いは以前からの争乱の終章に位置していると思う。

大雑把にしか記せないけど、源氏と平氏の関係は、臣籍に降りて東国に下ったときから始まっていたわけだけれども、最初から仲が悪かったわけじゃない。

平直方が婿となって源頼義となったし、その子義家は武士の棟梁といわれ、前九年後三年の役で自腹を切って褒賞を与えたことで、関東の結束を高める基を作った。東国は源氏、西国は平氏、の住み分け勢力圏はあったものの、まだ剣呑な状態にはなっていなかった。

対立の構図が芽生えてくるのは、保元の乱からであろうか。天皇継承位に絡んだトラブルに摂関家の家督争いがリンクして、武家の武力を双方の勢力に巻き込んで起こった、大争乱がそもそもの壇ノ浦の序章となった。

つまり、崇徳上皇方には藤原頼長、武家源為義、為朝、その他一族、平忠正ら・・・一方、後白河天皇方には関白忠通、源義朝、平清盛となっているが、双方が一族二分しての骨肉の争いが繰り広げられた。

教科書通り崇徳上皇が負けて、上皇は讃岐にながされ、為義以下の源氏と平忠正は処刑された。
後白河天皇、関白忠通についた清盛と義朝が、いやが上にも歴史の舞台に立つことになった。

いやでも覇権を競う武家の対立を包含していた。そして平治の乱に移行する状況が生まれてきたのである。

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リズムとパターン

2008-12-13 21:09:00 | 随想

大きな世情のウネリが年末を包み込もうとしています。
世界的な大変動期の津波が、家庭の台所をもことごとく洗い流し、庶民の生計が脅かされています。経済低迷が政治の足を引っ張っているのか、政治の混迷が世界の情勢を乱しているのか、、、
おそらく相関関係にあるのだと思います。
茶の間から天井を覗いて見る限り、いろいろ策を講じても思い通りにいかず、時間の空費に終わる可能性だってあるのですから。

この現象は、何処から来るのだろう。
有史以来、幾多の難局を潜り抜けてきた人類の祖先たちも、この世の終わりを見て来たに違いない。

麻生さんは、『100年に一度の危機』だと言っている。たしかに維新前夜の幕府にとっては、天地のひっくり返る驚嘆事で、ひたすら倒幕の勢いが弱まるのを戦々恐々の思いで願ったものの、錦の御旗に抗することも出来ず瓦解した。

体制維持も長期間続くと自然崩壊の作用が働く、と言うのが自然の理ではないか。現状維持の難しさを思い浮かべていたに違いない。

古代においては遷都のように、存在する位置を変えることでリニューアルの再出発を計ったであろうし、卑弥呼のような呪術カリスマ性によって、民心の掌握を狙った国家の形成期もあった。

歴史の転換期、動乱期には、そこに到るまでの一つの決まったパターンがあるようだ。草創期~前期~安定期~後期~瓦解期のパターンである。大きな歴史の舞台に限らず、企業や個人の盛衰、あるいはスポーツや政治の世界でも言えるでしょう。

地球のマントルが対流して、地殻に一方が潜り込み、歪みを生むことで地震が起きるのでしたね。マントルの営みも、地核(コア)の超超高温に誘導されて、対流が起きるそうで、地表の起現象はコアを中心に一定のリズムでなりたち、繰り返している。

地球内部で起きていることは、人間社会にも同じようなリズムで、変動を与えているようですね。
核(コア)が生命の根幹であるなら、表層にあるミクロの私たちは細胞の一部でしかない。

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