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白川古事考 巻ノ五 後編 廣瀬典編<桑名図書館蔵>に触れる

2019-03-16 14:22:15 | 歴史

 巻ノ五 追加記載


白川古事考 巻ノ五 その3

 会津四家合考に一年盛氏は佐竹義重と南郷にて対陣する。互いに合戦に掛かる頃合いで佐瀬源兵衛が斥候に出る。
敵陣と味方との間に小さな山があり、会津勢はその山の彼方へ打ち越して合戦すべき場であるが、思いの外に敵陣は遠いので引き退いて備えようとした。しかし此れは彼の小山の陰に伏兵を忍ばせ、此方の勢に深入りさせてから頃合いを見て、後を遮り刈りとる謀らいと思って子細に様子を見れば、案の如く一塊り三百ほどが茂みの陰に隠れていた。

 源兵衛はそれを見て引き返し、味方の陣に堅く下知して静かに控えていた。佐竹の陣には太田三楽齊が居て成り行きを計っていたが、源兵衛の見透かしによって其の図に落ちない。佐竹勢は今か今かと待ち兼ねて徒に機を費やし、余りにも時が過ぎたので三楽齊が斥候(せっこう=前線の敵の様子を視察する)に出てみると、会津勢の陣張りが此方の思いを見透かして動く様子もない。三楽の深い計らいも徒労となって、小高い辻堂の縁に上がり無念とばかり足を踏み鳴らした。

 敵を深々と引き入れて思惑通りに勝ち軍になるはずだったが、痴れ者の源兵衛に見透かされた悔しさは何としようも無い。源兵衛とは多年にわたる無二の知友であることから、思い直して源兵衛に使いを出し、此の軍の事を含め物語などしたいと使者を送ると、源兵衛も心得て鎧を脱いだ姿になり、歩者三十人を伴って早々と三楽の方へ馳せつけて行った。三楽齊ともども互いに近寄って越方近況の事など語らい、時が過ぎて互いに引き別れた。

 源兵衛が味方の陣に帰ると、この様を見ていた親しい者共が、無事ご帰着お目出たいと云いつつも、歩者に具を付けたとは云え、素肌で行かれるのは余りに軽々しい、騎馬の二、三十騎も召し連れて行かれるべきだと云えば、イヤそうでは無い、我は三楽とは多年に渡る無二の知音であればこそ、今の此の戦場で対談したいと云うときに鎧を着けては、万一三楽の方に便よく寄って討たれることもあるかも知れないが、討たれない程に近寄った処であれば、万が一の場でも差し違えて三楽ともども源兵衛死して損はない。若し帰り際に討たれそうになったなら、彼の一物に一鞭当てる程は誰かしら見て居ることだ。

 楽齊坊が事々しく鎧武者二十人ばかりを居並ばせ、我が身も隙間無く鎧での対面は今更恥ずかしいことです、と会釈する。彼の推量のように「三楽も今日は鎧ながら源兵衛に対面して、一生の恥をかいた。我が形勢を有りの儘に彼の盛氏に語られる事こそ、恥ずかしいことと深く悔やんでいたそうである。

一、棚倉に伝えられる冊子に、佐竹義宣の謀りによって赤館の鹿子三河守(白川旗下)を降参させた。此の事を蘆名盛氏が聞いて大いに怒り、南郷を水攻めにしようと玉の堰を掘切った。今、根小屋と云う。義宣は赤館に羽田摂津守、松野上総介(那須郡茂武郷に世々松野氏あり、後に佐竹へ属)、流館に常陸十二郡の先達の今宮浄蓮院を差し置き、塙の羽黒館には河野丹波守、石川近江守(石川大和守昭光の一族)、田崎相模守、(佐竹親族、今秋田にあり)、大塚越前守、天野上総守、柴田越後守、家老矢吹左源太、大塚大膳は狐館(中石井村)に、江田八左衛門油館(伊香村)に、鈴木大蔵は石館(石ヶ作北関岡村)に、秋山七郎は関岡館に、」中村大学は保木山館(高野館とも云う)に、東中務大輔は東館に東美濃守を差し置き、千戸館には(今富岡村にあり)富岡若狭守を差し置く。その外の館には諸士を差し置いた。この時の境は久慈川を境にして西は馬乗川、東は大草川を界とする。

