ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

カンボジア写真集その4

2012年01月19日 | 派遣

カンボジア孤児院ツアーのシリーズは・・・いつまで続くのかな^^23
今回は孤児院建設の候補地へ行った時の写真。
プノンペン市郊外へ30分は車で移動したろうか。
中心地から想像もしてなかった風景。購入候補地の前にまっすぐに伸びた道はコンクリート舗装されていた。

購入予定の土地は4ヘクタール。
いまは、32名の孤児達はまだまだ発展途上の数。やがてさら24に多くの孤児を受 け入れるために必要な広さ建物。思う存分運動の出来るグランド。学校。教会。そして野菜など栽培する土地。子ども達に植物を育てることを学んで欲しいと。

土地購入に7000万。購入して一番にするのは盛り土して雨季Photo に備え、塀を建て、そして建物を建てるその費用に1億3000万合計2億必要なのだそ うです。 そのためのPR映像の撮影とインタビューに答える孤児院副理事と現地スタッフです。


NPO法人「礎の石孤児院」のHPで詳しく解ります。26_2
私にはため息の付く数字ですが、神様はこの必要も全てご存知ですから、必ず孤児院は建設されます。私たちはその場所に立ち何曲か賛美しました。
きっとこどもたちは広い庭でのびのび走ることが出来ます。27_2

女性牛飼いに連れられた牛たちの群れです。のどかです。
この道をやがて車が多く走るようになるのは間近でしょうか。

帰り道車で移動する途中では、放し飼いされたアヒルが小さな池に数百といたり(飼い主は木の下昼寝中)、広い達に牛たちが放牧されていたり、のんびり田舎風景でした。(ドルカス)

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スカイツリー

2012年01月18日 | 生活

 今年の5月22日にオープン予定の「東京スカイツリー」を間近に見る機会があった。場所は江東区の浄水場屋上のテニスコートからである。写真で見る通りほぼ完成しており、最終的な高さは634mになるそうだ。写真はプレー後に一枚パチリ、と撮った。Photo

 東京タワーが338mだから、大体倍の高さになる。東京タワーがいかにもタワーらしき四隅からがっちり鉄骨で作られているのに、こちらは名前の通り、棒が立っている感じである。200m級の超高層ビル(因みに都庁が243m)が林立しても、まったく問題にならない高さである。しかし世界にはもっとすごいビルがあって、なんと828mのビル「ブルジュ・ハイファ」がドバイに完成するそうだ。124階もあるそうだから、すごい。 

 ただこんなビルでエレベーターが止まったらどうなるのだろう。この前の地震で10階の教会オフィスに上がるのも「ヒイヒイ」言った人がいた。その10倍以上だ。たぶん着いた頃には、膝が笑って歩けなくなっているだろう。つまり高層難民が発生し、救出がそうとう困難になるだろう。 (雲の上にはまだ使命が残っているケパ)

 

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名前

2012年01月18日 | 派遣

 一昔前に流行った歌でゴダイゴの「名前、それは燃える命」というのがあった。
 実はこの度、カンボジアの孤児院ツアーに参加して、皆が一番苦戦したのは、この名前だった。「礎の石カンボジアの孤児院の子どもたち」と言えば、それで32名の全員を言ったことになるかもしれない。しかし、そうであればこそ、集団の中の子どもたちは、一人一人を一個の人間として認識してくれる「名前」にこだわる。

 実はわたしは田舎育ちなのに、ありあまる自然の中でまったく植物には関心が無かった。だから花の時期を過ぎたら、桜と梅の区別がつかなかった。植物だけでない、鳥もカラスとスズメぐらいしか分からない。けれども動物には関心があったから、イタチやムササビなど結構わかっていた。名前はその人の関心に比例する。孤児の名前をきちんと覚えることは、何よりも関心のレベルを表し、一人一人を愛していることのスタートになる。これが実は大変だった。
 何回か孤児院で会うと、子どもたちは「わたしの名前は?」と先ず覚えてくれていたか、聞いてくる。私たちが的確に名前を言えないと、明らかにちょっと落胆し、そしてめげずに熱心に教えてくれる。名前を覚えてもらえることは、オーバーに言えば、集団の中で埋没するか、相手の中に生きていけるかの死活問題なのだ。

