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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

神のものとされる「星の受領印」

2019年01月31日 | 証し


ちょうど今から16年前の証をさせてほしい。50歳を過ぎたわたしは不惑どころか、信仰から初めて離れかけ、大いに迷っていた。その悔い改めによって神さまに触れていただいたこたは以前に証した。神を体験したことで人生がコペルニクス的転換をした、その直後のことである。まだ聖霊のバプテスマは受けていなかった。

その前に理解しておきたいことは、霊的な存在はこの世に三つあって、それは神、天使、人間である。サタンは堕天使とも言われるように堕落して神に逆らうようになった元天使である。私たち人間も滅ぶべき肉体を持ってはいるが、霊的な存在であり、肉体の命と言う限定された時間内に、神かサタンのどちらか一方に所属を選択する存在である。当然とはいえ人は原罪を背負っており、十字架によって罪が赦されなければ、罪が裁かれてサタンの道連れになってしまう。サタンが巧妙なのは、罪を自覚させないように、救いの必要を感じさせないように働くことである。


だからたとえ信仰を持ったクリスチャンでも、天国には行けても、新生がなければ(自分のことを振り返っても)世の人と変わらない。だから救いの確信を持てないでサタンの攻撃を受け続けることになる。つまり聖霊が居られながら、主とされていないので、勝利しているのにその確信が持てないわけだ。この典型例はペンテコステ前の弟子たちであり、イエス様を訪れて「永遠のいのちを得るには」と問うた「富める若人」である。新生しなければいつまでもそうなのだ。

私は神さまに触れていただいて、野壺の肥だめの中の自分、蛆虫とともに腐っていく自分がわかった。と同時に神の愛もわかったので、五十過ぎの男は泣いて喜んだ。他に何の希望があるだろうか。次に来た思いは、「何とかして神さまのものとしていただきたい」だった。つまり身を焦がすような献身の願いが湧いた。それが叶わなければ、生きていても意味がないとさえ思った。その熱心な祈りをしよう、その時この事が起こった。


2月のひどく寒い夜だった。お風呂から上がったまま、どうしても大声でこのことを祈りたくて、服だけを着て外へ飛び出した。飛び出してみると外は驚くほどの月明かりで星が瞬(またた)いていた。異様に明るいのである。近くの河原目指して歩いていると、洗髪した髪が凍っていく感じがした。この時期にしては雪がなく、広い河原に着くと、私は堤防の上からはばかることなく大声で叫んで告白した。

「神さまぁ、この私をあなたに捧げますぅ~。どうぞあなたのものにしてください。私はそれが一番の、何よりもの希望です~ぅ。」そう、何度叫んだだろうか。もしかして人が聞けば、警察か病院へ通報されたかも知れない。
喉が枯れそうなほどの声で思いの丈叫んだ私は、川から自宅の方へ向きを変え、帰りながら最後もう一度と「こんな(罪深い愚かな)私ですが、どうか主よ、あなたが受け取ってください」と今度は叫ぶのではなく、確かな道を言葉で言いつつ帰りかけた。言い終わるか終わらないかの内に突然、背後に大きな光を感じた。びっくりして振り返って見ると、叫んでいた川向こうの南の空に、見たこともない大きな一つの流れ星があって、東の山へと落ちて行っているではないか。

なにしろ辺りを明るくさせるほどの大きな流れ星である。呆気にとられていた。そしてすぐにこれは神さまからの返事で、「よし、受け取ったぞ」というサイン、受領印だとわかった。
これがどんなにか嬉しかったことか。自分が神さまのものとされたと言う確信は、献身への土台となっただけでなく、以後霊的にも神さまから守られるようになった。後から考えるとこれは当然なことで、真の牧者はご自分の羊を守られるのだ。

具体的には悪夢や欲望から解放され、悪霊に対し、侮りはしないが恐れることもなくなった。これらは神の陣営に属するものとして所属がはっきりしている恵みでもある。どの囲いの中に居るか、それが問題であった。神の所有される羊とされることが、どんなに素晴らしい感謝であるか、言うまでもない。


ケパ



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