一、仙道表鑑に天正二年の秋、佐竹常陸介義重は石川大和守昭光と約を取り交わし、四千余騎を率いて仙道表を掌握しようとした。義重は棚倉へ出馬して南郷寺山、羽黒の城に人数を篭らせて置き、近々仙道へ出馬した節は白川、須賀川、田村等の城々を攻め落とし、その威力に乗って会津も手に入れようと夏から支度をしていたが、会津に聞こえて蘆名修理大夫盛氏、嫡子判官盛興は、先手を打たれる前に此方から仕掛けようと、白河大蔵少輔義親(義親が大蔵少輔に任じたこと他の書には見えず)、田村安芸守隆顕嫡子大膳大夫清顕父子が一味して、都合一万三千余騎の勢で高野郡へ発向した。

 二階堂遠江守盛義(岩瀬郡須賀川城主弾正少弼照行の子)も浜尾筑後守と須田美濃守に千余騎を指し添えて加勢する。佐竹勢が会津の旗先を見ると均しく太鼓を打ちながら攻め掛かかってくる。武州岩築城主太田美濃守資正、入道三楽齊道誉は其の頃佐竹に属していたが、六百余人を引き連れて一陣に追い進めれば、佐竹中務少輔義久を始めとして緒貫大蔵少輔、河合甲斐守、大縄式部少輔、茂武左馬助(那須記には那須郡茂武に茂武上総介守綱と云う人佐竹に属するとあり、その族ではないか)、同じく但馬守、平井薩摩守が二千余騎で道誉より後に押続き、会津勢に打って掛かる。

 蘆名方には佐瀬源兵衛本名左衛門佐、沼澤出雲守、鵜浦甲斐守、中野目式部大輔等が先頭に進んで、雌雄を決するべく挑んで戦ったが、互いに勝負は見えなかった。蘆名盛興と田村清顕父子は馬廻りの勢ばかりで、寺山の敵を押さえて居られたが、雑兵を少し出して敵地の作毛を薙ぎ捨て、引き取るところへ佐竹方石川、千石、板橋、沢尻、下河辺の一類等が(按=皆石川の親類。千石村は今白川郡となる。板橋、沢尻、川辺は皆石川掃部助と云う人の領であったこともあり、川辺に雲鳥の城と云う城跡あり。後ろは高山に連なり、前は平田広野に臨んで甚だ地理を得ている。石川郡泉の石川の親族である)二千ばかりで二手になり、ひたひたと付け従って食い留めれば、盛興と隆顕は一同に引き返しながら相戦った。隆顕は旗下共に崩れかかった兵を下知し、自ら敵に総当たりした。七転八倒して戦ったが、石川方が突き崩されて羽黒の城主石川近江守と云う者が討たれた。その外屈強の首級が五十三、雑兵五百余人が討たれたので、石川千石等悉く敗北して引き返した。

 盛興は父の許へ、生け捕り十一人有る事、首五十三級を相添えると共に、田村父子の働き次第を委細に云い送れば、盛氏は喜んで佐瀬大和守を使者として隆顕の元へ遣わし、今日のお手柄は感心少なからずと謝礼を述べたが、隆顕には以前から病に悩むところが有り、二三日の間に陣中から田村の地へ引き退いて医薬養生を尽くされたが、叶わずに天正二年九月六日卒去した。
 按=この合戦について盛氏より鵜浦入道と云う、会津の留守する人へ贈る書簡を、四家合考に載せる。