 実は小学校の教師を30年していて、わたしは担任する子どもたちの名前を覚えるのが苦手な教師だった。4月6日の初顔合わせはそれで良いかも知れないが、次日以降はそうはいかない。子どもの方は「担任は中村先生」の一言ですむが、わたしは30数名を一時に覚えなくてはならない。苦手ではすまないので、努力をした。つまりあんちょこを作って、それをいつも教卓や教師机の上に貼っていた。初日に担任する子どもを一人一人、ブロマイド風に写真を撮る。すぐにその写真に名前を書いたカードを作って貼るのだった。そして英単語風に覚える努力をする。

 カンボジアの孤児院の子どもたちの名前には2種類ある。一つはクリスチャンネームだ。「ティモテ」とか「ヨシュア」とかがこれに当たる。もう一つはカンボジア人の名前だ。「ビスナ-」とか「キィアン」などがこれにあたる。日本では考えられないかも知れないが、クリスチャンネームの子どもは、孤児院に引き取られた時に、本名がわからなかった子ども(カンボジアではまだ戸籍制度が確立していない)。分かっていれば、もちろん、その名を変えることはしない。私たちが覚えるのに苦戦したのは、カンボジアの名前だ。発音が違うので、「ビスナ-」なのか「ヴィスナ」なのかそれぞれの聞く耳によって異なって聞こえる。「キィアン」も「キャン」に聞こえたり、「キーアン」に聞こえたりする。Coc

 それで前職の経験を生かし、帰国してからだが、子どもたちの集合顔写真に、全員の名前を入れ込んだものを作って覚えている。これがまた、すごく大変だった。なにしろ唯一のコミュニケーションが、お互いにとって外国語である英語。参加した何人かの人に聞いても、前述のように微妙に名前が違う。おまけに控えめな子やほとんど表に出てこなかった子もいて、うろ覚えの私にはお手上げだった。それでSOSをあげ、、何人かの人に助けてもらい、苦節10日あまり、ようやくできたのでした。

 苦労のし甲斐もあって、わが家に大きく貼ったこの写真を見上げながら、次回カンボジアの孤児院を訪問する機会には、子どもたちの名前をきちんと呼んであげられそうな気がしてくる。それが、名前が無かった孤児の子どもたちに対しての、何より愛と関心の出発点だと思うのだった。 (ケパ)

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カンボジア写真集その3

2012年01月16日 | 派遣

日曜日はなかなかblogを更新時間が無く、また抜いてしまいました。そこで
今日はまたまた孤児院の写真をたくさん載せることにします。

まずは一枚目、孤児院で、子ども達がスクール行った留守の時間に子ども達の部屋を案内してもらいました。慌てて掃除した子もいるとか・・・何処も一緒です。14



 

まず男の子の部屋。2段ベットのそれぞれのスペースは、それぞれきちんとしています。15






そして、この日は殆どの子ども達が通うスクールへ見学です。16
校長室で、校長先生、副校長先生とお会いしました。
ミッションスクールです。もちろん多くの教師はクリスチャン 。



最初に行ったのはソティアの幼稚園クラス訪問。18 さすが広い部屋で、子ども達が安全に過ごせそうな部屋。
映像班はどんどん中まで入って撮影してます。手前の人影は映像班のDスタッフ^^。



幼稚園から12年生まで一貫しています。17_2
以前は大きなホテルだったそうで、教室を巡る時、中庭があったり、小さな部屋があったりします。



そして小学生クラス。副校長が自ら、案内してくださり10
すべての孤児達のクラスを案内してくださいました。





大きな子達のクラスも入ります。20_3
ケパさんが日本ではここまで入れてくれないよ。といいます。  




知らん顔して集中する子、21照れくさそうに笑う子、隠れてしまう子、元気になってはしゃぐ子と、私たちはいろいろな顔を見ることが出来ました。



こうして1時間程、ゆっくりと構内を子ども達の教室を見せてくださった22校長、副校長に、感謝しました。最後の写真は、教室前の広い空間      (ドルカス)


