M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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2.初めてのブランコ、肥後守、そして橇(そり)

2014-11-12 | エッセイ・シリース

「初めての…記憶たちシリーズ」


 僕が幼稚園に入ったのは、たぶん1947年、僕が5歳の年。

 岡山の山の中にしては教育の仕組みが進んでいて、戦後2年でもう公立の幼稚園があった。そのおかげで家以外の世界、団体生活を経験したことは、その後の僕にとってはとても良かったことだった。他の人たちとの付き合という訓練のスタートが切れたわけだから。

 じゃあ、幼稚園で何をやっていたかいうと、全く覚えていない。

 覚えていることは一つ。ブランコが気に入って、より高く、より高くと、遠心力の限界まで漕いでいたことだ。夕暮れ、もうみんな家に帰っても、僕は一人、夕やみの中でブランコを漕いでいた。より高くより高く。しかし、ある日、やりすぎて気持ちが悪くなって止めた。ある意味では孤独だったのかもしれない。



<ブランコ>

 家に帰っても、楽しいことがあるわけではなかった。10畳一間に、父、母、姉二人、祖母と僕、6人が住んでいたのだから…。門長屋の一室。室内では火が使えないから、家を出たすぐの門の下に小さなかまどをおばあちゃんが起こして、そこで煮炊きをしていた。

 おもちゃは買えないから、みんな手作り。

 その頃は、肥後守という折り畳みのナイフが一本があれば、たいていのものは作れた。



<肥後守>

 木を拾ってきて、のこぎりで大体の形を切り取れば、後は自分の肥後守で形を削り出していく。桐の木は柔らかくて削りやすい。そうやって、海に浮かぶ船を想像して、船を作った。裏の池に浮かべて、友達と競った。

 裏山の林の中に、むかし木を切り倒して引っ張って運び出したスロープが残っていた。周りにはコナラの林があって、ドングリがいっぱい落ちていた。この坂は、てっぺんから下までは、きっと50m以上はあっただろう。

 最初は普通のそりですべっていたのだけど、もっと面白くしようと、そりを二台つないだ。前のそりはハンドルのためのもので、小さく作り、後ろのそりは大きく座れるように作った。この二台を木の棒でつなぎ、前の方は自由に角度が取れるように回転できた。後ろのそりには、両サイドにブレーキになる自由に動く木片をつけて、手で引けばブレーキになった。



<手作りの橇>

 そりが地面と接するところには、青竹を切ってきて、割って、スキーのようなものを作り、火にあぶって、その先端を曲げた。これを打ち付けると、そりはさらに加速した。

 こうした工夫で、その坂は橇の格好の滑降場になった。仲間の子供たちと集まって、スラロームとスピードを楽しんでいたのだ。もちろん、運転を間違えれば、そりから放り出されて、手や足をすりむくことだったある。でもそれが、男の子の遊びだった。

 ドングリが雪の役割を果たして、カラカラいいながら、僕はすごいスピードで橇を走らせた。子供たちの歓声がいつもあった。



<モダンな橇>

 このコナラの林の中に、僕達はササのやぶを切って、小さな隠れ家を作り、陣地だと言って遊んでいた

 なんでも自分で遊ぶしかなかった頃だ。懐かしい日々。忘れない。

 今の子供たちは、どうやって遊んでいるのだろうか。親から、外から、与えられたものではなく、自分で作って遊んでいるのだろうか…。

 肥後の守は使えるのだろうか。親は、危ないとか言いそうだけど…。

 なんだって、やればできるさ。作る楽しみと、遊ぶ楽しみ、友達との競争の楽しみ、なんかを手に入れられるのだから。