M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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逝ってしまった身近な人たち

2015-08-01 | エッセイ


 今年、この3か月くらいの間に、親しい人を、立て続けに4人も失った。何故…と問いかけるが、誰も答えない。

 そんなことがきっかけで、僕の身近の人で、くたばった人を整理してみた。

 最初は祖母で、中学2年ぐらいの時、身近に死が僕の意識の世界に現れてきた。

 おばあちゃん、父方の祖母。僕が中学校から帰ってきたら、継母が薄暗い部屋で呆然としておばあちゃんを見ていた。掛布団の上に、包丁が置いてあった。なんだかわからなかった。親父はその日、いなかったと思う。小さなおばあちゃんの体をいれた棺桶を、村の人たちが担いで、川を渡って、向かいの山にある野焼の焼き場に運んだ。夜、まきの火の上で、おばあちゃんの体は燃えていった。残った骨を僕も拾った。



 <野焼 Yahoo 知恵袋から借用>

 次はおふくろ。実母。おふくろは僕の周りから、結構、早くいなくなっていた。小学2年のころ、母は、僕のすぐ上の姉を連れて、実家の土佐に帰っていった。その後、4年生のころ、近くにいたけれど、僕の家にはいなかった。母は、下の姉とその後の生活をしていた。姉が結婚して大阪の港区に住んでいた頃、会った記憶がある。姉の子どもの面倒を見ていたが、持病の間接リュウマチの合併症で亡くなった。僕はその場にはいないで、葬式にだけ出た。母がかわいがっていた犬が、通夜の日、一晩中、棺の周りを走り回っていた。彼も淋しかったのだろう。姉が、実家の名字で、自分の家の墓近くに、母の墓を建てた。法事にも、墓参りにも行った。かなり、僕とは薄い縁の世界に住んでいた母だ。



 <お袋>

 次が親父。彼の意志とは関係なく、僕のその後の生活を決定した人だ。洋画家で、東京でアトリエを空襲で焼かれ、父方の家のルーツがある岡山県の山の中に、家族を連れて疎開した。おばあちゃん、父母、姉二人、そして僕の6人が、10畳ぐらいの一間に生活していた。油絵を買ってくれる人が田舎にそんなにいるわけはない。赤貧。学校給食が始まるまで、毎日、おばあちゃんの作る芋粥を食べに、お昼休みに走って帰った。先に東京に帰った僕を追っかけて、親父は東京に出てきて、やっと彼の生活が成り立つようになった。



 <親父>

 僕は高校以降、学費は全部自分で作って、大学を卒業した。親父と普通に話せるようになったのは、僕に子供ができて、孫を見せに谷中に行きはじめた頃か。お弟子さんに囲まれながら、絵を描き続けて、肺がんで死んだ。僕が喪主になり、300人ものお弟子さんたちに見送られながら、荒川の町屋で骨になった。死後、見つけた彼が描いた墓のデッサンをもとに、岡山の山の中、上徳山に僕が墓を建てた。

 親父のネガティブな影響で、僕は絵を描くということはしなかった。しかし、システムアーキテクトとして、結果としては同じことをしていたと気がついたのは、のちのこと。



 <徳山家の墓>

 次は、上の姉。この人には本当にお世話になった。ある意味では、母代りだったかもしれない。赤貧の家から、高校を卒業してすぐに小学校の先生になり、独立した。僕との接点が深まったのは、彼女が、東京に出てきてからだ。間接リュウマチに侵されながら、銀座の画廊に務めていた。僕は大学生で、家賃も高かったから共同でアパート、1Kを借りていた。彼女には俳句の才能があった。いろんな俳壇にいたようだが、最終的には、現代俳句女流シリーズで本が出たくらいだ。

 その頃の公団住宅は皆の憧れだった。横浜の公団住宅を応募したのは、彼女との連名だった。僕が結婚して家を出てから、彼女がその団地で暮らしていた。僕の家庭の状況もよく理解してくれていて、僕はいろんな局面で助けてもらった。横浜市の高齢者独身住宅で、孤独死した。心筋梗塞だった。僕と彼女のパートナーが一緒に葬式を出した。親父が大好きな姉だったから、一緒の墓に入れてあげた。おばあちゃんと、父と、姉が、僕の立てた墓に眠っている。



 <姉>

 次に亡くしたのは、半血兄弟のK姉。母が、父と一緒になる前に、嫁に行っていたときの女の子だった。若くして、実母は夫を亡くし、僕の親父と再婚した。このK姉から、僕は人生の生き方のヒントを得た。独立心しか財産のない僕。彼女が旦那とドイツ・ハンブルグに5年ほど住んで、神戸に帰ってきた。大学一年の夏、一人、六甲・岡本の屋敷を訪ねた。そこで聞いたドイツの話と、お隣さんの犬がドイツ語しか分からなかったのを知って、日本から、世界に目が向いた。それが、結果的には、IBMに僕が就職することになったきっかけだった。IBMだったら、海外で働くことができると信じたからだ。そして、アメリカの会社のイタリア駐在員となって、ミラノで暮らした。今の僕の生活は、このミラノの経験から始まったと言ってもいいほどの衝撃を受けた海外経験だった。K姉に感謝。それに、彼女の功績は、母方のいとこたちを集めて、東京のいとこ会を作ったことだ。今も、おかげさまで、いとこ会が開かれ、懐かしい顔を見ることができる。(右端がK姉)



 <K姉といとこたち>

 次に来た死は、K姉の兄、同じく半血のK兄。高知の安芸に住んでいた。僕のおふくろが、土佐に帰って、この人の長男の面倒を見ていた。彼は僕より下。赤野の裏の小川で、たらいに乗って遊んでいるのを、実母が見ていた。僕が、会社を早期退職して、第二の仕事を始めるとき、僕は精神的に不安定な時間を持った。ふらり、土佐・竜馬空港まで飛んだ。車を借りて安芸を訪ねた。K兄は、嫁のSさんと僕を歓待してくれた。半血とはいえ兄弟だと実感したのは、突然の僕を迎えてくれて、安芸の岩崎弥太郎の実家や、夕日の落ちる太平洋を一緒に見てくれた時の優しさだった。嫁のSさんと二人で、二世帯住宅を建てて、長女の帰郷を待っていたが、果たせなかった。介護施設で、旅立った。



 <K兄貴とSさん>

 最後は、母方のいとこのSちゃん。僕よりちょっと年上だけど、僕が大学生活を始めたころ、東京に出てきて、ファッション・デザイナーの勉強をしていた。半血のK姉が始めたいとこ会で会った。闊達な性格で、周りを煙に巻いていたようだ。おばさんの影響を受けて、デザインの勉強をつづけ、有名なファッションデザイン・コンクールで最優秀賞を取り、デヴュー。大津で結婚生活をやりながら、デザイナーをつづけていた。認知症の合併症で、見取りを受けて、やすらかに旅立った。先日、自由ヶ丘で、Sちゃんをしのぶ、いとこ会が開かれた。これだけの人を集めるのは、それだけ、魅力のあった証拠だろう。


 <Sちゃん>

 以上7名の近しい人の死を経験した僕がやれることは、棺桶リスト(くたばるまでにやっておきたい事、会っておきたい人のリスト)を確実に、そのタスクをこなしていくしかないだろう。

 いつ、気まぐれな神様は、僕を、この世界から召されるかわからないから…。