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文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

■あの貿易センタービルが無いということが、その場に立っても信じられなかった。

2006年09月11日 15時39分37秒 | 日録雑感


90年代初めのころのいつの日だったか、私は、貿易センタービルの
103階にいた。カルチャーセンターの企画で、高名なジャズ評論家の先生と
行く、ニューョークジャズツアーに同行した。
そのメインイベントが最上階での、ディナーと現地のジャズピアニストによる
ライブだった。10名ほどの人間が、そのひとときを得たのだから贅沢な時間
だった。
窓からは、天からの角度のようにハドソン川、イーストリバー、スタッテン島、
ニュージャージー、自由の女神などが一望できた。
いろいろな写真を撮った。ほぼ垂直に真下の通りと車の姿を見た。
真下を覗き見したときの感覚が、異様だった。
あんな光景は、きっと見ることができないだろう。
地上ではない。天上でもない。この世の感覚ではない。
別の角度からは、隣の双子ビルの屋上あたりが見えた。
あれも、あの世のようだった。
あの夜の写真は、探せばどこかにあるはずだが、なんだか、怖くて
探していない。
二年前に、もう一度あの場所を訪ねたときはただの
巨大な穴になった空き地だった。
バッテリーパークあたりの感じがまったく違う。
マンハッタンの南端を見ても、あの墓石みたいに冷たい二塔の建物が
喪失や消失の象徴のように、なにもない。
あの巨大な空き地を見て、なんだかただ歩きたくなって、
トライベッカのSOB,sまで、暗い通りをひたすら歩いた。
なにか、巨大なものが失われた町のように深く感じられた。

■新京極の「かねよ」にて鰻とビールで涼飯。

2006年08月07日 18時03分02秒 | 日録雑感


新京極の六角にある、鰻の「かねよ」でお昼。
雰囲気がまるで、大正か明治時代みたい。
ちっちゃいビールを飲む。
買ってきたルドルフ・ケンペのBBC音源の
CDを眺めながら。

なんだか、京都に住んでいることの贅沢を
こんな普通の店で実感する。

すたんだーど。
ですな。


ところで、この世の中でもっとも嫌いな食べ物は鰻なんだけど
この世の中で、もっともおいしかったのも鰻。

ずっと昔に食べた、九州・柳川の鰻は絶品だった。



外は、炎暑。。。。。

ゴミ箱に植えている、朝顔も焼けて死んでしまいそうで心配。

もうひとつ、また街角でそろってきた菫の種は
発芽して、元気。


●ずっと会いたかった詩人、橡木弘が亡くなった。新聞報道では、美術家・村上善男として。

2006年06月27日 20時12分34秒 | 日録雑感



この5月に、詩人、橡木弘が亡くなった。
橡木さんの詩は、1980年代後半の「詩学」の年鑑で知った。
確か「林檎鉄道」という詩だったか、うろおぼえ。
それ以来、ぼくは、詩集を送りつづけていた。
橡木さんも、特装の素晴らしい「書物」を恵贈してくださっていた。

中央詩壇では、ほとんどその名は語られませんでしたが

いつか同人誌を出すならば、橡木さんにお声をかけようと
ずっと願ってきた。

いま、屋根裏の本の山を探してみたがみつからなかったが
いずれまた、作品を紹介したい。



この橡木さん、確か、詩学の年鑑には、
荒川洋治さんの推薦で作品が掲載されたのではなかったか。
これもうろおぼえ。



数十年がたって、この詩人の別名が
村上善男という名であることを知った。

岡本太郎との深い親交でも知られた
著名な現代美術の作家であることも。

また、弘前大学の名誉教授であることも。

橡木さんの詩作品については、またあらためて書きます。


★自宅の近所の公園にいた、高校生。単なるできごとではないような。虚ろのさらに虚ろへ

2006年06月23日 19時18分35秒 | 日録雑感



奈良の高校生、ぼくの自宅のすぐ近くで保護されたそうだ。
今朝、そのあたりにTVレポーターのような人が
カメラを抱えて立っていた。
雨の中、公園の滑り台に座っていたという。
かたわらに自転車。

奈良から京都まで、雨中を疾走してきたのだろうな。

その高校生のことを
家人は、かわいそうだと言う。
娘は、それにうなずかない。

辛かったのだろうと、思う。

いまの高校生にとって、楽しいことや面白いことが
もう飽和してしまっていて、
飽和したまま、立ち竦んでいたら、世の中の
ぶっとく重たい壁が、知らず知らずのうちに
ひとりの人間の重しとなって強く
圧してくるのだろうな。

