徳川265年の施政を支えた『江戸城』(1457年 太田道灌 築城、その後 徳川の江戸期に増築)(城郭構造:輪郭式平山城)(日本100名城(21番))
現在ではその栄華を彩った建築物はほとんど残っていませんが、それでも遺構からかつての面影を偲ぶことはできます。
「現存天守12城」のように現在まで奇跡的に残っている城もあれば、昭和の再建に代表される「復興天守」の
「大阪城」「和歌山城」「広島城」「名古屋城」「小田原城」「熊本城」などの城もあります。
「江戸城」と同じく有名でありながらも現在も再建されていない城と言えば他にはやはり「安土城」でしょうか...
小学生の頃に家族と観に行った「安土城址」は今でもとても印象に残っています。
かつて天守閣が聳えていた場所には、ただポツンと寂しく礎石だけが遺されている景観はなんとも言えない気持ちにさせられました。
あれだけ権勢を誇った織田信長公の「安土城」の現在の有り様に「栄枯盛衰」「諸行無常」を感じぜずにはいられなかったからです。
「江戸城天守」を再建しようという動きは昔からあるようですが、現在は皇居があるため警備も含め難しいのではないかと思われます。
桜田巽櫓(*石垣をよじ登って来た敵をここから石を落として撃退するための防御設備として利用)
桜田巽櫓(*前時代と現代の建築物が交錯)
桜田門(外桜田門)(*1860年3月24日、大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」は井伊直弼が屋敷を出てこの門へ向かう途中でした)
桜田門(外桜田門)
桜田門(外桜田門)から国会議事堂を望む
桔梗門(内桜田門)と巽櫓(*現在はこの奥に皇宮警察本部があります)
坂下門(*現在は宮内庁の通用門として利用されています)
大手門(*江戸城を見学するにはこの門から入ります)
大手門
旧大手門渡櫓の鯱
田安門(*御三卿の一つ田安徳川家がこの御門内にありました)*田安徳川家→八代将軍吉宗の二男
田安門
清水門(*御三卿の一つ清水徳川家がこの御門内にありました)*清水徳川家→九代将軍家重の四男
北桔橋門(きたはねばしもん) (*皇居東御苑の北側入口)
平川門(*左側:平川門、中央:不浄門)
不浄門(*大奥女中の通用門として使用され、死人、罪人もこの門から出されました)(*松の大廊下事件での浅野内匠頭も切腹するためにこの門から出されました)
平川橋(*平川門に架かる木橋)
同心番所(*ここを駕籠や馬に乗ったまま通ることが出来たのは「尾張、紀伊、水戸」の徳川御三家のみでした。
それ以外の大名達はここで下馬、家臣達はここで待機して様々な情報交換をしたそうです。下馬評の語源ともなった場所です)
百人場所(*鉄砲百人組と言われた「伊賀組」「甲賀組」「根来組」「二十五騎組」各同心100名が昼夜交代で警護に当たっていました)
大番所(*江戸城番所の中で最も地位の高い与力が配置され警護に当たっていました。大名、旗本であってもここからは歩いて登城しなければなりませんでした)
石室(*大奥納戸脇の石室。非常時に大奥の調度品を収納したのではないかと云われています)
松の大廊下跡(*1701年3月14日、浅野内匠頭が吉良上野介への刃傷沙汰の現場。翌年、赤穂浪士討ち入りへと発展していきます)
諏訪の茶屋(*かつて江戸城内吹上の庭に建てられていた茶屋)
二ノ丸庭園
二ノ丸庭園
富士見櫓(*天守焼失後は天守の代わりとして使用されたこともあります)
天守台跡(*天守は三度建てられ、初代天守は1607年に徳川家康、二代目は1622年に秀忠、三代目は1637年に家光が築城)
天守台跡(*1657年の「明暦の大火」で天守焼失後は石垣が残るのみ)
天守台跡
天守台跡から旧江戸城内を望む
本丸、大奥跡地から天守台跡を望む
伏見櫓と二重橋(撮影 2011年4月)(*皇居見学で有名なスポット)
伏見櫓と二重橋(撮影 2011年7月)
撮影:2011年4月、7月