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藤原道長の御岳詣がNHK大河ドラマ「光る君へ」第34回「目覚め」で放送される

2024年09月10日 05時24分51秒 | Weblog
9月8日放送のNHK大河ドラマ「光る君へ」第34回「目覚め」で寛弘4年(1007)
世の安寧と一条天皇中宮「彰子」の懐妊を祈願するため御岳詣(金峯山への参拝)に
時の権力者「藤原道長(966-1027)」が嫡男の藤原頼道、中宮権大夫の源俊賢を
伴って京を出立する場面が放送されました。(下の2枚の写真)




御岳詣について
宇多天皇は899年に出家し宇多法皇となったその翌年(900年)頃に金峰山寺に参詣し御岳詣の
先駆となった。その後、藤原道長や師通ら皇室や有力貴族が登拝してからは
「御嶽詣」が盛んに行われるようになっています。
金峯山寺の中興の「聖宝」が参拝路を整備したことも貴族の参詣を呼び込む事となりました。
平安時代は末法思想の広がりにより、当時の貴族や多くの人々は56億7千年後の
弥勒如来の出現と仏法の再生を願い経塚の造営を盛んに行っています。


本ブログではその場面を紹介すると共に実際の旅程を御堂関白記の記述から
御岳詣の前後の記録を辿っていきます。月日はすべて旧暦

寛弘四年(1007年) 八月二日 都を出発

  二日、乙巳。金峰山に参る。丑時を以て出立す。御物忌に立つ。門を出づる間、塩湯を以て衆人に灑ぐ。中御門より西行し、大宮より南に出づ。二条より朱雀門大路に到る。礼橋の下にて解除す。羅城門より出で、鴨河尻にて舟に乗る。時に辰。八幡宮に参る。午時、奉幣す。諷誦。信布三十端。宮より出づ。身主渡より東に渡る。内記堂と云ふ処に宿す。

 寛弘四年(1007年)八月三日 奈良に到着
 三日、丙申。大安寺に宿す。扶公、事を儲く。華美に依りて、其の処にあらざるに依り、南中門の東腋に宿す。御明・諷誦。信布三十端。

寛弘四年(1007年)八月四日
 四日、丁酉。井外堂に宿す。雨、日を尽くして降る。御明・諷誦。信布十端。

寛弘四年(1007年)八月五日
 五日、戊戌。終日、雨降る。軽寺に宿す。御明・諷誦。信布十端。

寛弘四年(1007年)八月六日
 六日、己亥。天晴る。壺坂寺に宿す。御明・諷誦。信布三十端。

寛弘四年(1007年)八月七日
 七日、庚子。観覚寺に到る。沐浴す。御明・諷誦。信布三十端。現光寺に到る。御明・諷誦。信布三十端。野極に宿す。此の間、雨下る。御明・諷誦。信布十端。

寛弘四年(1007年)八月八日
 八日、辛丑。終日、雨下る。宿す。

寛弘四年(1007年)八月九日
 九日、壬寅。時々、雨下る。寺祇園に宿す。宝塔にて昼、飯を為す。両寺に皆、諷誦を修し、御燈を奉る。

寛弘四年(1007年)八月十日
 十日、癸卯。時々、雨下る。御在所の僧房金照の房に着す。午時、沐浴し、解除す。

寛弘四年(1007年)八月十一日 大峯山寺への参拝
 十一日、甲辰。早旦、湯屋に着し、水十??を浴む。解除して、御物の前に立つ。小守三所に参上す。金銀・五色の絹幣・紙の御幣等・紙・米等を献ず。護法、又、同じ。三十八所に詣づ。同じく又、幣等を供す。五師朝仁、之を申す。被物を賜ふ。次いで御在所に参り、綱二十条・細盖十流を献ず。御明燈を供し、経を供養す。法華経百部・仁王経□□は三十八所の御為、并びに主上・冷泉院・中宮・東宮等の御為。理趣分八巻、八大竜王の為の心経百十巻を、七僧・百僧を請じ、供養し了んぬ。講師・呪願に綾の褂一重、五僧に白き褂一重。
 十一日。百僧に絹一疋・袈裟一条。未前に七僧に法服・甲袈裟を送る。余には宿衣。御燈申上の僧に単重。七僧の布施、□□□□□□□□□□百僧の布施、米二石・信濃三端。諷誦百端。満寺の僧供料、米百石。又、前年、手づから書き奉る金泥法華経一部、此の度、書き奉る弥勒経三巻・阿弥陀経・心経等を、同道の僧七口を以て申上す。講師、覚運大僧都。呪願、定澄大僧都。読師、扶公法橋。唄、懐寿。三礼、明尊。散花、定基。堂達、運長。皆、被物あり。件の経等、宝前に金銅の燈楼を立て、其の下に埋め、常燈を供すなり。今日より初む。今日、諷誦を修す。五師・三綱に禄を給ふ。別当金照・朝仁等に白き褂一重。自余に単重。権大夫、経を供養す。七僧・三十僧。七僧に疋絹。金照に単重・米三十石を加ふ。□□□源中納言、之に同じ。我が経に次いで、女方、経十部を供養す。我が御明の百万燈、皆、所々の御為に有り。事了りて所々を見るに、霧下りて、意のごとく見えず。房に還る。金照に褂を賜ひ、即ち下向す。夜に入りて、寺に宿す。祇園

寛弘四年(1007年)八月十二日
 十二日、乙巳。天晴る。宝塔に着く。膳を進る。又、金照の申すに依りて、石蔵に着く。金照の房を定む。其の寺、甚だ美なり。膳を進る。即ち野極に立つ。馬に乗る。下道より水辺に着く。頼光・維叙・業遠等、来たる。余の人々、誡に依りて、来たらず。夜に入りて、宿す。

寛弘四年(1007年)八月十三日 舟で大和川を下る
 十三日、丙午。天晴る。広大野より□□に着す。国司、膳を儲く。仮屋数屋を立つ。国司に馬を給ふ。泉河の岸上の仮屋に着す。大和守の為す所なり。即ち舟に乗る。

寛弘四年(1007年)八月十四日 都に帰着
 十四日、丁未。暁、淀に来たりて、車に乗る。鴨河の精進所に着す。精縄を以て解除す。土御門に着す。即ち大内、并びに東宮に参り、退出す。

大峯山寺、藤原道長が奉納した経塚、経筒を含めて下記ブログで詳述しています。
 


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