一、会津四家合考に、或る時盛氏と佐竹義重とが南郷において対陣する。佐瀬源兵衛が物見に出たところ、その地は敵に場が良く味方に悪所であることから、今日の合戦は引き延ばすべきとして、本名杢丞を使いとして盛氏へ申し上げると、それならば汝がその旨を諸手へ触れよとの下知があり、段々と触れ行くところに江湖衆と云って諸牢人共の寄り合い同志の一隊で備え、武士修行の為の江湖僧如き一隊の中にも、大将の触れを伝えて引き取らせようとする処を、敵に食い留められて物分かれしかねない故に、杢丞も取って返し共に敵を追い払うのを旗本より見れば、本名は法を破って軍(いくさ)するとは悪しき奴かな、と怒られる。盛氏は勝ちの軍法に密な大将であるならば、彼は法の如くに言い付けよと源兵衛へ下知したゆえに、源兵衛は人手に懸かる事もないと自ら馳せて行き、兎にも角にも成し遂げた。その後は事を分明に申し分けしたので帰参させよと許される。

   依上
一、和名抄にある白川郡の郷名に依上(よりがみ)あり、今は常陸国久慈郡の内に入って保内と云い、四十余か忖ある。中古には依上の保と云って保名を以て呼んだ故に、今の保内と呼ばれる所以であり、寄神とも書く。保内を常陸の境界に収めたのは、恐らく永正の頃の白川結城の領地を岩城氏が攻め取り、また保内の都会である大子の城主、芳賀氏をも降参させて(常陸国誌に載せている)その後佐竹氏の所有となった時から、常陸の領となったものであろう。

 今はこの保内の西にある下野の国へ出て、常陸の小里の郷に出る所に堺明神の古い祠がある。古の国界に明神の祠を建てる由縁は如何なる理由によるものか詳らかでない。だが、我が奥州の界のみに有る明神祠であり、常陸国には有るべき理由がないので、依上が白川郡であった遺証とも云える。
白川七郎の蔵に

   

 上の如く白河結城へ賜わったものである。佐竹は元々足利方であって、結城より攻め取って佐竹の物となり、後に庶流依上三郎宗義が領して、応永二十三年鎌倉において上杉禅秀の謀叛の時に、持氏に敵対して宗義の父佐竹(初めは山入氏と称した)上総介興義入道の嫡子、刑部大輔祐義舎弟尾張守玄義等が禅秀に一味した。禅秀亡き後に降参する。また幾程もなく応永二十九年十月三日、上総介入道家督について持氏の不審を蒙り、比企谷の上杉淡路守憲直によって討たれる。佐竹は法華堂において自害する。(鎌倉大草紙、鎌倉物語等に出ている)依上三郎宗義も父子の間であれば同罪を蒙り、所領も離れたのではないか。また白川弾正少弼氏朝は、禅秀の乱にも持氏卿に属して鎌倉で戦った。(此れも鎌倉草紙)故に佐竹の欠け地を白河へ賜わったものである。仙台の白河家の蔵に

  



   




           
 上の領地を賜わったことによって、管領上杉憲実へ進物を贈ったようだ。憲実は応永二十五年養父上杉憲永の跡を継ぎ、安房守に任じて此の節の執権であった。同人の藏に
   
 その後の鎌倉大草紙にある応永三年、白河へ打ち出た南朝の余類、里見刑部大輔が依上に在って戦争したようだが、事実のほどは定かでない。我が藩家士、佐藤市兵衛の藏に
 
   


 また年代は分からないが、依上が未だ白河領であった時の事と見える、源義行(此の人未考)の白川へ与えた書が水戸結城家に蔵する。文中の生瀬、袋田は共に依上にある村名である。



 それにしても何れの頃か佐竹の物となり、永禄天正の頃の佐竹との戦争によって、依上の此方である白河郡南郷の地までも、次第に蚕食されて、依上を失ったことは伝書さえもなく、白河の堺内である事を知る人も稀である。古今の変遷のさまを茫乎とさせるものである。文献の乏しい故も有って、天文の頃は早くも八溝山まで常州と称され、当今の形勢となっている。
 八溝山下の坊鐘の銘に曰く、

