ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

高慢とあべこべの話

2011年08月13日 | 信仰

 東京には高級車が多いと聞いていた。確かに駐車場のある家には、高級外車が多いのだ。それで東京では、いろいろな所で高級車に出会う機会がある。その全部ということはCersio_2ないのだが、割合的には、高級車には高慢な運転ぶりが多い、というかそれを体験するの。ドルカスに聞くと、かつてドルカスが「セルシオ」に乗った時は、「どいてよ」とばかりつい、運転が高慢になることもあったそうだ。

 私のごく身近な人でも、出世し上りつめてからというもの、その人間性がずいぶん高慢になっていったのを見た。地位特有の責任の重さと重圧があり、自分の高慢さには気づかなくなるらしい。人ごとではない、自分にもどうしようもない高慢さ、プライドがあった。「悔い改めと神の力である十字架なしには、この手の自尊感情に気づくことも勝利することもできない」というのが私の結論である。

 キリスト教徒をクリスチャンと言うのは、「キリスト狂人」という意味だと教わったことがある。キリストは神の子という、考えられないほどの豊かな存在である方なのに、人間の姿
Crossをとり何と貧しい馬小屋に生まれた。すべての力のない人、病人を愛されいやされ続けた。自分の保身をはからず、むしろ権力や豊かな人の高慢を暴き、死の苦しみをに至るまで貫き通した。内にあっては弟子たちの足を洗うほどへりくだられ、忍耐を持って諭され続けた。栄光の存在が、これではまったくあべこべである。
 ところがクリスチャンもあべこべなのである。大事に守っていた自分のすべてをキリストに明け渡し、委ねた時にはじめて私は、自分自身を捕らえていたもの・・・・高慢さから解放された。生まれ変わることが出来た。大切な自分を神に100%渡して、真の自由を得た・・・・それで十字架のキリストを愛しキリスト狂いになる。他にあげて得るという、あべこべの話であるが、確かに真実なのだ。 (ケパ)

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