阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

3月8日 広島県立図書館「芸備先哲伝」など

2019-03-08 19:04:10 | 図書館

 調べ始めて半年、そろそろ貞国の鳥喰の歌について書きたい。国会図書館の厳島図会、国立公文書館の厳島道芝記の該当部分を書き出してみたけれど、読みに自信がない箇所がある。舌先の時も間違っていたし、まずは活字になっている本から該当部分をコピーする予定であった。ところがカウンター2に行く途中、郷土資料の書架に寄った時に気が変わって、両書も入っている「宮島町史 資料編・地誌紀行 」を借りて家でじっくり読んでみることにした。もっとも先に借りたのは失敗でとても重かった。

 次に前回見落としがあった「広島県山県郡史の研究」と、見落とし部分は別のもう一冊かと思って「広島縣山県郡史之研究 草稿・原稿・校正刷・本印刷・著述雑書綴」を書庫から出していただいたら、後者はミカン箱ぐらいの箱を司書さんが開けたら茶色く変色した資料がぎっしりつまっていた。これは私の手に余るもので2時間ぐらいの滞在ではどうにもならない。私がやめときますと言うのと、司書の方がこれはちょっと出せないかもしれないと言われたのがほぼ同時であった。帰ってもう一度検索したらページ数・大きさのところに2組30×43cm(箱),31cm(箱)」と書いてあって、これを確認してなかったのがいけなかった。せっかく重い資料を持ってきていただいたのに申し訳ないことだった。しかし、ちょっと玉手箱をあけた気分で貴重な経験だったとも思う。一冊ぐらい手に取らせてとお願いしてみるべきだっただろうか。

 気を取り直して、「広島県山県郡史の研究」を読む。前回は吉水園のところに貞国の歌を見つけてそれで満足してしまったのが敗因で、文化を記述した箇所に未知の貞国の歌四首がのっていた。加計に狂歌の指導に行く道中の歌二首と、文化七年都志見村駒ヶ瀧での歌二首、出典は「都谷村 石川淺之助氏所蔵古文書」とある。都志見村は明治の大合併で都谷村となり、昭和には豊平町、今は北広島町都志見という地名になっている。帰って駒ヶ滝の場所を確認したら、昔、豊平のどんぐり村に蕎麦食いに行ったついでに歩いたことがある場所だと思うのだけれど、写真も撮ってなくて確実ではない。この滝で詠んだ貞国の二首目、


  きぎの葉もちりつるてんとたまらぬや 三味とむの胸のたきのしらいと


四句はこれで良いのかどうか、原典を見てみたいものだ。

次は「広島県人名事典 芸備先哲伝」を書庫から出していただいて栗本軒貞国の項を読んだ。狂歌の号を京都の家元より受けたという例のフレーズに続いて、聖光寺の辞世の歌、しかし、散るや残るを漢字で書いてなくて現物を見て写し取ったものではなく、尚古と同じように「人さへも」の「も」が欠落している。続く六首の引用は尚古と同じ歌ながらやはり漢字の使い方が違っていて、これは五日市町誌と同じ表記になっている。ということは、芸備先哲伝の辞世を含む七首は尚古から漢字の表記にはこだわらずに引用したもので、それを五日市町誌がそのまま引用したということだろうか。辞世の表記の仕方を見る限り、漢字は自分流に書いたもので別資料の存在は期待できないようだ。また同様に、京都の家元云々や八十七歳没も尚古からの引用と思われる。

先哲伝の貞国の項目のコピーをお願いしたら、担当の新人?司書さんが別の司書さんに判断を仰ぐ場面があった。「大丈夫」の声が聞こえてコピーできたけれど、帰って調べたら事典の項目一つだけでも独立した著作物であるという判例があるようだ。図書館でのコピーは著作物の一部、本文の半分以下という原則からすると、なるほど問題があるのかもしれない。それなら何故大丈夫だったのか。「複製物の写り込みに関するガイドライン」(pdfファイル)これによって救済されたということだろうか。貞国の項目はコピー1枚だけであったが、もし2枚以上だったなら全体は無理とか言われたのだろうか、こういう規則の解釈は苦手である。

先哲伝のついでに「安古市町誌」と「安佐郡誌」も書庫から出していただいた。これは尚古にあった貞国の歌にある古市の名物餅について手掛かりがないかと探したのだけれど、見つけることはできなかった。

今回は宮島町史がとにかく重くて、江戸狂歌はお休みして上方狂歌だけ、計二冊を借りて帰った。花粉で目がアレなのだけれど、宮島町史資料編を三週間かけて読んでみたい。



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