 唐有八丈溝矣常州八溝山亦據此境淂名乎寺日
 南院須闕苾朔申百八鐘声者久分故化縁苾蒭児
 鐵鞋不倦霜辛雪苦募十方衆縁功情命鐵匠鐵洪
 洪鐘成就揚雲興岫求我願既満之語因為銘其詞
 日常陽勝境 八溝山雄 絶頂安立 大士圓通
  作家手改 □祾鐘洪 煉碧眼鑛 脱白丁?(艹かんむりに取)
  上界下界 尊躬下躬 壽傳萬代 功響無窮
 天文竜集戊戌冬十月七年也吉辰謹銘佛日増輝諸
 天威従銷魔外降
  前福源晨初挿叟比丘周瞳書乎平等下
  皇帝萬歳重臣千秋風調雨順國泰民安
  大檀那源朝臣義篤(佐竹也)謹白 慈雲寺法印宥
  意別当善蔵坊 松渓齊昌訓 勤縁江州住比
  丘尼妙心 小聖善心并妙善 大工石井静阿
  弥奥州白川大檀那藤原朝臣直廣 地頭深谷
  顕衡并重安 金藤掃部助

 慈雲寺は依上の内、町付村にあり真言宗である。顕衡は佐竹の臣で町付村の内に舘跡あり。町付は昔黒沢と云った。掃部助も佐竹の臣で常州上の宮村の内野瀬という所に館跡あり。  


  竹貫
白河郡の内にあり、岩城の菊多郡と石川郡との境である。山が高く谷間には村落が十三村あるが、元は六村であったものを十三村に分けたものである。竹貫村はその親村である。竹貫氏が数世此れを領し、その系図を民間寺院に求めたが無かった。光の字を用いて名乗るところを見ると、石川氏の族であろう。中頃に一度、白川結城氏へ賜わったことが白河七郎蔵の文書に

   

 坂地、矢沢は今も石川郡の村であり、竹貫へ続く地である。
一、明徳の頃、竹貫三河四郎光貞と云う人あり。石川郡須釜大安寺由緒に、石川大寺安芸守光義入道道悦と光貞が吉村の地を争ったと云う由緒の文書がある。

   

 天文の頃の竹貫氏は石川に属さず岩城へ付いた。岩城は下総入道可山と云って、親隆(岩城に二人の親隆あり)は殊に武威を盛んにして常陸国の多賀郡を完全に攻め取り、久慈郡へも手を掛けるなど、佐竹氏の地を狭めた程の人であるから、此の人などの世に竹貫をも服させたのではないか。白川愛宕町の佐七と云う者は竹貫の出で、横川氏が蔵する文書を知る。



 文中の田原谷は田村郡にあり、岩城より兵を出す要路であり、重隆の孫左京大夫常隆が天正十七年伊達政宗朝臣と戦うために仙道へ向かう時も、先ず一番に田原谷を攻略したことが会津四家合考に見えている。
 竹貫三河守重光は何時も岩城の先手として仙道へ打ち出たが、中でも天正十三年安積郡高倉合戦は、佐竹、岩城、蘆名、白川、石川の諸将が伊達を攻め打つという、奥州においては稀な大合戦であった。竹貫三河守は猶予しないで一陣を進め、己の精兵の手練れの者に下知して、「敵の真っ先へ足軽の雑兵を進ませよ、必ず前面の者に目掛けて唯繰り矢挙げに高く指し挙げ、飛ぶ鳥を射るように深く引いて一斉に放て」と前後左右に心を奮って下知した。

 元より握りに余るカマボコ弓で、猫潜(ねこくぐり)りと云う格別な大狩俣の矢束を、矢継ぎ早に射出す好手六百余人が一度にパっと放つのであるから、敵は物怖じして、今まで勇進していた者共が後ろ様になるのを見て、竹貫は其れとばかり下知して抜き連ねて切り掛かる。中でも窪田十郎と言う者は茂庭左内を追いかけて組み伏せ、易々と首を掻いた。三河守も能く敵を討った(三河守の臣水野勘解由左衛門は殊に勝れた強弓の射手で、今大久田村の水野清左衛門家に彼のカマボコ弓と思われる、外は竹ばかりで内に丸木を削り立てた分厚い弓に、箟は(きん?)手の大指よりも太い物を差しわたして六寸に余る。実に鎮西八郎の弓矢かと思うばかりで、箱に入れて屋の棟に結ばれている。尋ねてみたが主人は不在で箱のみを見た。)

