CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

兵庫城

2015年03月02日 05時26分43秒 | 神戸情報
大阪歴史学会発行の「ヒストリア」第240号(2013年10月)を兵庫県立図書館で
見つけた。内容は兵庫津と兵庫城の特集が組まれていました。(詳細は下記)

『ヒストリア』第240号特集掲載論文
1天野忠幸「中世・近世の兵庫-港と城の歴史-」
2中井均「城郭史からみた兵庫城」
3下高大輔「兵庫城石垣と城郭石垣研究の課題と展望」

4高久智広「明和上知と兵庫勤番所」

2と3が兵庫城に関するものである。

兵庫城の現地説明会は2012年8月4日に次いで2015年1月31日に
実施されました。

私は1回目(2012-8-4)には説明会で現地を観てきたが今回(2015-1-31)には
残念ながら観ることが出来なかった。

そこで現在までの発掘調査や文献で判っている事を纏めてみることにしました。

2012年の現地説明会(小生のブログ)

1.兵庫城の築城時期
   天正8年(1580)池田恒興が花隈上城の用材を解体して築城

2.兵庫城の城主または管理者の推移
   池田恒興は2年後に岐阜城に移ると豊臣秀次が尼崎と兵庫津を統治した。
   江戸時代に入り兵庫津は尼崎藩により支配された。
   その城主は元和3年(1617)に尼崎城に入った戸田氏に始まり、青山氏、
   松平氏と続き、明和6年(1769)に幕府領に編入されるまで約150年に及ぶ。
   尼崎藩は兵庫城跡に陣屋を置き、兵庫奉行を派遣して支配を行っていた。
   1769年、兵庫津から幕府領に編入されると、大坂町奉行所の支配を受けること
   になり、勤番所には大坂町奉行所から与力・同心が派遣され、常駐した。

 神戸市教育委員会が作成した関連年表を添付しておきます。
   出典:

  ◆〈参考〉 兵庫城 関連年表◆
天正8(1580)年 池田恒興が築城。荒木村重の花熊城を解体し、その用材を
          用いたとの記録がある(『花熊落城記』1732年)。
天正11(1583)年 池田恒興、美濃へ転封。兵庫・尼崎が三好(豊臣)秀次に
天正13(1585)年 羽柴秀吉の直轄領となる。片桐且元が代官となり、
           「片桐陣屋」と呼ばれる。
慶長元(1596)年 慶長伏見地震。兵庫津も被害を受ける。
元和3(1617)年 尼崎藩領となる。奉行がおかれ「兵庫陣屋」と呼ばれる。
元禄9(1696)年 『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』が描かれる。御屋敷と表現される。
明和6(1769)年 幕府直轄領となり、「勤番所」が置かれる。
           このころ、堀が埋められる。
文久2(1862)年 『兵庫津之圖』が描かれる。御番所の周りも町屋となっている。
明治元(1868)年 兵庫県庁が置かれる。4ヶ月で移転する。
明治7(1874)年 新川運河開削により、中心部の大半が削られる。


3.兵庫城の構造 約140m四方 方形復郭のお城

上の写真は兵庫陣屋絵図(神戸市立博物館蔵)です。
左手が北側。  上側(東側)が大手で 下側は(西側)が搦手であった
西側の中央部に土橋がかかり門になっているクランク構造になっているのは
搦手から攻撃があった場合横矢で防御する機能をもっている。


上の写真は第62次調査 現地説明会(2014-6-28)で配布資料のPage3で
この絵に2015年1月31日の外堀と内堀の絵を描いた。
 (概念図で正確な寸法ではない)

 外堀の最大幅は18.5m  内堀の幅は16.8m で2重の堀を有していた。

 内堀には4.2mから5.8mの2つの橋(土橋か?)が設置されていた

4.兵庫城の位置




上の2枚の写真は兵庫城位置を示したものである。



関連ブログ
 
 兵庫城跡 最初の兵庫県庁の地 の石碑 in 新川運河キャナルブロムナード  


中途半端な記事になりましたが出かけなければならないのでこのへんでアップします。


コメント
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