ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

カンボジアの悲劇

2012年01月09日 | 派遣

 この度のツアーで、最後に新しく分かったことを報告したい。ただし大変長いので、お急ぎの方は飛ばし読みでも、パスでも構いません。

Photo

○はじめに

 この前私の船橋キリスト教会での雑談の中、「何が一番恐ろしいか?」と言う話題になった。「ヘビ」とか「ゴキブリ(^O^)」とかが挙げられたが、結局「人が一番怖い」ということでみんな納得した。確かに・・・・人なのである。カンボジアで起こった160万とも200万ともいう同国人を虐殺した悲劇は、如実にそれを物語る。国民の4人の内1人という犠牲者を出した「カンボジアの悲劇」は、実はあまり知られていない。これは私が20代後半に起こった、新しい出来事にも関わらず・・・・。

○ツールスレィンまでの道

 特に前回ツールスレィン(もとフランス式の中・高等学校・・・・リセという。多くの人がここで尋問され、処刑され、またキリングフィールドへここから連行されて殺された)やキリングフィールド(元中国人墓地で殺人畑となった・・・・今はチュン・エク村のキリングフィールド、あるいは単にチュン・エクと呼ぶ)を見て分からなかったことがあった。それはポルポト軍(KR=クメールルージュ)がプノンペンの街を占領して以降の、ツールスレィンに至るまで人々の、死への旅路だった。

 

○二十数年前の、悲劇のはじまり

 1975年4月、市民の歓呼の中、不気味に押し黙った全身黒服(※全くの個人的な感覚だが、最近の美容師さんや料理人の黒ずくめ作業姿に、ポルポト軍を連想してぞっとする時がある)Photo_5 のポルポト軍はプノンペンに入る。そして市民全てはただちに、二日以内にプノンペンからカンボジア辺境のいろんな農村への移動が命じられる。例外は一切なかった。病院の入院患者は点滴瓶をぶら下げながら、新生児の母はその子を抱きながら、お年寄りは杖をつきながらすべて徒歩での実に過酷な旅をすることになった。もちろん、食料もなく着の身着のままで歩き続ける旅だから、多くの人が死んだ。(右地図はプノンペンを主とする都市住民が、カンボジア各地に強制退去させられた方向を表している)

 ろくに道具も肥料も技術も無いのに、ポルポトはこれまでの3倍の食料の大増産を命令した。絶対の命令の下、せっかくできた米も、3倍には足りるはずもなく、全量供出するので人々は食べるものが無くやせ衰えて、多くの人が死んだ。ポルポトは都市をブルジョワ文化の源として否定、知識や科学を否定し、10代の子どもが指導者では大増産ができるはずもなく、まったくの狂気の沙汰である。しかしそれが現実だった。

 

○一国の権力を握った、ポルポトという人物

Photo_2

 ポルポトという人物は、地方の自作農家出身でフランス留学の経験者だったが、インテリをひどく憎んでいた。なにしろ自身がインテリになりきれなかった。せっかくフランスへの留学というチャンスをつかみながら、留学中3回も落第して帰国せざるをえなかったし(その間共産党に入った)、共産党指導者に衣替えしたポルポトにとって、人々を自分に盲目的に従わせようとする時、その拙劣な思想を容易に批判できるインテリは、最大の敵であった。ただ権力を握る力だけはあったようである。異常な男だけに自分の非道が分かっていたのか、とにかく敵になりそうな存在は先制攻撃、理由もなにもなしに、ただその恐れだけで殺しまくっていった。もちろん最後は自分の親族まで。

 彼の理論は幼い子どもの描く理想画のようなもので、毛沢東の紅衛兵と同じく、「とにかくあらゆる既成のものをなくせば、革命的で良くなる」と考えていたようである。だからあらゆる書物、教師や公務員、インテリ、特に自身と同じ留学経験者など国の土台となる人々を憎み抹殺しようとした。しかも根絶やしにする皆殺しである。なぜか。復讐を恐れ、たとえ幼子でも成長して自分たちに復讐するかも知れないので、家族、一族を全員、根こそぎ殺すことにした。その残虐なことは大人にはできないので、ポルポト派兵士には、まだ13歳ぐらいの十代前半の子どもたちを徹底的に洗脳して行なった。判断力のない子どもを使うのは、紅衛兵でも、あるいはスターリンでも同じで、共産主義独裁者が行うパターンだ。(写真下はこの当時のポルポト派兵士)

○ツールスレィンに送られた人々

 じきに農村で百姓させられていた元都会の人々にお触れが回った。「新しい国作りに、教育を受けた者たちの力が必要であることがわかった。今までの罪は許すので名乗り出るように。」こうして続々名乗り出た知識階級の人々は、集められてその場で処刑されるか、Photo_4または次々にトラックに乗せられてプノンペン市に送られた。行き先はプノンペンのツールスレィンに向けて・・・・・・・・。ツールスレィンだけでも二万人が収容されたが、生存できた人は6人だけだった。ポルポト派は記録に熱心だったので、その人々の死の直前の写真や自白文を今日でも見ることができる。

 この時代、人々は文字が読めただけでもインテリと見なされ殺されたので、みな必死に文盲をよそおい、文字に目を向け読んだりラジオに耳を傾けたりするような真似は、即、命取りになった。自国の文化文明が、同じ自国人によって徹底的に抹殺されたのである。だからその傷跡は深く、カンボジアは現在でもあらゆる面で浮上できない。法整備、教育整備、公衆道徳、職業倫理など、あらゆる土台を自ら捨て去ってしまった。7年前この国の教育関係を視察する機会があったが、ようやく教科書を作りつつあった。そんな段階である。

 長年小学校の国語の教科書に掲載されたドーデ作「最後の授業」という小説がある。そこで、最後にアメル先生がフランス語がいかに美しい言葉であるかを切々と訴え、「ある民族が奴隷になっても、その国語を保っている限りは牢獄の鍵を握っているようなもの。フランス語を忘れてはならない」と話して聞かせる。しかしこの国ではまったく反対に、自国の文化と言葉を、徹底的な殺戮を持って抹殺しようとしたのである。カンボジア人のポルポトという男と、赤色クメールという共産主義思想が。深い傷というより、これはもう、過去の無い国に、赤ちゃんの国になったとしか言いようがない。

○人類に希望は・・・・ある。Cji08

 これは今生きているわたしたちの時代に行われた紛れもない事実である。同じ国民に対してどうしてこのような殺戮ができるのか理解に苦しむが、人にサタンが入れば充分に可能だ。確かに一番恐ろしいのは人である。しかし神はその人のために、ご自身の独り子を世に送られ、十字架に架けてまで愛された(ヨハネ3:16)。神の愛も人に注がれている。ここに希望がある。  (ケパ)

資料:

http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_8_d.html

http://www.frontline.org.za/articles/blackbook_communism.htm

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カンボジア写真集その1

2012年01月09日 | 派遣

成田空港。カンボジアへ出発です。Photo_2






機内食。昼食ですが
器がかわいいです。タイ航空カラーPhoto_3





タイ到着。洪水災害の影響で、海と地の境が無い3





バンコクでのトランジットは1時間40分。ここで関空組と合流4






プノンペンへはこれで行きます5_2  






プノンペン着
19:45。東京との時差2時間。 現地スタッフが迎えてくれました。すでに21;00頃。
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