 天正十七年伊達政宗朝臣は三河守を味方に招いたが、忠を守り敢えて岩城氏に背を向けなかった。須賀川落城の時にも二階堂へ加勢として、岩城より植田但馬守、水野中務少輔(三河守の子)が罷越宿より三丁ほど打ち出たところ、袋川大黒石(須賀川の西)の辺りに支えて待つことにした。伊達勢が矢丈(矢に備える距離か)になるのは、竹貫の手の者が水野勘解由を初め六百余人が強弓の精兵であり、矢種を惜しまず差し詰め引き詰めして散々に射るので、伊達信夫の兵は夥しく射殺されて手負い死人は数え切れず、累々と人塚を築いた。

 然しながら謀反人があって城が落ちたからには、中務少輔は栗谷沢という所を落ち行き、但馬守が早討死した事も有って鬼神の如くそこから去った。三河守の子息であり何処の國まで引き行かれたのか、と独言し追いかけたものの、朱に染まった太刀を真甲に差しかざして、駒の鼻を返すかと見えたが、敵の二騎を切り落とし大勢と渡り合って終に討死した。三河守は長らえて天正十八年に太閤秀吉公によって竹貫の地を召上げられた後、岩城の富岡へ移る。慶長五年関ヶ原の乱では、最上義光から最上手として会津勢を攻め破った事、詳らかに書簡に記して三河守に贈った、と四家合考に載っている。

一、山上村に竹貫氏の菩提所廣覚寺がある。竹貫歴代碑十二基があり、老臣箭田和泉の子孫が建てる。寺にある遺物は鞍、鑓(槍)、文庫、短刀類がある。竹貫四家老を矢吹、箭田、小野、岡部と云う。

一、竹貫八千石の地は歴代々に持ったが、後に流浪して旧領の者に養われるようになった。三河守重光の孫権太夫が士官を志して此の地を去ったが、その後は音信も無かったと云う。別に臨んで山上村庄屋へ遺す二品あり、譲り状に

   
 (橋本治右衛門方へとある)

一、此の郷、松川村内小名横川に住む横川氏の後のこと、今白河町佐七蔵に

     
典の註=泉は石川氏の居処であるから石川氏か。 
牧野も考えるところ無し。(右は典の考証を示したもの)

   


      

 鎌田村観音堂山に阿部貞任のために建てたと云う碑があり年号は嘉歴である。また同村八幡宮石段下に嘉歴三年四月の字、梵文の下に刻んである碑あり。


 赤坂
 赤坂の郷は六か村あり、此れを山野赤坂と呼ぶ。別に常世赤坂と云う地もあるが、常世赤坂は別に出さず。草高三千石あり、中野村という所を親村とする。赤坂尾張守と云う藤原姓の人が数世住み、民間にその類族が多い。菅生氏と親族で結城ノ臣であったが後に佐竹へ服属した。中野村に建て跡があり、禅宗恵命山長遠寺に位牌がある。

茂林院殿天文元年赤坂下総守藤原常道
恵命院殿長遠常久天正五年赤坂下総守藤原常久  
清厳院殿慶長元年赤坂助七郎藤原道貞
玉山院殿元和三年赤坂下総守藤原常通

 赤坂城代は舟木大隅守橘光辰其子掃部常全である。また赤坂七騎とは佐藤輿左衛門常信、緑川筑前守信貞、芳賀帯刀正光、森筑後守光時、蛭田帯刀常吉、高木伊賀守重直に舟木を合わせる。
 按=竹貫郷の入山上村、岡部次郎左衛門蔵の古軍書抜きに、天文二十三年正月吉日舟尾拾郎平隆相とあり、亦別巻抜に船尾安房守平隆相とある。赤坂の隣郷であるから大隅守の親族ではないか。

 巻の五 その3終り

白川古事考巻五 全終 


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