雨の公園の滑り台、
見たかった、サッカー。

世界は、いくつもあるのに、
重くのしかかってくる、単一の世界像は、
幼いがゆえに、単一的性格を濃くして
コンクリの塊みたいに認識されるのだろう。

それを、笑ったり、軽く逃げたり
そういうことのできない世の中なのかなあ。

絵空、

絵空でもいいじゃないか、
その単一のコンクリだって、
「誰かの物語」だったりするんだから

単純な、自分の絵空をどこかに見つけておかないと。

複数だよ。

血脈や小枝みたいな、絵空の回路。

幼いからこそできるのに、

強烈なフリーキー。

★このごろの思いついた雑感、シンクロニシティ。

2006年06月06日 16時38分34秒 | 日録雑感



村上正彰という人は、人の関係の中に
「宮内」という名がからむのでしょうね。
O社の宮内さんと
LD社の宮内さん。

こういうシンクロニシティのようなことは、
ぼくにもよくある。

ドジャースの城島捕手。

愛称は、ジョーですね。

マリリン・モンローの夫だった、
ヤンキースの強打者が、ジョーディマジオ

ジョー・ディマ

ジョー・ジマ・ジョー

ですね。

つまらないことを書きました。



ワールドカップ、楽しみにしている。

予想

対 オーストラリア戰 △  1対1
対 クロアチア  戰 △  2対2
対 ブラジル   戰 ●  3対1


結局、微妙な得失点差勝負になりそう。





土曜日、新しいジュンク堂に行って、ちょっと驚いた。

13年も前に出した、ぼくの本
「k市民」(思潮社刊)が
文芸レジ横の棚に、数冊ショーアップして並べられていた。

棚の上の看板には、「京都の本」とある。

あまりにアブストラクトに変形された「KIOTO」であるのに

ジュンク堂のスタッフにそんな炯眼の持ち主がいるとは!!



驚きついでに

古川日出男という、作家。

「アビシニアン」という作品を買って読みはじめる。

こういう作家がいるのだから、

詩人なんて、吹けば飛ぶ。

その筆力、、、、、、、、。
熱度。







★同時代ギャラリーでの「塩保朋子」のインスタレーションは、不思議な十方世界。

2006年05月19日 15時43分28秒 | 日録雑感

ぶらっと歩いてみるものだねえ。
いつもは、ほとんど自転車で町中は移動するけれど
昼間、雨の中を歩いた。

同時代ギャラリーで
「塩保(しおやす)朋子展」というのをやっていて
作品を見る。

凄いものだった。

空間いっぱいに、遮断するように
紙の壁面が宙吊りにされている。

その紙は、トレーシングペーパーで、微細に穿たれている。

まるで、伊勢型紙のように。

穿たれた、穴が形を見せるのか
残った、つまり残滓が形を見せるのか

色即是空、空即是色なのだ。

それから、ライティングされて、作品の彼岸には、影が「色=識」となる。




獣の毛

そんな感じ。

胸が騒ぐ、危険な「色」(しき=けしきのシキ)。



それから、

雑草の葉の部分をすっかり剥落させた
草の茎だけの、作品もいい。

つまり、草の骸骨。

はじめ、樹脂かなにかかと眼を凝らしてみたら
草の剥製だった。



1981年生まれ

京都芸大、彫刻専攻

置いていた小パンフに

「微塵に十方世界を、過去劫に未来劫をとらえよ」と
書かれていた。

ああ、道元なのだと思った。



5月28日まで開催している。

■ずっと前に書いた、エッセイだけど、道元の引用文があまりにいいので、、、。

2006年05月18日 19時05分35秒 | 日録雑感


★4、5年前に、ぼくが同人誌「紙子」に書いたエッセイに道元の
 かっこいい言葉がいっぱいあったので、一部分コピーしました。

ほんま、これが800年以上も昔に書かれたとは!!!!





 道元の書物を読むときに、詩と出会おうなんて思ってもいなかった。大冊である「正法眼蔵」を体系立てて読んでいるわけではないが、突然、次のような言葉に接すると、驚いてしまう。



    自己の皮肉骨髄を参究し、自己の皮肉骨髄を脱落すると 
    き、桃花眼晴づから突出来相見せらる、竹声耳根づから
    霹靂相聞せらる。



 自分の身体を見つめる。肉や皮や骨や髄とは何かを追求する。すると、それらの実相が見えたような気がしてくる。実相が見えたとたんにそれらが何物かの容れ物にすぎないことがわかってくる。身体もまた、様々な名で呼ばれる記号であることを覚る。皮肉骨髄とは、自己を包む容器であり衣装であると。あるいは、自己の模様や意匠であるかもしれない。
 そうしたものを打ち捨て、脱ぎ捨てる。するとどうなるかというと、道元は、桃の花と眼玉が衝突すると言っている。竹のそよぐ声と耳がぶつかると言っている。
 


