ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

罪深さを知る者、それは恵みであること

2018年01月30日 | 信仰
宗教心というものは、人が自分の罪性を認識しているかどうかにあることを痛感する。これは教えられず、学べないことで、神の遺伝子である。

私が二十代の青年教師だったころのこと、 保護者との懇談会の席上で、ひとりの父親が次のように言った言葉を忘れることができない。曰く、「子どもは汚れない心を持った天使だと私は思っています」と。これを聞いて、その場にいた私を含め、ほとんどの母親たちは口をポカーンとして、この人に返す言葉がなかった。
後で私は思ったものだ。このお父さんは遅くまで仕事をしている猛烈社員で、帰りが遅く、休日だってろくに子どもと付き合っていないのだろう。それで子どものことを何にも知らないのだろう、と。もっとも今はそれだけの理解ではないが。

私は小学校で長年担任をしていたが、新しく受け持つと、いつも子どもたちに聞くことがあった。「ねぇみんな、ひとつだけ先生だけに教えてください。それで顔を伏せて手だけを上げてほしい。自分のことをどう思っていますか?嘘を言わず、友達を大切に思える良い子だと思いますが?それとも、そうではありませんか?どっちかに手を上げてくれますか」と。

教職在任中、私は千人近く担任したはずだが、私の記憶に残る限り、低・中学年に関しては良い子に手をあげる子どもはほとんどいなかった。つまりほとんどの子どもは自分を知っているのだ。それが成長し、大人になるにしたがって、周囲と自分とを比べ相対化して「良い子」だと答える子がチラホラ増えてくる。そして大人になると、ほとんどが「この社会で法的な罪を犯していない自分は良い人間(市民)」だと肯定的に認識していくのではなかろうか。すっごい誤解である。このように自分の罪を知らないまま命を失った人は、そのまま地獄(ハデス)に落ちて行くのである。

人間性を信じ、ユートピアをつくろうとした共産主義は、人民の代表である一党独裁体制を敷いた。それがどれほど悲惨で高い代償を払わされなければならないかは、歴史と現実の国家を見れば論を待たない。資本主義は人の罪深さを前提にして、権力を分散し、互いに牽制させる。当初はどんなに良くても、結局人は罪深い存在であるという認識が土台にあるからである。これが人類の歴史である。

人間の罪深さには原因がある。大昔、人類の祖であるアダムとエバが知恵の木の実を取って食べたために、罪が人類に入ってしまった。聖書でいう罪とは、世的法的な罪ではない。神が「食べてはいけない」と命じられていたはずのものに対し、聞き従わなかったという一点から始まった罪(原罪)である。人は神より自分の判断を信じ、神のようになろうとした、これが罪である。

この原罪に対しては唯一解決法がある。原罪なので、人はどうしても救われない。そこで神はひとり子イエス・キリストを世に遣わされて、まったく無実の状態で十字架上で人類の罪を背負わせ処刑させられた。これは人類を造った存在による人間に対しての身代わり救済であった。十字架は私の罪のためで、私の罪の贖いを神ご自身がしてくださった。そう信じ告白するだけで、人は罪を赦され、罪無き者だけが行かれる天国(天のエルサレム)に行くことができるのである。




ケパ




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