ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

仏教との根本的違い

2013年11月22日 | 信仰

 身内なので法事に参加しなければならなかった。
 僧侶の話は、基本的には皆同じである。たしかにすばらしい話をされる。たとえば長生きをすることが大切なのではない。「いかに生きているか」が大切である。まさにその通りである。次に、先祖がいたから今の自分があり、そのことへの報恩(感謝を返す)の日常の実践が大切である。う~ん、これはちょっと問題である。
 なぜなら、先祖からの命の連鎖を尊ばせたいのだろうが、ただしいろいな親がおり、諸事情によって生まれてきた子もいる。また性の本能が人間にはある。ただ命の連鎖だけをやたら持ち上げても、ちょっと無理があるのである。人というものはそれより、「今の私はどうしてこのような肉体と資質と心を持たされて生まれているのか」、「このような家庭と国とに生まれさせられているのか」、その答えが知りたいのである。

 

 最大の疑問は、わかりやすく言えば、すごく立派な自動車に乗せられて喜んだのだが、いつまでたっても車が走り出さないのである。なんとこの自動車にはエンジンがなかったのである。みな腹を立てて車から降りることだろう。仏教は立派な教えを言うが、乗ってみてもがっかりするのである。肝心なエンジンが、推進力がないのである。

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 これは私のまことに勝手な推論であり、どうか間違ったら許してい

ただきたいのだが、おそらく十字架がないので、人間の煩悩(原罪)からの救いが無いのではないか。すると輪廻を脱却し、仏への確信がいつまで経っても得られないのではないか。特にエンジンであるが、キリスト教では聖霊なる神が人間の内に住み、自分を神に明け渡す(聖霊の支配に委ねる)ことで罪と悪に神によって勝利する推進力が得られる。仏教にはそのような意味での霊がない。エンジンがないのではないか。ましてキリスト教では聖霊によって、私(あなた)が神によって創造された意味と目的すら教え、いのちに優る使命を与えてくれるのである。

 

 だから救いの確信、エンジンのあるなしが仏教とキリスト教との根源的なちがいである。法事に出て、僧侶の法話を聞く都度、このことを強く思わさせられる。

 

コメント
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