 




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飼い主は ミタ! ネコの八つ当たり

2012年01月14日 | ネコのコールと‥‥

 わが家の洗面所の奥は、お風呂であるPhoto_2。 どういうわPhotoけか、コールがお風呂の空の湯船に入って、じっと一個所を見ていることが多い。湯が出てくるのか、何が出てくるのかが分からない一個所をじっと。どうもそれが興味あるらしいと推測している。
 しかしまだ湯を抜いてすぐとか、コールを入れるとモップ状態になってしまう時には入れられない。それでひげを剃りながら、戸を開けてやらないでいると、ミタ、見たぞ!思う通りにならないで頭に来たらしいコールが、そばにあった入浴剤の箱(明礬の花)を前足でパンチして倒し(証拠写真)、さっさと出て行ったところを。

 う~ん、ネコでも八つ当たりするのか! (もう一枚の写真は「それがどうした」風のコール) (ケパ)

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カンボジア写真集その2

2012年01月12日 | 派遣

子ども達の様子。まずは小さな子達のランチタイムから・・・^^Photo_2

 




ピンクのシューズラック。思わずシャッターを押してしまう。8






スクールからみんなが帰ってきました。9 カンボジア風の挨拶!






ちょっと離れて様子を見る。実はキーボードに興味津々です。

10

 






大きな男の子達はバレーボール。もっと広い場所がほしいね11_2





洗濯は、それぞれが手洗いします。ためない事がこつみたい!13





なかよし3兄妹!  オークン (クメール語でありがとう)12

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カンボジアの悲劇から学ぶ

2012年01月11日 | 派遣

どうしてカンボジアという国が、こうもやすやすと幼稚な思考、殺戮と保身の化け者に乗っ取られてしまったのか・・・を考えてみた。

1972_norodom_sihanouk_2

◯シアヌークという男
 ポルポトの時代の前後、この男はこの国の国王だった。原因の第一に、この男の存在があったとわたしは見ている。我が身の保身だけを考えて、まったく貞操が無い人物としか言いようがない。そのためには悪魔とだって手を結んだ男である。
 ベトナム戦争時には、国王でありながら、なんと共産主義の北ベトナムに加担し、ホー・チ・ミンルートという、北ベトナム軍支援のために国の東半分近い自国自由通過を許した。(下の地図はホー・チー・ミンルートによる侵攻図。矢印が無いが、カンボジア国内を自由に通って侵攻していたことがわかる。)

 敵の補給ルートを叩きたいアメリカ軍の介入を招き、空爆による大量の難民、農村の困窮を招いた。ポルポト派はこの農民難民を軍に徴用して急速に勢力を拡大できた。おまけにシアヌークはポルポトの赤色クメール軍と同盟したから、国民は抵抗なく王室のお墨付きであるポルポト軍に加われた。

○世界のマスコミが沈黙した

 ツールスレィンでの資料によると、初期の段階での被害者はカンボジア人以外に、ほとんどのベトナム人、中国人などの他に7,8名のジャーナリストらしき白人が確認さPhoto_3れている。最後までプノンペンに留まった人たちは、たちまちの内に処刑されて誰一人、真実を伝える報道の使命を果たせなかった。世界はなにがこの国で行われているのか、目と耳を断たれた。

 また性の悪いことに、特に当時のマスコミは左がかっていて、A新聞など、サイゴン陥落の瞬間まで、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)が実在しているように報道し続けた。実は北ベトナム正規軍の仮装であったのだが。今でも似たような偏向報道が多いが、マスコミはずっと共産主義のサタン性に愚かしくもすりより、その犯罪には耳を閉ざし続けてきた。このポルポトの赤色クメールに対しても、そういう意味では、マスコミは沈黙し、報道しないという荷担をしたのだった。

○わたしたちとアメリカの責任

 ロン・ノルを擁してシアヌークを追放したのはアメリカである。ベトナムであれだけ戦ったのに、カンボジアでは負け犬よろしくスタコラサッサと逃げ出してしまった。ちょっと羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹き過ぎではないか。Photo_2

 また知らなかったとはいえ、その当時の同じ空気を吸っていたわたしたちにも、責任がある。無関心さという過ちである。そしてまた、カンボジアの悲劇から、政治に常に関心を持って行かねばならないことを学ぶ。権力をねらう人たちがどのような人物で、言っていることとやっていることが実際、どうなのか?

