阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

狂歌家の風(17) 住吉社

2018-12-19 20:08:28 | 栗本軒貞国

栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は神祇の部から一首、

 

       住吉社奉納題中臣の祓 

  雨露のめくみに木ゝのまことをはあらはして咲花のくちひる


 爺様の掛け軸がきっかけで読み始めた狂歌家の風、その中で一番興味をひかれてしっかり調べて書いてみたいと思ったのは神祇の部の大頭社、鳥喰祭の歌だった。そのせいか、他の神祇の部の歌も後回しになってしまった。大野村との関係も少しずつ明らかになって鳥喰を書く日も遠くないような気もする。まず最初の住吉社の歌にとりかかってみたい。

歌自体はそれほど難しくない。ただ、歌と中臣祓との関係がはっきりしない。中臣祓とは六月と十二月の大祓の時に唱えられる祝詞で、天つ罪や国つ罪を列記してそれを祓うという内容になっていて、貞国の歌とは関連が薄いしそもそも六月晦日もしくは大みそかの大祓の歌という感じはしない。むしろ、天つ水がキーワードになって植物を生み育てる中臣寿詞の方が貞国の歌の内容に近い。しかしこちらは天皇即位や大嘗祭の時に唱えられるとのことで、これを奉納歌とするだろうか。それに蒜や筍は生えてくるがこちらでも花は咲いていない。これは考えてもわからないので新たな手がかりを待ちたい。

祝詞はこれぐらいにして、貞国はどこの住吉社にこの歌を奉納したのか考えてみたい。狂歌家の風の神祇の部で神社名が入っているのは順に住吉、人丸、厳島、大頭となっていて、和歌三神の住吉と人丸が入っているから、これは本家の住吉大社と明石の柿本神社に貞国が出向いて歌を奉納したのかと思っていた。しかし、「松原丹宮代扣書」の寛政二年の記述に、

「三月十八日 人丸神社更地左近谷筆柿の本へ遷宮仕、御神体願主福原貞国、御社願主上下氏子中狂歌連中十二人にて寄進す。」

とあり、大野村の人丸神社は貞国を師匠とする別鴉郷連中が勧請した、ということは、次の歌の人丸社は大野村の人丸神社の可能性が大きくなった。すると、住吉社も地元かもしれない。大野村にもかつては住吉神社があったようだ。享和元年というからちょうど狂歌家の風が出版された年(1801)に住吉新開という新しい農地が完成した時、貞国の門人で後に大野村下組の庄屋となった柳唱斎貞蛙が詠んだ歌が「大野町誌」に載っている。


         こたび御恵み給ふ新開のかたはらに
         胡子住吉の社ありけるによりて、人々
         住吉新開ともまた胡子新開ともいへる
         者もありければ
 
  百姓も猶これからは住吉のかみの力をゑびす新開


大野町誌によると、この住吉神社はいつ廃、あるいは合祀になったのかわからないそうだ。もし貞国の歌が大野村の住吉神社だとすると、神祇の部に並べた住吉、人丸、厳島、大頭の四社はかなりご近所ということになる。もう一つの可能性としては、広島の住吉神社

享保18年に(1733)勧請されました。
 江戸時代、浅野藩の船の守護神として信仰されました。」

とある。貞国の時代は比較的新しい神社だったと思われる。和歌の神様も書いてあるけれど、当時はやはり船の神様の意味合いが強かったと考えられる。今の住所は中区住吉町、しかし貞国の時代の住所は水主町で、これも新開、すなわち三角州が先に延びた新しい土地に建てられたようだ。そして、「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」には貞国について、

「広島水主町(今の中区)で苫を商う苫屋弥三兵衛、号は道化、柳縁斎」

とあり、住吉神社は町内ということになる。広島の住吉神社が有力な気もしてきた。しかし断定できる材料はない。「大野古文書管見一」にある大野町更地の新田家に伝わる公務細見という文書の弘化四年の項には、大野村から広島城下に船で往復した記述が見える

「未正月五日昼乗船御城下ヘ罷出ル、九日昼乗船、船浮ばず十日朝帰ル」

とある。大野古文書管見の解説によると番船と称して大野広島間に定期船があり、大野を昼すぎに出て潮や風向きの良い時は一時間余り、おそくても五時間ぐらいで江波沖に着き、満潮を待って本川を上り住吉神社のところに接岸とある。貞国が商いをしていた水主町と大野の間に定期船があったわけだ。貞国が別鴉郷連中の狂歌の会合に出かけるのにこの船便を利用したのだろうか。もっとも、上方狂歌の歌集には京大坂の移動に船中での歌も結構見かけるのに、船中で詠んだ貞国の歌は見つからない。あるいは船旅は苦手だったのか、五時間もかかったり上記のように船浮かばずとなったら歩いた方が早いということもあるかもしれない。

最初の歌とはあまり関係ない話になってしまったけれども、貞国の周辺ということでご理解いただきたい。

 

【追記1】船中で詠んだ貞国の歌は見つからないと書いたが「狂歌桃のなかれ」に一首あった。

 

        船中歌会 

  せん頭も混本も読歌の会言葉の海に乗出しては 


混本が良くわからない。古今集真名序に混本歌とあるのは旋頭歌とする説があることから、船頭、混本と続けたのだろうか。

 

【追記2】明治41年、広島尚古会編「尚古」参年第八号、倉田毎允氏「栗本軒貞国の狂歌」の中に、水主町の住吉神社の祭礼の見世物をめぐる長い詞書と歌がある。

 

    水主町の鎮守住吉神社の祭礼は毎年六月十四十五 
    日なり、此両日の賑いの為め見世物と称して町々 
    大なる物の形なん作りていとめつらかなる細工多 
    かる中に、円入寺と云へる寺の町へ瓢べを以て鯰 
    をおさへたる形を造りたるが、見物の諸人町々群 
    集の中誰れありて何物と云ふことを弁へず、看過 
    るもの評定区々なり、然るに之れを営みし人自ら 
    不出来なることを知れど、今更改むることもなら 
    ざれば、彼是れといと気色を損じ、貞国か元へ行 
    き云々の由を述べ、鯰なる事を諸人いひくれんこ 
    とを祝してよと乞ひければ、 

  ひょうたんの軽口ちよつとすべらかす鯰のせなへ押付の讃 

    之れにて往き来の人々興じあへりとなり


見世物が不出来で何かわからないという状況を貞国の狂歌で丸くおさまったという構成になっている。やはり水主町の住吉神社は有力だと思う。



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