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「帰ってきたムッソリーニ」を見た

2019-06-09 | エッセイ

 「注:前回の「定番の春を取りもどす」3っ目です」 

 

 <イタリア映画祭・2019のHP> 

 2001年のイタリア年から始まった19年の歴史を持つ「イタリア映画祭・2019」で、「帰ってきたムッソリーニ」を数寄屋橋マリオンで見て来た。



 <帰ってきたムッソリーニのブローシャー> 

  ここ9年、欠かさず見てきていたのに、昨年はチケットを買って待っていたのだが、僕の足の痛みとしびれで、行くことはできずに悔しい思いをした。今年は頑張って、映画を見ることができた。毎年、ゴールデンウイークに開催しているこの映画祭は、前年のイタリア映画の新作を何本か(今回は11本)を選び、この映画祭のために特別に日本版を作り、日本で初上映するのだから頭が下がる。すばらしい企画だと思う。  

 毎回、作品はコミカルなものを選んでいる。分かりやすくて聞き取れれば、僕のイタリア語の勉強にもなるし、イタリア人特有のウイットに触れることができるからだ。今回は、ミニエーロ監督のコミカルと言われる作品を選んだ。

<ミニエーロ監督のプロフィール> 


作品紹介 

題名:帰ってきたムッソリーニ

原題:Sono tornato [2018/99分] 

監督:ルカ・ミニエーロ Luca Miniero

出演:マッシモ・ポポリツィオ、フランク・マターノ


映画祭の作品紹介: 

 

 奇想天外な物語で、初めから、最後まで笑って見ていた。1945年、スイスへの逃亡中に、ミラノの北、コモ湖でパルチザンに61歳で射殺されたファシスト(束、団結を意味するイタリア語のファッショと呼ばれたナショナリストの集団)の総統だったムッソリーニ。彼の死体はその後、ミラノのロレート広場で、見せしめに逆吊りをされた。その彼が、突然、ローマの古代遺跡で現代によみがえったところから物語は始まる。

  

<ムッソリーニと映像作家> 

 ムッソリーニを発見した若いドキュメンタリー映画の制作者カナレッティと共に、現代のイタリアの社会に入り込んでいく。ムッソリーニのソクッリさんとして持てはやされ、テレビにも出て、みんなの関心を集めていく。彼はイタリアの各地を回り、現代のイタリア社会を理解していく。そうした人々との接触の中で、戦前を知らない若者の人気者になっていく。本物のムッソリーニだと気が付いたカナレッティは彼を殺そうとするが、それはできずに警官に捕まってしまう。そして、ムッソリーニはイタリアを再度、征服しようとする...。ここで、映画は終わっている。

  

 <ムッソリーニと若い人たち> 

僕の感想 

 ムッソリーニが、現代で権力を握ったらどうなるのか? を考えさせられた。皆さんもご存知の通り、イタリア人は徹底した個人主義で、皆が一人一人、自分の意見を持っている。現在のイタリア政府は、日本のような巨大な一党独裁的な政党に支えられた存在ではなく、連立・連立の、不安定な政治体制になっている。同時に、ポピュリズムに乗った、極右も力を得つつある。 

 こんな社会では、物事を決められないという自己撞着が起こり、強い人に決めてもらいたいという希求が、どこか自然に生まれてきていると思われる。現在のイタリア社会には、政治に対するある種のむなしさを感じている人々がたくさんいるようだ。これからイタリアが何所へ向かって行くか分からないという恐ろしさを感じているのではないかと思う。逆に、方向性を示してくれる誰かを渇望しているのではないかとも感じてしまう。特に、過去の悲惨さを学んでいない世代は、ファシズムに対しての警戒心は全くないだろう。ムッソリーニが、本気で再度イタリアを収めようと動き出すと、果たしてどうなるのか…。 

 では、この話を、現代日本に当てはめて考えてみたらどうだろうか。強大な権力者の確信的な行動と、ポピュリズムの政治、それを非難するどころか、それを後押ししている御用ジャーナリストを批判する勇気ある人は、数少ない。ある意味、既にファシズム(全体主義)ではないかと思うことさえある。この映画を始めは笑って見ていたが、最後は、厳しい現在の政治環境にぶち当たっている自分を発見させられた。コミック映画なんかではなかった。どちらかといえば、仮想ドキュメンタリーかもしれない。  

 <ミエーロ監督のQ & A > 

 上映後、ミニエーロ監督とのQ&Aの時間が設けられていたが、日本人の悪い癖で、「質問」にならない質問、つまり自分の考えを延々と述べて、最後にちょこっと質問をするという人ばかり合計3人。これに30分以上も時間を使ったのは、もったいなかった。もっと、監督の考えを聞きたかったのだが。通訳の人も、質問者の長い質問(?)をメモに取るのに忙しく、いい回答を監督から聞き出すことはできなかったようだ。残念。

  僕の頭に浮かんだのは、「熱狂なきファシズム」*という言葉だ。リアルな現実を見ないで、政治を他人のものだと思っている現代日本の若者たちは、すでに五右衛門風呂の中で、「茹でガエル」になっているのに、それに気が付いていないのかもしれないと。

 <会場風景> 

 帰りの銀座には、たくさんの幸せそうな日本の人々が見えた。本当に、これでいいのだろうかと自問している自分がいた。  

P.S.

数日後、ある友人から、この映画は「帰ってきたヒットラー(2015年)」のイタリア版リメイクだと聞かされた。ただ、ファシズムに対する対応も、個人主義のイタリアと、集団で考えるドイツ人とでは、自ずと違ってくるだろうというミニエーロ監督の言葉を思い出した。 

ノート*:

「熱狂なきファシズム」とは、2014年に河出書房新社から出版された、想田和弘氏の評論集の書籍名。現代のファシズムは目に見えにくいし実感しにくく、このことから人々の無関心の中から気付かれないで進行していくということから、「熱狂なきファシズム」と名付けたとのことだ。



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