 終末の時代は、サタンが盗人のようにして世界を支配すると聖書は警告している。神の言葉は成就するが、わたしたちは聖書に従って賢く対処しなければならない。カンボジアの悲劇はそのことの教訓である。 (ケパ)

 

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カンボジアの悲劇

2012年01月09日 | 派遣

 この度のツアーで、最後に新しく分かったことを報告したい。ただし大変長いので、お急ぎの方は飛ばし読みでも、パスでも構いません。

Photo

○はじめに

 この前私の船橋キリスト教会での雑談の中、「何が一番恐ろしいか?」と言う話題になった。「ヘビ」とか「ゴキブリ(^O^)」とかが挙げられたが、結局「人が一番怖い」ということでみんな納得した。確かに・・・・人なのである。カンボジアで起こった160万とも200万ともいう同国人を虐殺した悲劇は、如実にそれを物語る。国民の4人の内1人という犠牲者を出した「カンボジアの悲劇」は、実はあまり知られていない。これは私が20代後半に起こった、新しい出来事にも関わらず・・・・。

○ツールスレィンまでの道

 特に前回ツールスレィン(もとフランス式の中・高等学校・・・・リセという。多くの人がここで尋問され、処刑され、またキリングフィールドへここから連行されて殺された)やキリングフィールド(元中国人墓地で殺人畑となった・・・・今はチュン・エク村のキリングフィールド、あるいは単にチュン・エクと呼ぶ)を見て分からなかったことがあった。それはポルポト軍(KR=クメールルージュ)がプノンペンの街を占領して以降の、ツールスレィンに至るまで人々の、死への旅路だった。

 

○二十数年前の、悲劇のはじまり

 1975年4月、市民の歓呼の中、不気味に押し黙った全身黒服(※全くの個人的な感覚だが、最近の美容師さんや料理人の黒ずくめ作業姿に、ポルポト軍を連想してぞっとする時がある)Photo_5 のポルポト軍はプノンペンに入る。そして市民全てはただちに、二日以内にプノンペンからカンボジア辺境のいろんな農村への移動が命じられる。例外は一切なかった。病院の入院患者は点滴瓶をぶら下げながら、新生児の母はその子を抱きながら、お年寄りは杖をつきながらすべて徒歩での実に過酷な旅をすることになった。もちろん、食料もなく着の身着のままで歩き続ける旅だから、多くの人が死んだ。(右地図はプノンペンを主とする都市住民が、カンボジア各地に強制退去させられた方向を表している)

 ろくに道具も肥料も技術も無いのに、ポルポトはこれまでの3倍の食料の大増産を命令した。絶対の命令の下、せっかくできた米も、3倍には足りるはずもなく、全量供出するので人々は食べるものが無くやせ衰えて、多くの人が死んだ。ポルポトは都市をブルジョワ文化の源として否定、知識や科学を否定し、10代の子どもが指導者では大増産ができるはずもなく、まったくの狂気の沙汰である。しかしそれが現実だった。

 

○一国の権力を握った、ポルポトという人物

Photo_2

 ポルポトという人物は、地方の自作農家出身でフランス留学の経験者だったが、インテリをひどく憎んでいた。なにしろ自身がインテリになりきれなかった。せっかくフランスへの留学というチャンスをつかみながら、留学中3回も落第して帰国せざるをえなかったし(その間共産党に入った)、共産党指導者に衣替えしたポルポトにとって、人々を自分に盲目的に従わせようとする時、その拙劣な思想を容易に批判できるインテリは、最大の敵であった。ただ権力を握る力だけはあったようである。異常な男だけに自分の非道が分かっていたのか、とにかく敵になりそうな存在は先制攻撃、理由もなにもなしに、ただその恐れだけで殺しまくっていった。もちろん最後は自分の親族まで。

