近所に船橋大神宮と言う、比較的大きめのお宮がある。元旦の日の夕方、家に帰ろうとしてその前を通りかかって驚いた。大勢の人が境内に入ろうとずらっと並んでいるだけでなく、駐車場待ちの車の大渋滞で、なかなか我が家に着けなかった。(下の写真は本文とは関係ありません)

普段は全くこんなのを見かけない所なので、これまで同種のものを見るたび、日本人とは年中行事時になると宗教心のスイッチが入るのかな? と思っていた。がしかし最近はそうでなく、これこそ偶像崇拝の極み、と思うようになった。
もちろん皆、神仏に祈願しに行くのだが、要するにそれは自分の願いや望みを、神仏をも使って何としてでも叶えさせるためなのだ。あるいはもっと漠然としていて、自分の不安を解消させようとしたり、何らかの合力を神仏から得ようと。そう、あくまで自分のために。
己自身が神という偶像になっていること、そのことに偶像崇拝が染みついている日本人は気づけない。ただし、無神論国家のこの国ではそれが当たり前であって、かく言う私の方がおかしい存在である。
手前味噌で恐縮するのだが、キリスト教は、その偶像崇拝を禁じる(最下の御言葉を参照)。十字架を信じた人とは、己の罪深さに芯から絶望し、罪の身代わり、十字架の救いの恵みにあずかった人である。キリストによって罪が贖われ、神から新たないのち、永遠のいのちを与えられた人たちでもある。
神ご自身が私を命を捨てて愛してくださった。だからその神の愛に応えたいと願い、自分の取るに足りない願いより、ただ神の御心だけを行いたいのである。自ら進んで神の僕として生きるクリスチャンは、まず神の御心を行おうとする。確かに自分の願いもするが、それが神の御心ならば、という大前提がある。神は最も私を愛してくださっており、御心が最善であることは体験を通してもよくわかっている。

それがあるのと無いのとでは、偶像崇拝であるか否かの大違いにもなる。クリスチャンは祈って、たとえ願いが叶わなかったとしても、むしろ神の計画は自分の願っていることよりもさらに最良の結果が用意されていると、かえってそれを喜ぶのだ。たとえ現状が最悪の結果であろうとも。これを信仰と言う。(モーセ・ウィキペディアより)
✝️子どもたちよ、偶像を警戒しなさい(1ヨハネ5:21)
Dear children, keep yourselves from idols.
✝️あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出エジプト20:3)

普段は全くこんなのを見かけない所なので、これまで同種のものを見るたび、日本人とは年中行事時になると宗教心のスイッチが入るのかな? と思っていた。がしかし最近はそうでなく、これこそ偶像崇拝の極み、と思うようになった。
もちろん皆、神仏に祈願しに行くのだが、要するにそれは自分の願いや望みを、神仏をも使って何としてでも叶えさせるためなのだ。あるいはもっと漠然としていて、自分の不安を解消させようとしたり、何らかの合力を神仏から得ようと。そう、あくまで自分のために。
己自身が神という偶像になっていること、そのことに偶像崇拝が染みついている日本人は気づけない。ただし、無神論国家のこの国ではそれが当たり前であって、かく言う私の方がおかしい存在である。
手前味噌で恐縮するのだが、キリスト教は、その偶像崇拝を禁じる(最下の御言葉を参照)。十字架を信じた人とは、己の罪深さに芯から絶望し、罪の身代わり、十字架の救いの恵みにあずかった人である。キリストによって罪が贖われ、神から新たないのち、永遠のいのちを与えられた人たちでもある。
神ご自身が私を命を捨てて愛してくださった。だからその神の愛に応えたいと願い、自分の取るに足りない願いより、ただ神の御心だけを行いたいのである。自ら進んで神の僕として生きるクリスチャンは、まず神の御心を行おうとする。確かに自分の願いもするが、それが神の御心ならば、という大前提がある。神は最も私を愛してくださっており、御心が最善であることは体験を通してもよくわかっている。

それがあるのと無いのとでは、偶像崇拝であるか否かの大違いにもなる。クリスチャンは祈って、たとえ願いが叶わなかったとしても、むしろ神の計画は自分の願っていることよりもさらに最良の結果が用意されていると、かえってそれを喜ぶのだ。たとえ現状が最悪の結果であろうとも。これを信仰と言う。(モーセ・ウィキペディアより)

✝️子どもたちよ、偶像を警戒しなさい(1ヨハネ5:21)
Dear children, keep yourselves from idols.
✝️あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出エジプト20:3)