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M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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お弟子さんたちのグループ展「ゆさい」

2013-12-09 | エッセイ


 親父、徳山巍が没して22年。洋画家として、親父は美術界に名を残してはいない。

 僕たち家族が一番困窮していた1946年、太平洋戦争の終った翌年に描いた3号の「飾り馬」が、ことの始まり。この絵の事は、すでにアップしているエッセイ、「飾り馬を買い戻す」(前々回)に詳しい。

 親父は洋画家であると同時に、素晴らしい教育者でもあったと僕は思っている。つまり、洋画を希望する人に教えるという才能にたけていたと思う。世間にはあまり知られていない上野都美術館の公募展、「新構造社展」で審査委員として動いていた。そこに沢山の弟子を持っていた。

 洋画の画壇の世界はまるでやくざのような組織だと思っている。全国的な組織、「新構造社」の元に、沢山の独立したグループ、もしくは組のようなものがあって、そのカシラが弟子たちの面倒を見るという構図になっている。親父も、その一人で、沢山のお弟子さんを持っていた。



 そのグループは、東京・台東区谷中・根岸にあって、30人くらいのお弟子さんたちがいたと思う。東京の他にも、関西、長野あたりにもグループがあって、そこのお弟子さんたちを面倒見るわけだ。ようは、新構造社展の油絵部門に出品できるように、画塾を開いて油絵の基本教育をやっていた訳だ。だいたいは、みんな素人からの希望者だった。

 今から思うと、親父には、僕はあまり良い感情は持っていなかったと思う。それは、親父と僕の間に、絵について小さな事故が僕の小さい頃に在ったことに由来する。それについては、もう電子ブック「親父から僕へ、そして君たちへ」に上げているから、ここでは書かない。

 とにかく、僕の家族、つまりカミさん、親父の孫二人と僕の四人は、あまり親父のアトリエには現れなかった。年に一度、元旦にみんなで顔を見せるのが通例で、他には親父の家をみんなで訪れたことは記憶にない。

 しかし、親父は別に淋しくもなかったようだ。それは、親父を慕って集まってくるお弟子さんたち、さらには台東区の生涯教育・絵画教室で出会った生徒さんたちに常に囲まれていたからだと思う。良い教育者だったのだと思う。

 やくざの組みたいと思わせることが起きたのは、親父がくたばった時だ。親父とおなじような組の頭たちは、徳山組の弟子たちを自分の組に組み入れようと、果敢に動いた記憶がある。まさに、草刈り場だったわけだ。しかし、親父の弟子たちは、自分の組、元徳山組を守り、吸収をのがれたという歴史がある。

 そんな「徳山組」のお弟子さんたちが、今回、銀座でグループ展を開くので、「飾り馬」を借りたいと言ってきた。僕は、親父の絵が67年ぶりに人の目に触れるのは良いことだと思って、貸し出すことに喜んでOKを出した。

 展覧会は、銀座2丁目のメルサの「銀座画廊」で開かれた。僕も、心臓君の機嫌が良かったので、オープニングに出て簡単な挨拶をした。

 元徳山組の「ゆさい」は18回目のグループ展で、隔年の開催だから、実に36年間も続いているわけだ。それだけ、絵に対する思い入れの深さが、徳山組の組織力となって続いているわけだ。これは、本当にエネルギーのいる大変な継続だと尊敬する。

 会場を一回りして、30点くらいの絵を見てみた。僕は絵を描けないから、素人の単なる感性に頼った観方になる。



 すると、いろんな人の絵の中に、ある時期の親父の絵の片りんを発見することになった。あっ、これは、ユトリロに影響された時代に似ているとか、おう、これはルオーに親父が入れ込んでいた時代の匂いがするとか…

 親父の画風は、4~5年おきに変化していた。もともと戦前、キリスト教会の風景画が世間に認められていたようだ。今でも、アメリカ大使館近くの霊南坂教会に、親父の描いた絵が残っている。確かに観られるいい絵だ。

 しかし、その後、親父はユトリロの絵に出逢って、ショックを受けたようだ。親父が影響を受けた画家たちは、僕の知る限りでは、ユトリロ、佐伯雄三、ブラマンク、ルオーなどがいた気がする。しかし、結果として“西洋の真似をしていても日本の洋画は描けない”と、日本人の油絵と言う信念に傾いていったようだ。

 ある時は墨の線を思わせる抽象であったり、ブラマンクやルオーに似たマチエールの具象風景であったり、赤と黒の抽象画であったり、日本の亀甲紋の作品であったり、十二単の源氏物語を思わせる色きらびやかな女性の着物姿であったり、天平の瓦紋に影響されたと思われるパターンの絵だったり、はたまた、日本画の屏風のような松、梅、桜のような大作だったりと、ドンドン変化している。どれもが、親父が自分の独自の世界を求めてさすらった後だろうと思う。

 そうした、刹那の切り口が、お弟子さんの絵の中にポンと見えたのだ。ああ、この人はこの時代の親父を慕って今も絵を描いているんだ。この人は、亀甲紋だ。この人は、ルオーっぽい具象だ。この人は親父が十二単を描いていた頃に組に入ったのだと、自分では整理して見ることができた。親父の絵の、いろんな変遷の一つの断面として切りだしたような絵が、個々のお弟子さんの絵たちの中に見えたのだ。

 ああ、徳山組はこんな形で36年も営々と息づいているのだと納得した。楽しい、賑やかなグループ展だった。

 展覧会が終って、あるお弟子さんと話していたら、その人の奥さんが、久しぶりにその展覧会を見て、“徳山先生が生きていらしたころに比べると、緊張感が無くなっている”と評したようだ。お弟子さんの奥さんで、ご自分では絵をお描きにならない人だ。

 そのお弟子さんには相当なショックだったようだ。
 
 再来年に向けて、さらに自由な自分自身の絵を探し求めていってほしいと願っている。そして、36年間、よく頑張ってきたねとねぎらった。