信州に来たついでに洗車、ワックス掛け、さらにタイヤの交換をしたケパさん。
都会では、必要ないスタッドレスタイヤです。うるさいし燃費も悪く、ブレーキの距離も長くなるのです。かといってこれからの季節に田舎へ帰るには必要で、とくに2月末には白馬キャンプがありますし、冬場でもどこへでも行ける足の確保という安心感もあります。 いつまで自分で交換出来るかなと言いながら、でも人に任せるよりは自分で交換した方が、安心なんだそうです。
車のやりたかったこと全部できたな。と笑顔での帰り道でした。ドルカス
信州に来たついでに洗車、ワックス掛け、さらにタイヤの交換をしたケパさん。
都会では、必要ないスタッドレスタイヤです。うるさいし燃費も悪く、ブレーキの距離も長くなるのです。かといってこれからの季節に田舎へ帰るには必要で、とくに2月末には白馬キャンプがありますし、冬場でもどこへでも行ける足の確保という安心感もあります。 いつまで自分で交換出来るかなと言いながら、でも人に任せるよりは自分で交換した方が、安心なんだそうです。
車のやりたかったこと全部できたな。と笑顔での帰り道でした。ドルカス
身内なので法事に参加しなければならなかった。
僧侶の話は、基本的には皆同じである。たしかにすばらしい話をされる。たとえば長生きをすることが大切なのではない。「いかに生きているか」が大切である。まさにその通りである。次に、先祖がいたから今の自分があり、そのことへの報恩(感謝を返す)の日常の実践が大切である。う~ん、これはちょっと問題である。
なぜなら、先祖からの命の連鎖を尊ばせたいのだろうが、ただしいろいな親がおり、諸事情によって生まれてきた子もいる。また性の本能が人間にはある。ただ命の連鎖だけをやたら持ち上げても、ちょっと無理があるのである。人というものはそれより、「今の私はどうしてこのような肉体と資質と心を持たされて生まれているのか」、「このような家庭と国とに生まれさせられているのか」、その答えが知りたいのである。
最大の疑問は、わかりやすく言えば、すごく立派な自動車に乗せられて喜んだのだが、いつまでたっても車が走り出さないのである。なんとこの自動車にはエンジンがなかったのである。みな腹を立てて車から降りることだろう。仏教は立派な教えを言うが、乗ってみてもがっかりするのである。肝心なエンジンが、推進力がないのである。
これは私のまことに勝手な推論であり、どうか間違ったら許してい
ただきたいのだが、おそらく十字架がないので、人間の煩悩(原罪)からの救いが無いのではないか。すると輪廻を脱却し、仏への確信がいつまで経っても得られないのではないか。特にエンジンであるが、キリスト教では聖霊なる神が人間の内に住み、自分を神に明け渡す(聖霊の支配に委ねる)ことで罪と悪に神によって勝利する推進力が得られる。仏教にはそのような意味での霊がない。エンジンがないのではないか。ましてキリスト教では聖霊によって、私(あなた)が神によって創造された意味と目的すら教え、いのちに優る使命を与えてくれるのである。
だから救いの確信、エンジンのあるなしが仏教とキリスト教との根源的なちがいである。法事に出て、僧侶の法話を聞く都度、このことを強く思わさせられる。
ドルカスの母の追悼で、信州は上田に向かっている。碓氷峠を越えると、この写真が1番の晩秋風景に一変した。
いつになく秋が早いようだ。晩秋とはよく言ったもので、日が暮れて全て色を失うように、これらの景色は色がなくなる。
私たちにいつもメッセージして下さってた、マーリンさんのこの言葉。 「すべてのことを感謝しなさい。」
「マーリンさん、これから、どんな悪いことでも感謝していきます」と心を新たにされます。感謝は神様への、全面的信頼の証なのですから。
私達に、感謝と賛美を継承して下さったマーリンさんは、この11日天に凱旋されました。
「父はきっと天で喜んで跳ね回っているでしょう」と、そう娘さんが言われました。身の締まる思いです。 私たちにマーリンさんの信仰を継承する事を委ねられたからです。 ハレルヤ。 神様ありがとうございます。
ピーター・クボタのオススメ映画紹介で載っていた映画を本日、観た。
館内に入ってみると、本当に良質な映画にふさわしく・・・・席の取り放題~ガラガラに空いている・・・・状態だった。
この映画はほとんど実話で、大リーグに初めて黒人選手が登場した話だ。アメリカの国技とも言えるベースボールはアメリカ人の誇りであり、黒人がその中に初めて登場するとなると、まだ保守的な時代、特に南部などでは<激しい嫌悪・人種差別>を受け続けることになる。これはそれに屈せず、耐えがたい忍耐を積み重ね、真の勝利を得た映画化だ。これを切り開いた黒人大リーガーとして、ジャッキー・ロビンソン(写真中は実際の本人)は確かに歴史を変えた人物であろう。
「(どんな屈辱にも)やりかえさない勇気」=超人的な忍耐。それはいったい何の力があっての故だろう?と思わないではいられない。
この映画の真のテーマは「聖書」であると私は感じた。たとえば、対戦を拒否する相手球団オーナーに対し、ジャッキーのドジャース球団のオーナ-(ハリソ ン・フォード)は相手に、「やがて来る神の裁きの前に立った時、自分は黒人を差別しましたと言うがいい」とはねつける。この映画には随所に<神の前に人は平等である>という聖書の教えが見られる。あまり前面には出ていないが、クリスチャンであるジャッキー本人もまた同様に、「神の前では」という土台を持っての「対等」意識の所有者であったと推察する。
神の前に人は平等であり・自由であり・左の頬を打たれるなら右の頬を出せとするような博愛を強くアピールする思想あるいは宗教としては、キリスト教以外にないのではないか。豊臣、徳川の封建君主は、君主以上に神に従い、神の前に平等を信じるキリスト教徒に脅威を感じた。今日の世界は、たとえ信者で有る無しに関わらず、このキリスト教倫理に根ざした価値観を共有している。
【つけたし】
映画を観ていくにしたがい、球場で「ニグロ、猿は出てけ」と罵倒する白人の方が、どうしようもない愚かであわれな人間に感じられてくる。逆にジャッキーに手を差し伸べ、一人の同じ人間として接しようとする選手の方にプレーだけでなく、人間としても優れたプレーをしていると感じさせられてしまう。つまり偏見や差別を持つ人間とは、実は心が病んでいる者であることがわかる。
映画の中で、野球場でジャッキーを罵倒する父や周囲を見て、息子もいっしょに罵倒する群れに加わっていくシーンがあった。つまり享受している文化も病んでいることが多い。私のごく若い時分にもまだアメリカでは、レストランやバスに「White」と「Colored」という専用の出入り口があって、「いったい我々日本人はどちらを利用したら良いのだろうか?」と話し合ったことがあった。とうぜん有色相当なので面白くなかったのだが、一説によると日本人だけ特別待遇で「White」らしいという説明に喜んでいた自分が、今となっては情(なさけ)なく思い出す。 ケパ
月に一度は新宿での聖会が開催されるので車で出かけました。ヨーロッパ派遣から帰られたばかりのバウロ牧師のメッセージです。
力つよく、今年度の聖句から語られました。
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。 ピリピ4章4節
喜ぶことを決心します。 ハレルヤ
この聖会ではいつもゴスペルを聴いて恵まれ、さらに会衆賛美で賛美しての恵みがあるので!欠かせません。特に新しい「風のひびき」から賛美されますから ドルカス