茶の葉の声に耳を澄まして    Tea-literacy

数千年にわたる茶と人とのかかわりに思いを馳せ、今、目の前にある茶の声に耳を傾ける
お茶にできること、お茶の可能性とは

『禅の世界』

2010年04月17日 | Weblog
足柄に香集寺という
美しいお名前のお寺さんがあります。
曹洞宗のお寺さんです。
明日はそちらの檀家様に
お呈茶をさせていただきます。
せっかく、お寺さんで
お茶の紹介をさせていただけるので
ちょっと「禅とお茶」あたりにも
ふれたいなと思いました。

図書館でふと手にした本書に
栄西禅師のことがこう書いてありました。
 栄西が幕府権力に接近したことは、
 都の人士にあまり評判がよくなかった。
 栄西と同時代の天台座主慈円は、
 名誉欲や権勢欲の固まりのような人物だと
 栄西を批判している。
 歌人の藤原定家も、
 栄西は賄賂を使って
 一身の栄達をはかるような人物だと
 『名月記』にはっきり書きつらねている。
また、
 政権というものは、
 武断だけでは世間を治めることはできない。 
 政権を安定させるには
 文治の要素を打ち出すことが必要であり、
 特に宗教的光背をもつ事が効果的である。
 鎌倉幕府はその辺の事情をよくわきまえ、
 禅を幕府の宗教的光景に仕立てようとして、
 栄西を庇護したのであった。

道元さんについては、
我が国の大師と呼ばれるような高僧が
みな土瓦のように見えてきて
入宋求法した道元でしたが、
帰国の際に師、如浄より授かった教誡が
「国王大臣に近づく事なかれ。
ただ深山幽谷に居りて一個半個を接得し・・・」
であったにもかかわらず、
朝廷に『護国正法義』を奉呈した行為は
この教誡からすでに逸脱、
とありました。

これは部分的で極端な引用ですが、
そういう見方もあるのかと知りました。
人はいろいろに言います。
人の行動の「動機」は知るよしもないですが、
名声欲であの時代に船には乗れないだろうと
私は思います。
ただ、寺という組織にする以上、
いろいろ世俗のことはでてくるでしょう。
どうして、
組織が必要なのかしら。

ですから、
やっぱり、禅は、茶の間でも、と思うのです。
子育てをして親の介護をして
三度の食事を用意して
その度に家族の体調に合わせて茶を淹れる。
清き水を求めて歩き、
道ばたの花を持ち帰る余裕を持つ。
そういう日常茶飯のことをきちんとするのは
簡単なことではありません。

でも、
曹洞宗は、在家否定の徹底した出家主義です。
方丈でも、家庭、会社でも、
道を求める心があれば・・・
ではないのか、
道元さん。