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兵庫津遺跡第62次調査 2015-3-28現地説明会 兵庫城 天守台跡発見

2015年03月30日 04時39分37秒 | 神戸情報
兵庫城の天守台か 信長の建築技術を確認 28日現地説明会(産経新聞) - goo ニュース

昨年(2014)2月から発掘調査が進められている兵庫津遺跡で兵庫城の天守台跡と
みられる石垣が見つかり2015年3月28日の13時から15時まで現地説明会
がありました。私も観に行ってきましたので記憶が薄れないうちにメモとして
残しておきたくブログ記事を書くことにしました。

全体を俯瞰する意味で元禄絵図に兵庫城の外堀の役目もある逆瀬川や都賀堤
を書きました。(下の写真)

拡大版はこちら
 http://seiyo39.blog.eonet.jp/default/files/hyogo_casle.pdf

また1月31日の現地説明会時点の現地のパノラマ写真を下に添付します。
 (現地説明会の会場で展示のもの)


兵庫津遺跡の第62次調査の所在地:
 神戸市兵庫区中之島2丁目現中央卸売市場本場西側 旧中央卸売市場本場跡地





説明は神戸市教育委員会文化財課 学芸員の中谷正氏です。




上の動画は2回目の説明場面です。



兵庫城は織豊時代の天正9年(1581)に池田恒興が築城完成させた平城で、
織田信長の築いた安土城や旧二条城とともに最古級の城で胴木が石垣の最下段に
敷かれ初期の平城の築城技術として織田信長が採用した技術を継承するものと
して貴重である。
海上交通の要所である兵庫津に兵庫城を築城する意味は織田信長が西国大名に
備える拠点として信長自身の命で建設されたもので兵庫城が重要視されていた
ことが伺い知れます。

本丸跡には井戸も新たに発掘されました。(下の写真)





2015年1月31日の現地説明会から2月-3月の発掘調査で新たに天守台
に設けられたと思われる石垣が発見された。
大量の栗石(ぐりいし)が用いられていることから天守台用の石垣と推定。
その高さは3~5mあったと推測されています。
石垣は前後に二重に構成され前後の両端幅は約4m×約18mに渡る。
実際の石垣はさらに広く、天守は11m×13m程度だったと考えられる。


石垣が二重である理由は下記のいずれか一方と推測される
①築城中に情勢が緊迫し、本丸、石垣を拡張する必要が出てきた

②強度を保つため、石垣の外側にさらに石垣を造り補強した


①の場合の想像図(当日配布の資料より)


②の場合の想像図(当日配布の資料より)




沈下を防ぐため底に木材=胴木が敷かれている


上の写真は今回の調査の主体である天守台の石垣 胴木が9本


上の写真は胴木の断面

内堀の幅について前回-の現地説明会(2015-1.31)では16mから北側で6m程度に
狭くなっていると説明したが今回の発掘調査により16mから20mの幅が確保されて
いると訂正された。
前回(2015-1-31)発表の内堀と外堀
最大幅約18・5メートルの外堀と、同16・8メートルの内堀が並ぶ
「複郭構造」が確認された。


上の写真は訂正後の内堀。(現地説明資料より)

2015年1月31日の現地説明会では内堀から本丸に入るのに2つの土橋が
あると説明したが北側は土橋は存在せずあるとすれば木橋がかかっていたと
推測される。




上の写真は当日(2015-3-28)の現地の遠景です。かなり埋め戻しが進んでいる。








上の4枚の写真は兵庫津遺跡第62次調査で出土した遺物の一部の写真です。
(当日展示されていたもの)

キャナルプロムナードの兵庫城跡の説明板による兵庫城の解説
「天正8年(1580)、池田信輝と輝政父子が花隈城を攻め落とした功によって
兵庫の地を与えられてからは、兵庫はそれまでの室町幕府の権力を離れ、
東大寺や興福寺と兵庫の関との関係も脱して、新たに織田信長の傘下に入った。
これを機会に池田氏は花隈城の遺材も加えて兵庫城を築いた。
その地点は、現在中央市場が建つ中之島・切戸町である。
東西、南北ともに140mの地域で、周囲には幅3.6mの堀があった。
元禄9年(1696)紺屋安右衛門(南仲町絵師) によって書かれた
摂州八部郡福原庄兵庫津絵図の中に御屋敷として堀に囲まれた図が残されて
います。
古来兵庫は1184年の源平合戦一の谷の戦い、1336年の湊川の合戦以降
たびたび大きな合戦が続き、そのつどひどい戦災を受けた。
兵庫に古いものが少ないのもその為であろう。しかし信長・秀吉による全国統一
がなってからはこの地方ではもう合戦がなく、兵庫の町は平和に栄えていった。
兵庫城跡は江戸時代に入り元和3年(1617)、尼崎藩領となり、藩の陣屋となり、
明和6年(1769)、幕府  領となってからは、大坂町奉行所に所属して、
与力や同心の勤番所として明治になるまで続いた。」


兵庫城関連年表(2015-1-31の現地説明会で配布された資料より)
天正8年(1580) 池田恒興が築城。荒木村重の花熊城を解体し、
         その用材を用いたとの記録がある(『花熊落城記』1732年)
天正11年(1583) 池田恒興、美濃へ転封。
         兵庫と尼崎が三好(豊臣)秀次に与えられる。
天正13年(1585) 羽柴秀吉の直轄領となる。片桐且元が代官となり、
          「片桐陣屋」と呼ばれる。
慶長元年(1596) 慶長伏見地震。兵庫津も被害を受ける。
元和3年(1617) 尼崎藩領となる。「兵庫陣屋」が置かれ、奉行が駐在
元禄9年(1696) 『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』が描かれる。
          「御屋敷」と表現される。
明和6年(1769) 幕府直轄領となり、「勤番所」が置かれる。
             このころ、堀が埋められ町屋となる。
文久2年(1862) 『兵庫津之圖』が描かれる。
          「御番所」の周りも町屋となっている。
明治元年(1868) 兵庫県庁が置かれる。4ヶ月で移転する。
明治7年(1874) 新川運河開削により、中心部の大半が削られる。





今回の調査はあと2日間、、3月末までで終了する。

兵庫城の跡地(神戸市中央卸売市場本場の跡地)にはイオンが大型の
ショッピングセンターが建設される予定で、完成 する時期は当初予定より
1年遅れて2016年9月30日の開業を目指すと発表されています。
(2014-5-23の発表)


兵庫津遺跡第62次調査の現地説明会は今回(2015-3-28)を含めて4回実施

 第1回  2014-6-28  現地説明会配布資料 
  こちらは観てきました。
     兵庫津遺跡第62次調査 現地説明会 on 2014-6-28 
 第2回  2014-10-25 現地説明会配布資料
 第3回  2015-1-31  現地説明会配布資料
 第4回  2015-3-28
   神戸市教育委員会が過去に実施した現地説明会の資料は下記サイトに
   掲載されています。第4回も間もなく更新されると思います。

  http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/folk/estate/gensetu..html


遺跡資料リポジトリでは各地の発掘資料で過去の報告物をオンラインで見れます
 神戸大学によって作成されたものです
   http://rar.lib.kobe-u.ac.jp/Repository/


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