ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

カリスマ派信仰に感謝!

2015年11月09日 | 信仰
多くのキリスト教会、その信徒にとって、聖書の御言葉以外に、神が語られるという事を認めないと思う。今年度の年間聖句「神のことばがゼカリヤの子、ヨハネに下った」これ自体は御言葉だが、しかしこれを「リバイバルが始まりました」という神の言葉が下った、とする私たちの信仰は、外部の教会の方にはおそらく理解しがたい事だと思う。しかし私たちは聖書の範囲内で、かつ聖霊の神が信じ従おうとする者一人一人に語られ、御心を成していくこと=聞き従いこそ、最善であることを知っている。だからこの群れの指針である年間聖句も、当然神に聞き、確かに神から来た言葉として受け取っている。(写真はガリラヤ湖畔での新年聖会の直前風景)

聖霊なる神が私たち信じる者に内住されることは、ほとんどのキリスト教会は是認する。問題は教義ではなく、実際には?である。キリストは十字架に架かられたが、それは信じる者の罪を赦し、赦されて罪のない聖徒に聖霊が住まわれるためだという、実質が抜けている。残念ながら多くのキリスト教徒は、主を自分の主とせず、いつまでも自分が主であり続けて疑問を持たない。逆に若きサウロのように聖霊に聞き従っている聖徒を狂信者、カルトだと忌避したり迫害する。(引く続いてアルベル山での礼拝風景)

私は迫害する者の気持ちがよくわかる。なぜなら、この私がそうであったからである。神の声を聞き、神に従い共に歩んでいる聖徒のたぐい話を聞くと、耳をふさぐか冒涜者めと、そのような人を憎んだ。そのような人たちには自分に理解できないもの、真実の信仰を感じさせられ、「カーッ」と妬みに燃えたからである。
だからこそ今私は、自分が狂信的とか、おかしな教会と呼ばれる事を、そしてカリスマ派の教会の牧師であることを甘んじて受け、喜んでいる。立派な会堂、荘厳な礼拝はないが、真に神を求め、導かれるクリスチャンよ、来れこの教会に!

1サムエル記15:22
するとサムエルは言った。
「主は主の御声に聞き従うことほどに、
全焼のいけにえや、その他のいけにえを
喜ばれるだろうか。
見よ。
聞き従うことは、いけにえにまさり、
耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

ケパ



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする