M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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56年来の親友、炬口勝弘が逝く

2015-08-15 | エッセイ

 僕の人生で一番の親友、カメラマンの炬口勝弘を亡くした。



 <桃園川:いまは暗渠>

 彼と僕の仲が決定的に親しく、近しくなったのは、彼がその頃付き合っていた女史と男と女の関係になろうと、僕をダシに使ったのがその理由。

 3人はいつものように、新宿で飲んでいた。遅くなって、炬口は僕も一緒だからと女史を安心させ、彼が住んでいた中野・桃園川そばのアパートへ女史を招き入れた。夜中に僕が目覚めると、二人が暗闇の中で無言のまま争っている様子。何が起きているか、容易に推測はついたが、武士の情け、黙って寝たふりをしていた。

 このことは、後になって、彼が最初の男の子の名前に、彼の苗字の一文字と僕の名の一文字とを合わせて名づけたことで、その裏が取れた。

 僕が最初に炬口と会ったのは、高校2年の二学期の始まりの日。淡路島・洲本高校の教室だった。親父の仕事の関係で、岡山の高校から転校試験を受けて、僕が洲本高校のOK先生のクラスに入った時だった。その頃の彼は、典型的ながり勉で、青白く暗い顔をした高校二年生だった。



 <洲高の帽子をかぶって>

 炬口の行動がガラリと変わったのは、その直後だった。

 東京・谷中生まれの僕が話す、姉と親父との方言のない会話、つまり耳慣れない標準語に驚き、洋画家の親父の油絵に感動し、東京の話を聞き、柄にもなく演劇部を僕と一緒に立ちあげ、僕と一緒に受験生の彼が女友達と遊び、ベートーベンのロマンスを聞きながら勉強する僕を見て、島育ちの青白き受験生には、今でいうカルチャー・ショックだったのだろう。急速に親しくなった。

 僕も、新しい学校で新しい友達が欲しかったから、一緒に行動するようになった。彼は淡路島の西海岸、五色町都志の出身で、洲本市に一人で下宿していた。一緒に過ごす時間が増えた。近くの白土山や、三熊山に登ったり、洲本・大浜でボートを漕いだり、ニューシネマパラダイスのように映画館に入り込んで、裕次郎の映画の連作を見たり、受験生としては考えられない生活に嵌って行った。

 結局、彼は、石工職人の親父の願いもむなしく、早稲田の仏文に入った。僕は、大阪市立大学に入った。しかし、60年安保闘争で抜け殻となった僕は、一人で東京に帰ろうと決めた時、僕が転がり込んだのが、炬口の早稲田の神田川沿いの狭い下宿。面影橋の近くだった。

 僕も早稲田に入ろうとしていたが、その春、早稲田は学費を突然上値上げした。僕がバイトで貯めた金では、早稲田は無理になった。仕方なく、法政に拾ってもらった。学部を選ぶとき、彼は仏文はやめとけ、飯は食えないからと忠告してくれた。実は僕も仏文を狙っていたのだ。彼はそのころ早稲田の3年で、同い年だけど、大学生としては2年先輩だった。僕が前の大学を中退したからだ。

 彼は学生時代に、北海道に一人旅をして、写真を撮ってきた。その写真が、全日本学生写真コンテストで優秀賞をとった。これが、彼のその後の人生の進路を決めたといえる。その後、八丈小島に何か月か住んで写真を撮っていた。自分の進路はドキュメンタリー写真かと模索していたようだ。「夕刊ゲンダイ」に、彼の将棋の写真が乗っかるようになるまでには、いろいろな試行錯誤があった。そして、将棋のカメラマン、炬口勝弘(たけのくち かつひろ)が生まれた。



 <将棋カメラマンの彼:「雨宮編集長のコゴト@炬口さん」よりお借りしました>

 彼は、フラッと僕の世界に入ってくる。僕が仕事で忙しくしているころ、僕の留守宅に僕のかみさんを訪ねて、ふらりと現れて2,3泊していく。それは横浜の戸塚だったり、伊豆高原だったりする。僕の代わりに、炬口はかみさんの愚痴を聞いてくれたようだ。彼は、軽い感じで人の心の中に、すっと入ることができる性格だった。根がやさしいからだろう。



 <伊豆高原で>

 そんな付き合いが続いていたが、まず親父を亡くし、一人残されたお袋さんの面倒を見るために、東京でのカメラマンの活動を縮小し、淡路島の西海岸に戻っていった。その後、お袋さんも亡くして、好きな猫に囲まれて手作りの家で一人住まい。その屋上から、二人で川の対岸めがけて、ロケット花火を飛ばして遊んでいた思い出がよみがえる。

 淡路の彼とは電話や、メールでやり取りしていた。彼も田舎に閉じこもって、社会から隔絶されたような気がしたのだろう、しょっちゅう連絡してきた。彼が、ネイキッドという車で、事故ったことなど、電話の向こうで楽しそうに話していた。彼は、「ウエストコーストのターキー」とメールでは名乗っていた。確かに淡路島の西海岸。「たけのくち」だから七面鳥まがいの名前でもよかったのだろう。

