今回は八木地区の伝承を中心に書いてみたい。蛇落地のテレビ報道は中世の阿武山へのきっかけではあったけれど、実は災害地名としての蛇落地から私の関心は離れていて、興味は別の所に移っている。もし、災害地名ということでいらっしゃったのであれば他の人の書かれたものを読まれた方がいいという事、まずお断りしておきたい。
4年前の土砂災害の5日後にあたる2014年8月25日、フジテレビで八木の古名は「蛇落地悪谷」であり、後に上楽地芦谷に改めれられたという八木地区の伝承が紹介されたという。私はこの放送を見てはいないがネットで大きな反響があって3日4日のうちに内容を知った。感想を言えば大変なショックであった。それは、自宅から見える阿武山の谷筋に見える土砂の様子を言うのに「蛇が落ちる」という表現はあまりにも的確だったからだ。
阿武山の内に住みたる蛇落つと古き伝えを聞けば悲しも
(安佐北区深川、深川三丁目バス停付近から見た阿武山の傷跡、2014年9月16日撮影)
しかしながら、調べてみると蛇落地が出てくるのは伝承を記述したものに限られ、リアルタイムに地名として記述した文献は見つからなかった。伝承を軽く見てはいけないとは思う。それを記述した2つの書物を見てみよう。ひとつは「黄鳥の笛」(昭和33年、辻治光著)で香川勝雄の半生を描いた小説の形をとっている。もう一つは八木小学校百周年の時に編まれた「しらうめ」(昭和51年)、前回陰徳太平記で首が落ちたところに地名が誕生した場面の記述は似通っている。黄鳥の笛から引用してみる。
「香川勝雄が斬った大蛇の首が、初めに落ちたところを、刀がのびると書いて、刀延(たちのぶ)と呼んでいる。(現在上元氏宅前の水田)二度目に飛び入ったところを、大蛇の首から流れる血が、箒のように噴きつゝ飛んだので、箒溝(ほうきみぞ)と言い、(現在岩見田の溝川の流れが用水路に沿ぐ辺りの水田)最後に飛び入ったところは、大蛇の血で池となり、その池の中に深く隠れ入ったと言うので、蛇王池(じゃおうじ)と称えるようになった。」(「黄鳥の笛」より)
この場面は「しらうめ」も「たちのぶ」が「たのぶ」とつづまっている以外はほぼ同じ記述で、「黄鳥の笛」あるいは辻氏が大蛇四百二十年忌に配布したという「蛇王池物語」を引用したのかもしれない。注目すべきは箒溝という陰徳太平記にはない地名が入って三段階になっていること。そして、陰徳太平記では蛇王子となっていた池の名前が蛇王池と池の文字が入って「じゃおうじ」と読ませていることだろうか。しかし次の蛇落地の記述では若干の違いがある。
「蛇王池のあるを蛇落池(じらくじ)と呼んでいたが、のちに書き改められて現在の上楽地となった」(「しらうめ」より)
「此のを「蛇落地」(じゃらくじ)と称していたが、後に語路によって「上楽地」(じょうらくじ)と書き改められた」(「黄鳥の笛」より)
「しらうめ」の方は上記「たのぶ」と同様につづまって「じらくじ」となっている。これが案外地元の人の言い方なのかもしれない。また、地ではなく池、ここでも池の字で「じ」と読ませている。とにかく「じゃらくち」ではなく、「じゃらくじ」なのがわかる。
そして両書とも、この蛇王池のあたりは底なし沼ともいえる沼田であった由の記述がある。現地を歩いた印象では梅林小学校の裏手から扇状地の斜面が始まっていて、また有名な八木用水という灌漑用水が流れていて阿武山麓の丘陵地の印象が強い。しかし一方で池や沼など湿地であったという記述、中々頭の中が整理できない。数回歩いただけの私にはまだまだその地勢を掴みきれていないということだろうか。
(梅林小グランドから阿武山、近過ぎて山頂は写ってないのかもしれない)
(八木小グランドから見た阿武山)
さて、ここで蛇落地→上楽地についてであるが、八木の地には元和5(1619)年に浄楽寺が開基となっていて、上楽地(じょうらくじ)と同じ読みである。また、宝暦12(1762)年には上楽寺という字が確認されていて、江戸時代のうちに上楽地に改められたと思われる。浄楽寺→上楽寺→上楽地という流れの中に地名としての蛇落地が入り込む余地はないと考えるのが普通だろう。浄楽寺以前はどうであろうか。陰徳太平記の中には大蛇の首が落ちた場所の地名の記述があるのに、そのものズバリの蛇落地は出てこない。香川氏が安芸の国にいた関ヶ原以前には、蛇王池はあっても蛇落地はなかったのではないかと推測できる。香川氏一族が長州や岩国に去った後ということになると、浄楽寺までほんの十年余りしかない。伝承の通り蛇落地→上楽地となった可能性はかなり薄く、また蛇落地が地名であったかどうかも大変疑わしいというのが私の心証だ。少なくとも、開発業者や不動産業者が災害地名を改めたという可能性はゼロと言っていいだろう。最初に書いたように、この部分を熱心に論じるモチベーションを持ち合わせていないのでこれぐらいにしたい。
