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山陽網干駅周辺散策記 その1 ダイセル異人館

2020年01月03日 05時49分11秒 | 神戸市以外の兵庫県

山陽電車の広報誌「ESCORT]2019年12月号で山陽網干駅周辺の紹介記事があり

ダイセル異人館と龍門寺の紹介記事が掲載されていました。

これに触発され2019年12月27日(金)に山陽網干駅周辺を散策してきましたので

紹介していきます。

山陽網干駅の周辺には2017年11月5日に室津に午前中に訪問後、午後に訪問。

さらに魚吹八幡神社に2018-3-25、2019-3-30に訪問していますが今までブログ記事

にしていなかったのでこれらの訪問記を含めてシリーズとして紹介していきます。

今回はその第1回でダイセル異人館を紹介します。

ダイセル異人館の基本情報

住所:姫路市網干区新在家1239 TEL:079-273-7001

 

上の写真は2棟現存しているうちの一棟で 姫路市の都市景観重要建築物等の第2号

に指定されています。受付に連絡すれば内部の見学が可能になっています。

当日は丁度昼休みの時間に重なったので内部は見学しなかった。

現地の説明板(下の写真)によれば明治42年(1909)、ダイセルの前身である

日本セルロイド人造絹糸の工場がこの地に建設された。工場の操業にあたり技師長に

イギリスのグリーン、他に5名の技師職工をイギリス・ドイツ・スイスから招き、翌年

工場地の一角に彼らの居宅として洋風住宅が建設されました。

ダイセル外国人技師住宅についてWikipediaの解説文を引用紹介します。

2棟の建物とも設楽貞雄の設計で、1910年(明治43年)竣工である。
1987年(昭和62年)には兵庫県「ひょうご住宅百選」、1989年(平成元年)に
姫路市都市景観重要建築物等、2009年(平成21年)に経済産業省
「地域活性化に役立つ近代化産業遺産」(近代化産業遺産群・続33)に認定。

神戸新聞2016年8月7日朝刊、遥かな海路「巨大商社・鈴木商店が残したもの」によれば

日本セルロイド人造絹糸株式会社(明治41年創立)は鈴木商店と三菱、岩井商店

(現在の双日)によって設立。金子直吉は樟脳から日本の化学工業を切り開いていくと

意図で史上初のプラスチックであるセルロイドを製造。

紙面で創業当初のセルロイド製造装置の一部がモニュメントとして網干工場内に設置

と写真入りで紹介されています。

当時のセルロイドは精製樟脳とニトロセルロース+アルコールから製造され

その後成型加工され製品となった。

操業当初の操業は難航し不良品が山積みになり一時経営難にも陥ったが金子直吉は

稼働直後に外国人技師を解任する一方、技術者を欧米に派遣しセルロイドの製造技術

を学ばせるために出張させ技術の習得に努めさせた。

網干の工場では大正4年(1915)1月ロシアより注文を受けた火薬を製造し、セルロイド

の生産は中止の状態となった。

これらの努力により製造技術の改造が進められたと上記神戸新聞記事は伝えています。

さらにセルロイドの歴史について明治3年(1870)米国でビリヤード球の原料として

生産が始まり、日本には7年後、神戸の外国人居留地22番のフランス商館に持ち込まれた

のが最初とされるとも同上の記事で紹介されています。

当時のセルロイドの組成は硝酸セルロース69%、樟脳30%、灰分1%

Wikipediaではセルロイドの歴史をさらに詳しく記載されています。(下に添付)

1856年にイギリス人アレキサンダー・パークス(Alexander Parkes、1818-1890)によって初めて作られた。
パークスはこれを「パークシン」と命名して売り出したがコストの問題から失敗に終わった。
1870年にアメリカのジョン・ウェズリー・ハイアット(John Wesley Hyatt、1837?-1920)が
ビリヤードの玉の原料として実用化に成功し、彼の製造会社の商標としてセルロイドという名前が登録された。
1880年代後半からセルロイドは乾板に代わって写真フィルムとして使われるようになった。
それらの製造技術を開発したハンニバル・グッドウィンの会社が現在のイーストマン・コダック社の前身である。
1955年、セルロイド製品の火災事故が多発していた事を受けアメリカで可燃物質規制法が成立。
これにより日本製のセルロイド玩具などは全てアメリカへ輸出できなくなった。
またこの出来事を期に世界的にセルロイドの製造や消費が落ち込む事となった。
20世紀の半ばまでは、食器の取っ手や万年筆の筒や眼鏡のフレーム、洋服の襟(カラー)やおもちゃ、
飾り物などに広く利用されたセルロイドだが素材の顕著な可燃性が問題となり、
アメリカから広まったセルロイド製品の市場からの排除運動が世界へ広まり、
のちにそれらの製品の多くはアセテートやポリエチレンなど後発のすぐれた合成樹脂素材に取って代わられた。 
セルアニメの製作に使われるセルは当初セルロイドのシートを使用していたため、
1950年代にトリアセチルセルロース製の製品が使われるようになってからも「セル画」と呼ばれている。 

次にもう一つ現存するダイセル異人館(ダイセル外国人技師住宅)を紹介します。

上の写真は姫路市の都市景観重要建築物等の第3号に指定されている外国人技師住宅

と説明パネル。現在はクラブハウスとして活用されており未公開である。

上の写真は日本セルロイド人造絹糸株式会社創立時の網干工場石炭ボイラー用

の建物外観。現在は網干工場の特高受電設備に利用されているそうです。

出典:ダイセル100周年記念のiParkの展示パネル

同じ明治41年(1908)三井系の堺セルロイドがが設立されアメリカ式の工場を建設

すべく米国の化学技師アクステル氏が5年契約で招聘され1910年に工場が建設され

セルロイドの生産が始められています。

上記の両社とも技術力が十分でなかったため十分な品質が得られず経営危機に陥る

ことになりさらに第一次大戦後の不況のあおりも受け経営困難となった。

専売品の樟脳の安定供給を意図し大蔵省専売局の指導により大正8年(1919)

セルロイド会社8社が合併し大日本セルロイド株式会社(現在のダイセル)が設立

されます。この年から数えて本年(2019)が100周年ということでiParkが整備されました。

現在、ダイセル異人館のある周辺は100周年記念モニュメントなどiParkとして整備

されています。iParkの周辺マップを添付しておきます。

 

大日本セルロイド株式会社が大正8年(1919)に設立以降、戦前に実施された関連事業

の動きをiParkの展示より紹介します。

上の写真は大日本セロイド時代(1919-1966)初期のセルロイド生産ライン

昭和9年(1934)、写真フイルム事業へ進出

昭和10年(1935)、有機合成事業へ進出

昭和10年(1935)新井工場を新設

 

昭和13年(1938)新井工場で酢酸セルロースを製造開始

 

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