阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

味あわせたや

2019-04-15 10:37:38 | 栗本軒貞国

今日は明治41年「尚古」参年第八号、倉田毎允著「栗本軒貞国の狂歌」から一首、


     沼田郡古市村なる名物餅のことをよめる

  能因に味あわせたやあめならて古市に名の高き歌賃を 


タイトルの「味あわせたや」は現代のような仮名遣いになっている。後で論じたいが、結論を言うと現代において「味わう」の使役形「味わわせる」が言いにくさなどから「味あわせる」に変化する現象が、寛政から文化文政期に活躍した貞国の歌にも既に現れていたと考えられる。ただし、舌先の追記やちうとこうの回でも書いたように、尚古の貞国の歌は出典の記述がなく、テキストの信頼性に不安がない訳ではないことも最初に申し上げておきたい。しかしながら今は、この表記を一応信用して話を進めよう。

 まず、能因と歌賃(かちん)については、能因法師が雨乞いの歌を詠んで雨を降らせたと金葉和歌集にある。

 

範国朝臣にくして伊与国にまかりたりけるに、正月より三四月まていかにも雨のふらさりけれは、なはしろもせてよろつにいのりさはきけれとかなはさりけれは、守、能因歌よみて一宮にまいらせて雨いのれと申けれはまいりていのり申ける哥

                 能因法師

  天河苗代水にせきくたせ降ます神ならは神

神感ありて大雨ふりて三日三夜やますと家集にみえたり

 

天降ますと二文字で書いたテキストもあるが、このリンクは降(あまくだり)ますと一文字で読ませるようだ。このあと喜んだ里人が餅をついて能因にふるまい、それで餅のことを歌賃というようになった、という俗説(本来の語源は「かちいい(搗ち飯)」が有力らしい)が貞国の歌の下敷きとなっている。この伊予一宮の大山祇神社には「能因法師雨乞の楠」があり、説明に同じ歌が見える。8年前に訪れた時の写真を紹介しておこう。

この能因の雨乞いについては日蓮上人が、歌を詠んで雨を降らせた和泉式部や能因法師を引き合いに出して雨乞いに失敗した高僧などを罵倒しているのが面白い。ネットで検索しても「和泉式部と云いし色好み能因法師と申せし無戒の者」「いうにかいなき婬女・破戒の法師等」などの表現が出てきて、そのような者でも雨を降らせたのに、と続いている。話がそれた。

 次に、沼田郡古市村の名物餅、これは安古市町誌や古市町誌をみても出てこない。古市橋駅の由来となった石橋などが歌に詠まれているけれど、この名物餅がいかなるものであったのか、全くわからない。貞国は酒も餅も好きだったとみえて餅や団子の歌を多数残している。他にもそういう人はいたはずで、どこかに手掛かりはないものだろうか。

(武田山の麓、可部線古市橋駅と駅前にある古市橋の説明板)

 それでは本題の「味あわせたや」に移ろう。最初この歌を読んだ時には、味を合わせる、だと思った。能因飴か能因餅というものがあって、その味に合わせた、真似をした、という意味に見えた。しかし調べても能因の名前がついた餅や飴は出てこないし、古市の名物餅は能因餅に味を合わせたいもんだ、みたいな意味だと最後が「を」では意味が通らない。やはりここは、「あぢはふ」に使役の助動詞「す」の未然形がついた「あぢははせ」が変化して「あぢあはせ」になったと考えるのが合理的だろう。願望の「たし」の語幹と終助詞「や」を加えて、能因に賞味させたいものだ、という意味になる。

そのあとの「あめならで」は、飴じゃなくて餅、雨じゃなくても降るいち、そしてもちろん能因の雨乞いの故事もふまえている。餅好きの貞国らしい一首でこれも古市橋駅前に歌碑がほしいものだ。しかし、「古市に名の高き歌賃」というのに餅の名前が書かれていないのはちょっと気になるところだ。

現代語の「味わわせる」と「味あわせる」について、朝日新聞のことばマガジンでは、クイズで「味あわせる」を選択すると「残念」となる。文法的には「味わわせる」が正解というのは疑う余地がない。また、パソコンで「あじあう」を「味合う」と変換してしまうのも広まった一因ではないかと書いてある。

しかしこれがNHK放送文化研究所のページになると少しニュアンスが変わって来る。文法的には「味わわせる」としながらも、

ただし、「味あわせる」という形も、実際にはよく使われています。ウェブ上でおこなったアンケートでは、年代差や男女差はあるものの、全体としては「味わわせる」よりも「味あわせる」のほうを支持する意見のほうが、やや多くなっていました。」

「味あわせる」という形が出てくる背景には、一つには伝統形「味わわせる」に含まれている「~わわ~」という「同音の連続」を避けたいという意識があります。」

「アジワワセル」と声に出して言うと、確かに言いにくい。多分これまでに使ったことはないなという違和感さえ感じる。一方「味あわせる」はこれまで自分で使ったことがあるかどうかわからない、あるいは言ったかもしれない。声に出せば「味わわせる」より「味あわせる」の方が言いやすい。無意識に変換してしまうといえば言い過ぎだろうか。読むときはどうだろう。貞国の歌を最初に読んだ時、味を合わせると思ってしまったように、読む時には文法通りの方が意味が取りやすい。朝日の人には実は江戸時代からあるんだよと教えてあげたい気分ではあるけれど、新聞が時代遅れで融通がきかないと言っているのではない。読ませるための新聞と、聞かせるのが主体のNHKの立ち位置の違いなんだろう。私に言わせれば、このように言いにくい言葉が変化するのは自然なことではないかと思う。学生時代に京都に住んで、阪急の西院駅が「さいいん」と同音が連続しているのをちょっと不審に思った。そのあと嵐電に乗ったら西院の駅名標にはSAIの表記があってそういえば西院の河原とも書くなあと妙に納得したのを思い出した。今、阪急西院駅のウィキペディアを見たら西院村という自治体名が「さいいん」と決められ、そこからとられた由書いてあった。人々が長年言い続けた地名は「さい」と変化していた訳だ。もし、「味わわせ」が地名だったら、とっくに「味あわせ」に変化していたのではないかとも思う。「味わう」の使役というのはそう度々使う言葉ではない。あまり使わないことがNHKのデータのように今も綱引きが行われている原因のようにも思える。「人生の辛苦を味わわせてやる」なんて、間違っても口にしたくない言葉だ。それでは、「君に本当の幸せを味わわせてあげよう」これはもとより言うだけ無駄なセリフと思われる。