もっとも、八木三丁目の開発について全く問題ないと言っているのではない。「佐東町史」の地質の項(P6)に、八木の扇状地には土石流の原形をとどめていると思われる段丘がみられること、今は県営住宅を中心とした宅地化で平坦化されているところもあるが昭和二年の地形図では集落の立地や畑地利用が読み取れて氾濫原と区別できる旨の記述がある。災害地名を持ち出さなくとも、地質学者から見れば土石流の痕跡は読み取れていたと思われる。昭和30、40年代はそういうものが考慮される時代ではなかったのだろうけど。また上楽地には水害フリーの安全な土地というイメージがあるネーミングだ。人々の関心が百年に一度あるかないかの土石流より度々起きる太田川の氾濫にあったことは言うまでもないだろう。
話を戻す。よく知られた地名でないとすれば、蛇落地とは何だったのか。上記伝承のように蛇王池まわりのごく限られた範囲をそう呼んだのだろうか。あるいは、誰かが上楽地をもじって蛇落地と言い始めた、すなわちこの二つが並立した可能性はないだろうか。「佐東町史」には、
「八木上楽地にある蛇落地観世音菩薩堂は弘化四年(1847)十月に阿武山頂上よりここに降されたもので、高さ一・一二メートルと、〇・五メートルの二体の観音木像がある。」
とある。この一節は上楽地と蛇落地が混在していて並立の可能性はなさそうに思える。しかし今の上楽地町内会は八木三丁目であるが蛇王池や浄楽寺は梅林駅より北て浄楽寺は八木四丁目だ。上楽寺と呼ばれた江戸中期の字がどのあたりにあったのか、浄楽寺の近くだったとすれば、南の観音様のあたりを蛇落地としても不思議ではない。観音様がらみであれば、観音菩薩が降り立ったとされる補陀落山をも意識したネーミングだったのかもしれない。
色々書いたが、上楽地のあとに蛇落地というネーミングが行われて、地名の上楽地と並立を考えるとすれば、時代ごとの上楽地の範囲の整理が必要になってくる。昭和3年の地形図中の上楽地の文字は、今の八木四丁目の谷に書いてあるように見える。今の町内会と違うのか、それとも地図の書き方が悪いのか。最初に戻ってフジテレビの報道で蛇楽地悪谷は今の八木三丁目という話があったという。どうも整理がつかない。私は方向音痴である上に八木三丁目、四丁目に行くと全く平常心ではいられない。ここは地理に明るい人に頑張ってもらいたい。
そろそろ終わりにしたいが、ここまでのところで興味を惹かれるのは、まずは観音信仰。「佐東町史」は阿武山から権現山にかけて観音の霊地が多いとして、5ページを割いて記述している。中世の観音信仰とはいかなるものであったのか。当時の人々は阿武山の山頂に山越阿弥陀のような霊的なものを感じたのだろうか。それならなぜ山頂の観音様は麓に降ろされたのか。弘化四年十月と月まで書いてあるのだから、原史料に何かいきさつが書いてないかとも思うのだけど、まだその元の史料が何なのかもわからない。
そしてもうひとつ、蛇王池の碑の近くには、刀山、刀川、刀納など、太刀がつく苗字が多いという。かの大蛇退治の眼目は太刀を洗って奉納したというところにあるとすれば、この苗字の人たちはどういう人たちなのか、後の回で考えてみたい。八木の伝承は陰徳太平記の物語から大きく食い違うものではなく、元からあった話を家臣の手柄話に作り替えたような痕跡はなかった。これをどう考えるか。1532年に本当に何かあったのか、それとも陰徳太平記の記述が里帰りして伝承が歩き始めたのか。黄鳥の笛を読むと、タイトルの笛や主君からの褒美の盃が実在しているとあり、参考文献も多数列記してある。市立図書館の広島資料室にある本はかなり傷んでいるけれど、一読をお勧めしたい。
どうもこの蛇落地については情熱が足りないというか、書いていて力不足を痛感している。しかしこのへんで先に進みたい。次は陰徳太平記と伝承をふまえて色々考えてみたいと思う。いやその前に、今年も8月20日が近づいてきた。次回は4年前をふり返ってみたい。阿武山を語りたければ、避けて通るわけにもいかないだろう。