 そして、5年前、手作りの家に一人でいる時、脳こうそくが襲った。

 偶然、その日の朝9時に、彼と電話で話した高校の同級生がいる。Nさんという。彼女は、今も「あの時、ちょっと呂律が変だと思ったから、救急車を呼んでいたら…」と悔やんでいる。彼女は奈良に住んでいるから、簡単に様子を見には行けなかったのは当たり前。やっと夜になって、近くに住むいとこの方に、洲本市の県立病院に運ばれたが意識は無かったようだ。

 それを聞いて、意識がなければ、横浜から飛んで行っても仕方がないなと、心臓に病気を持つ僕は思った。彼の様子は洲本の友達から聞くことにして、様子を見ていた。

 意識が戻ったと知らされたのは、5か月後。僕は炬口に会おうと、淡路に飛んだ。Nさんと待ち合わせて病院に行った。彼は、遠くから僕たちを見つけて、手をあげて反応してくれた。初めは不思議そうな顔をして僕を見ていたが、僕だと確認したらしく、笑みがこぼれた。分かったのだ。でも、言葉は出てこなかった。言語障害を起こしていた。分かってくれて、笑ってくれただけでうれしかった。植物人間ではなかったのだから。



 <見舞いその1>

 僕は意図的に、予定を知らせずに見舞った。彼を驚かせて、脳に何かの刺激を与えることができればと、思ったわけだ。僕だとわかって、驚いたようだ。もくろみ通りだった。

 彼が追いかけていた将棋の羽生名人も、彼を見舞ってくれたと聞く。彼の柔らかい心が、人を引きつけていたのだ。

 恩師のOK先生と、炬口を見舞うため、淡路には2度飛んだ。リハビリの効果は、簡単には出なかった。二度目に会った時に、僕は「アイウエオ板」を作って、持っていった。箸を使って食事が出来ていたから、彼が指で一文字ずつ示してくれれば、会話は成り立つと考えたのだ。

 しかし、頭の中で言葉を作ることができなかったようだ。結局、指で文字を示すというのは、無理だった。彼自身、それが分かって、急に反応が鈍くなった。そして、彼の表情は固まってしまった。一本指での握手が、その時のまたねの挨拶だった。



 <見舞いその2>

 最初の面会のあと、文字よりも写真とか絵のほうが、彼には刺激になると思い、絵ハガキを書いて送ることを考えた。2週間に一度、絵ハガキを送った。介護の人によれば、ハガキを見て分かっているような反応だったと聞く。

 88枚目のハガキが届く前に、彼は逝ってしまった。脳こうそくから丸4年、ガンバってくれた。僕たちに、彼の死に対する準備期間を用意してくれたのかもしれない。静かに、穏やかに、いとこに看取られて旅立ったと聞く。2015年5月10日だった。僕と同じ73歳。

 日常的には、没交渉だったような奥様の女史も、子供たちも東京から駆けつけて、故郷の都志で、5月13日、この世界から姿を消した。

 女史から電話をもらったのは、16日。最後の連絡は、母からと、献身的に彼の面倒を見た長女のF子さんに勧められて、いや命令されて、女史は電話をくれた。お久しぶりですと彼女は言った。本当にしばらくぶりで…と僕は返した。あの夜のこと、覚えていますよ…と言いそうになったけれど、あわてて自分をおさえた。

 もうこの年になって、新しい友達を作ることは難しい。親友なんて簡単に作れるものではない。一番の親友を僕は亡くしたのだと、この三か月考えてきた。僕自身の女遍歴など、二人だけが知る秘密など、気楽の話せる友はもういなくなった。

 彼の愛用のカメラを一台持っていたいと、女史に頼んだ。彼が生涯をかけた道具、彼が相棒としたものを、僕も一台、持っていたいと思ったからだ。そう、生前の彼には、僕の愛用していたブライヤーのパイプ、20本ぐらいを贈っていた。アイルランドのピーターソン、フランスのシャコム、イタリアのガルネリ、イギリスのダンヒルなど、僕がパイプをやっていた時に使っていたものだ。愛用してくれてたようだ。

 僕には、まだ何人かの親しい友達がいる。神様はどんな計画をお持ちかわからない。その前に、機会を作って、彼らと必ず会っておきたいと計画を立てている。




P.S.
写真<将棋カメラマンの彼>は、週間将棋「雨宮編集長のコゴト@炬口さん」よりお借りしました。
キャプションに、“2010年6月17日。女流王位戦第4局。タイトルを奪取した甲斐と談笑する炬口さん”とあります。
雨宮様より、事後承認をいただきました。

写真<桃園川>は、mthr110さんの“桃園川緑道”をお借りしました。
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