    眼皮一枚、自己光明とす



 とも言っている。自己と宇宙の間にあるものは、極薄の眼の皮だけだと。眼皮一枚が、宇宙そのものでもあると読むことができる。自分と世界の間にはなんの解釈も、文化的な介在物もないのである。自己もまた文化的な雑物であり、器官の瞬きというものの絶対性を語っている。自己について道元は、次のように言う。



    自己とは、父母未生已然の鼻孔なり






 と。自分などいうものは、父母たちが未だ生まれていない次元での鼻の穴だと。
 自己という虚妄などに頼るのではなく、世界との親和を料るのであれば、逆に器官による瞬く感応という刹那に頼れと言っているように私には読める。



 桃の花と眼玉が衝突するというが、表現は別にして、このこと自体は、とても普通のことのように思われる。たとえば、三月の頃の京都御所で、私も桃の花に、偶発的に出会ったときがある。ただ歩いていて、ふと見上げると桜の紅よりも濃い、まるまると花弁が群れている桃花が目前にある。これは、とても日常的な出来事である。梅の花でも桜の花でも、たんぽぽでもいい。眼がある事物に爆発的に瞬時に出会う。出会っただけ、見ただけでは、衝突とは言えないかもしれない。身体の器官としての湿潤した眼球が、その尖端の潤いの先で花の群に接する。
 接することよりも、その瞬時が重要であり、道元もまた、この時間のことを語っているようでもある。自己という必然の凝り固まった概念が、ただ悠久の時をたどってもただ、虚空であるのに、器官が、偶然に接する、事物との刹那的な接触は、虚実を超えた、実時間なのである。
 ブルトンがかつてしるした「ミシンと蝙蝠傘との出会い」という言葉と比較してみると、「桃花眼晴」とは、外なる必然(自然)との偶発的な出会いと言える。一方、ブルトンの言う出会いは、人間の内なる必然が語る自己の美学の虚妄にすぎない。つまりそれは、「鼻の穴」なのだ。
 さて、現在という状況の中で、私たちの心中の内なる必然と外なる世界の必然(自然)との偶発的な出会いとでは、どちらに衝迫力があるのだろうか。そして、それらに拠ったどちらの言葉の設いが、詩として切実であるのかを考えざるをえない。



 偶然とは、「こういう風になってしまった」こと。必然とは、「こういう風になっている」ことである。近代的な文脈では、「こういう風になっている」という内なる必然が先行した。主義や思想などによる必然の発見による、更新がずっとなされてきた。更新は、「こういう風にはなっていない」という否定の上書きが重ねられてきた。
 詩、あるいは、現代詩の世界でも、作品は、必然と確信に依拠したものが主流であった。ある種の、弛緩した時間の事後であった。そして、この確信へ至る思念や思考の堆積が、同時にこれまた、必然と確信に依拠した、詩論を形成してきた。それは、「鼻の穴」の時間ではなかったのか。

■スマート珈琲店の有時(うじ)は、午後6時と知るべし。

2006年05月17日 20時32分54秒 | 日録雑感



道元の「正法眼蔵」を、じっくり読み出す。
これまで、石井恭二訳のものを読んでいたのだが
なんだか、さっぱりついていけず
突然、講談社学術文庫、増谷文雄訳本を手にしたときから
少し、身近になった気がした。

原文と現代語訳が並べられているのがいい。
道元は、道元の発語感覚とともに味わいたい。
そのまま、詩になっている。

とにかく72巻の中から
「現成公案」と「山水経」の2巻を。

増谷本を読んで、それから石井本を。

それにしても、道元に没入する人は、
たとえば、寺田透は、ランボーの訳者だし
石井恭二は、現代思潮社の社主で、サド裁判に関わった人。
森本和夫は、サルトル。
春日佑芳は、ウィトゲンシュタイン。

宗教の門からよりも西洋哲学や
言葉の哲学の門から、没入するパターンが多いようだ。

道元は、1200年に生まれた人。

亡くなったのが81歳で
京都の西洞院高辻。すぐ近くだ。
与謝野蕪村もあのあたりに住んでいた。
明日、自転車で行こうと思えば行ける。



さてどこで読むのがベストか、思案しているが
イノダコーヒは最悪だった。
もう、イノダは、町の人が行く店ではなくなった。
観光客が列をなしている。

入ってきたら、店のうんちくばかり語ってうるさい。

午後2時のスマート珈琲は、よかった。
スマートは、午後6時ぐらいが、さらに良い。

日常の、枯れた客が、そのまま枯れている。
いい時間のいい店になる。



一軒となりの書店「其中堂」へ行けば
道元の本がいっぱい。

2B、0.9ミリのシャープペンシルで
ていねいにメモしながら
わからないところもとばさず読む。




しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、
このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、
このゆゑに不滅といふ。
生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。

かっこいい!!