 彼の理論は幼い子どもの描く理想画のようなもので、毛沢東の紅衛兵と同じく、「とにかくあらゆる既成のものをなくせば、革命的で良くなる」と考えていたようである。だからあらゆる書物、教師や公務員、インテリ、特に自身と同じ留学経験者など国の土台となる人々を憎み抹殺しようとした。しかも根絶やしにする皆殺しである。なぜか。復讐を恐れ、たとえ幼子でも成長して自分たちに復讐するかも知れないので、家族、一族を全員、根こそぎ殺すことにした。その残虐なことは大人にはできないので、ポルポト派兵士には、まだ13歳ぐらいの十代前半の子どもたちを徹底的に洗脳して行なった。判断力のない子どもを使うのは、紅衛兵でも、あるいはスターリンでも同じで、共産主義独裁者が行うパターンだ。(写真下はこの当時のポルポト派兵士)

○ツールスレィンに送られた人々

 じきに農村で百姓させられていた元都会の人々にお触れが回った。「新しい国作りに、教育を受けた者たちの力が必要であることがわかった。今までの罪は許すので名乗り出るように。」こうして続々名乗り出た知識階級の人々は、集められてその場で処刑されるか、Photo_4または次々にトラックに乗せられてプノンペン市に送られた。行き先はプノンペンのツールスレィンに向けて・・・・・・・・。ツールスレィンだけでも二万人が収容されたが、生存できた人は6人だけだった。ポルポト派は記録に熱心だったので、その人々の死の直前の写真や自白文を今日でも見ることができる。

 この時代、人々は文字が読めただけでもインテリと見なされ殺されたので、みな必死に文盲をよそおい、文字に目を向け読んだりラジオに耳を傾けたりするような真似は、即、命取りになった。自国の文化文明が、同じ自国人によって徹底的に抹殺されたのである。だからその傷跡は深く、カンボジアは現在でもあらゆる面で浮上できない。法整備、教育整備、公衆道徳、職業倫理など、あらゆる土台を自ら捨て去ってしまった。7年前この国の教育関係を視察する機会があったが、ようやく教科書を作りつつあった。そんな段階である。

 長年小学校の国語の教科書に掲載されたドーデ作「最後の授業」という小説がある。そこで、最後にアメル先生がフランス語がいかに美しい言葉であるかを切々と訴え、「ある民族が奴隷になっても、その国語を保っている限りは牢獄の鍵を握っているようなもの。フランス語を忘れてはならない」と話して聞かせる。しかしこの国ではまったく反対に、自国の文化と言葉を、徹底的な殺戮を持って抹殺しようとしたのである。カンボジア人のポルポトという男と、赤色クメールという共産主義思想が。深い傷というより、これはもう、過去の無い国に、赤ちゃんの国になったとしか言いようがない。

○人類に希望は・・・・ある。Cji08

 これは今生きているわたしたちの時代に行われた紛れもない事実である。同じ国民に対してどうしてこのような殺戮ができるのか理解に苦しむが、人にサタンが入れば充分に可能だ。確かに一番恐ろしいのは人である。しかし神はその人のために、ご自身の独り子を世に送られ、十字架に架けてまで愛された(ヨハネ3:16)。神の愛も人に注がれている。ここに希望がある。  (ケパ)

資料:

http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_8_d.html

http://www.frontline.org.za/articles/blackbook_communism.htm

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カンボジア写真集その1

2012年01月09日 | 派遣

成田空港。カンボジアへ出発です。Photo_2






機内食。昼食ですが
器がかわいいです。タイ航空カラーPhoto_3





タイ到着。洪水災害の影響で、海と地の境が無い3





バンコクでのトランジットは1時間40分。ここで関空組と合流4






プノンペンへはこれで行きます5_2  






プノンペン着
19:45。東京との時差2時間。 現地スタッフが迎えてくれました。すでに21;00頃。
6


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インタビュー

2012年01月07日 | 派遣

インタビュー
写真は映像チームからインタビューをうける、孤児院スタッフのルツさん。バックは購入候補地です。広大な土地です。ここに多くの子供達が生活し、野菜や果物を作る。と想像してしまいます。・・・1月5日・・・

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