キャロリン。の日記

いつも、熱く、楽しく、全速力で、生きること。

義父は所詮他人~父の死②

2019年05月26日 | 家族
ドロも抱えて、ごんたは遺伝子変異疾患
の上に、当然、双方の親は高齢化してきて介護の世界に入ってきている。

夫の父が、急激に不調なのである。
米寿を迎えても、元気に孫のドロのために、無農薬のお米や野菜を作ってくれてきたのに、僅か一か月も経たない間に動けなくなってしまった。

今後の疼痛対策をせねばになってきたと思い、いろいろ代替療法を提案するが、ダメ出しから始まって、その後も、言い訳が続いたり決断が付かないのである。


無理強いするわけにもいかない。

つくづく、田舎の無学な従順な人々の生き方を思う。

お医者様は神様です。みたいな感覚。

お医者さんにすべてを任せてお願いするという姿勢。

お医者様に嫌われたら生きていけない。くらいの下から顔色を窺う態度。

お医者さんにお金を積まねばいい治療がして貰えないという思い込み。

所詮他人だから、そういう考え方もありかも知れないと思う。

私は、一生懸命やったと思う。

最近、私は、自分で人間性に変化が出たと思う。
以前なら、いつも、いつも、真っ向直球勝負だった。

どうでもいいことは、譲れるが、どうしても自分の中心的な柱の部分で譲れないものは、決して譲らずに生きてきた。

そういう考え方や生き方に、ある意味で誇りを持っていたのだと、父が亡くなって初めて思った。

喧々諤々と議論して、意見が合わなくても、清清しい心の繋がりを感じていたのだと思う。


ここ最近、私は、とても、戸惑いがある。

お互いに意見を議論を交わしあうことをしてきた家庭や家族、ご近所や仲間の繋がりというのは、殆どないのだなあと痛感する。

少し、気に入らない、自分と意見を異にするとお付き合いしない。違う意見を議論しあうのではなくて力や権力やお金でねじ伏せる。

祖父母の時から、そして、父母、そこに集う人々のすばらしさを、今、あらためて痛感している。



そして、子供たちに私は、この家族代々受け継がれてきた宝を伝えられるのだろうか。


今日も、都会の空の下では乾いた熱風が吹いている。

ドロはナメクジになりながらも、昨夜からエアコン全開の中にいる。

今日は、息子と夫の免疫不全の会だったが、
私もこのところのハードスケジュールにぶっ倒れて欠席した。

そこもね、有り得ないようなこともあって、そんなに、気遣いすることないなって思ったの。

自分の子どもさえ良ければいいんだと思う。
協同って言葉は死語なのだと感じる今日この頃である。




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