ぼくはとにかくなんの宗教も信ずる人ではないが
道元は、文芸の人だと思う。

生きてる、「ある時」というのは、一瞬一瞬で、「山を登っている」
その時だという。生まれた時は、生まれたその時で、死ぬ時は、死ぬ
その時に過ぎないと。死ぬときも「ある時」の一時。

生きてるも死んでるも、いま生きて知ることはない。

そんなことは、自分の生と無関係だという。

だから不生不滅と。

生きることは、スキーやスケートよ。



時間感覚も
存在論も
たぶん、言語観も
こんな感じだろう。


■岡崎の古本市での収穫、谷川、西脇、永田、石原、道元などなど

2006年05月04日 13時51分37秒 | 日録雑感

すごい気持ちのいい天気。
朝から、岡崎公園で開かれている「古本まつり」へ。

探していたのは、

杉本秀太郎著「伊東静雄」。

会場すべてを見る。見つからず。
ひょっとしたらすでに持っているかもしれない。

読んだ記憶がうっすらある。

セガンティーニの絵画との関係、「半身」の考察など
批判的に読み返そうと強く思っているからこそ探しているのだが
でも何が書かれているかが記憶されているということは、
事務所のどこかにあるのだろう。

自宅ならば、もう探すことも不可能。

で、何も買わなければいいのに次の7冊を購入。

●谷川俊太郎「コカコーラ・レッスン」500円

 「朝の手紙」やこの「コカコーラ・レッスン」は大好き。前衛にファッション
 が加わって、ため息がでるほどいい。菊池信義の装幀も秀逸。

●ハンスリック著「音楽美論」100円

 18世紀の音楽批評。彼は、ブルックナーに批判的だった。バッハやヘンデル
 それからベートーベンの後期にも批判的。なんでだろう?という訳で。

●小林秀雄「作家の顔」100円

 目次の「中野重治君へ」「正宗白鳥」「三好達治」など

●石原吉郎「新選 石原吉郎詩集」200円

 「北條」「足利」「満月をしも」など、読み返したかった詩集集。

●道元「正法眼蔵弁道話・随聞記」700円

 西尾実の訳。前々から、西尾実の著書は集めている。見やすい、上
 下段、対訳。

●西脇順三郎「西脇順三郎詩論集」800円
 
 思潮社がこんな立派な本を出していたんだ。目次に「考えをかくすもの」
 「ナタ豆の現実」「音響と思考」など。老境というか、洒脱で暴力的
 な詩の定義集。驚きべき、毀誉褒貶。

●永田耕衣「山林的人間」2000円(初版)

 ずっと欲しかった本。永田が其角や西脇、道元、一休などについて
 述べている。人文書院。

なかなかいい収穫だった。



事務所に出社して、仕事。
連休明けの多忙を予測したら頭痛。

モーツァルトの交響曲39番を
ミヒャエル・ギーレン指揮の南西ドイツ放響で聴く。

広がり、晴天、切り込み。
モーツァルトの39番に感嘆。



 



  

●道元の「青山常運歩」という言葉を勝手に解釈してメモしておこう。

2006年04月22日 14時51分31秒 | 日録雑感

紙子、11号が、21日にできあがってきた。


目次は、以下。


中の碑                 萩原健次郎
パーティ そして出発          渡辺めぐみ 
旅立ち、その他の詩篇          細見和之
七つの三行詩と三つの四行詩       國重游
和平                  竹内敏喜
連載 よつつじのおと 四
 詩学によりそう背景          竹内敏喜
みとりのすまいにすいきれていく     藤原安紀子
みとりのすまいにすいきれていく一筋の  藤原安紀子
ふぃっしゅ・だんす           内藤ねり
女運の女神               西田裕美
春の鬼ごっこ              西田裕美
婦長さん                小池田薫
菫                   山本しのぶ
朗読する男               山本しのぶ


定価、800円です。




NHK出版の

頼住光子著
「シリーズ・哲学のエッセンス  道元」
を読んでいる。

なかに道元の『青山常運歩』という言葉に見入る。

自分が歩き動いていることを知りたいならば
山が歩き動いていることも知りなさい

という。

詩の読者、詩の他者とは
人だけではない。

山や、宙空もまた、詩における「他」象。

詩という「中の碑」は、「自」象などという
知れた代物なのではなく
ただ単なる、凝り。

この凝りは、外に向かうときは、永遠にしか
向かわず、消えていく宿命下にある。

外から中の碑を判読しようとしても、永遠への指向には
もちろんかなわない。

しかし、凝りたものは凝りたものだから
しようがない。


なにを言いたいのか、さっぱりわからないが
メモしておこう。