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文屋

文にまつわるお話。詩・小説・エッセイ・俳句・コピーライティングまで。そして音楽や映画のことも。京都から発信。

■旧態の詩の流通というもので守られることなど

2008年03月30日 01時41分12秒 | 日録雑感

結局、とても固有の限られた時間と空間の中で
ひそかに、かすかに書かれそれが
同じく、ひそかに、かすかに流通していくような
旧態とした、詩の流通形態も
ぼくは、確固として守られてほしいという
願望があるのかもしれない。
WEB環境と、リーディングイベントの
流通の正義に似た、何かの波に
とても、嫌な違和を感じてしまう。
そういうことをつぶやいているかもしれない。


■詩を書くことは、とても刹那で迂遠な袋小路のけなげさかもな。

2008年03月30日 00時16分39秒 | 日録雑感

なんでこんなこと書いているんだろう。
ぼくは、紙に詩の行が
一行一行あらわれて
それが、ちいさな薄い本になって

その間にいろんな煩雑な雑務をやって
郵便で送って、
いろんな、「けなげさ」が大好きだ。
そうやって、そんなこと好きになつているんだろうな。
詩のリーディングって
ぼくも、よくやっているほうだと思うけど
いつもいつもずっと違和感を感じていて
これは、「けなげ」やないねえ。
と思っている。

紙の媒体で、あんなにもしんどくはかない作業を
へて、読者や読者の反応は
当然のごとく、はかなくて
弱弱しく、薄くて
その当然のごとくが、よく自分に沁みていて
言葉を書いて、それを伝え、感応を得ることは
そこに大事なかけがえなさがあると
思っている。

けなげさ、あやふやさ、薄さ、弱弱しさというのは、
かすかな読者への距離感だろうな。
距離感があるからこそ
書かれたものは、どこかで、中空を迂回して
袋小路を行ったり来たりするわけで
この行ったり来たり、迷ったり
消えかかったりということを
信じているのだろうな。

この中空に投げ出された
迂回のほのかな点滅のような時間を
リーディングの空間でも
いっぱいみんな感応できたらいいなとも思う。
でも、肝心の距離感をあらかじめ閉じて
とってもふつうの出し物みたいな現実にしてしまったら
「けなげさ」までも
ぼくらは、捨ててしまいそうで嫌だ。

この世の中、潔くけなげなことって
まだあると信じたいし、そうしていたいね。

詩の同人誌って、まだ
なにかいっぱい、ぼくは感じなくてはいけないことが
あるような気がする。
リーディングでも、朗読は聴いてくれてはいるけれど
もちろん、けなげさもはかなさも
伝わらないと思うし、
ほんとうに、「読み」の共有が生まれるのかなあと
疑問を抱く。

だれかの詩に感応することって
すごく刹那でもあるし、とほうもなく
長い時を要すると思うし、
嫌悪感を抱くことのほうが多い。
リーディングの空間でも
なぜだか、理屈で理解できないけど
読む側も、すごく嫌悪感を抱くときがあるし
聴いている側も当然そんなときがあるだろう。

それが詩の、ほんとうのことだと思う。

そのことに自然なスタンスをとっていたい。


■詩のリーディングについてのちょっとした思いと自白。

2008年03月29日 21時23分46秒 | 日録雑感

ぼくは、詩を執拗に推敲したりはしない。
冒頭の1、2行の言葉が浮かんだら
パソコンを使って一気に80行ほどを書く。
ぼくは、詩をほとんど、キーボードでしか書いたことがない。
もちろん、道を歩いていて詩行が浮かんだときなどは、
喫茶店に入って、店の人にボールペンなどを借りて
なにかの紙に一気に書くこともある。
仕事上だが、ワープロを買ったのは、まだ70年代だったかもしれない。
コピー機のレンタルとだきあわせかなにかで
280万円ぐらいの価格だったように記憶している。
5インチぐらいの紙みたいなディスクを使っていた。
ぼくは、詩を書く姿を、あまり他人に見られたくない。
ぞっとする。
詩を書いている自分の姿を他人に見られることを。
ただ、まったく知らない人になら、見られても
いいかもしれない。
自分の詩を他人に、披歴することは、とても
寂しい、悲しいことだと思っている。
自分の詩は、他人とはなんら関係のない
かかわりのまったくないことだから。
だから、リーディングをすることは、ちょっと異常な
恥ずかしさにつつまれる。
その気持ちをぼくは、誤魔化したりしたくない。
恥ずかしいことにきまっている。
極地だし、果てだし
辺境だし、追い詰められてぎりぎりだし。
自分だけの固有の時間と場所だし。
そんなもの「共有できるわけがない」と思う。
細さを信じたい。
あやかさ、あやうさ、異様さを忘れたくない。
ぼくは、リーディングでの読み方の技術など
蔑みたい。それこそ、希釈であり
それこそ欺瞞の正体だから。
また、それをいやがおうにも求められ強制されるような
リーディングのシチュエーションは嫌いだ。
純粋な「恥」が誤魔化されて、
堂々たる、声に替えられてしまうから。
たまに、詩のリーディングのときに
テキストを持たずに、暗記で読む人がいるが
どうなんだろう。
あんなことしたら、恥が失われる。
暗記という技術が介在するし、演技の披歴に
すりかわる。ぞっとするほど、
それを見る自分が、恥ずかしい。

ちょっと思いついたので、メモのつもりで。





■紙子15号、伊東静雄論の8回目、そして外は、雨、雨、雨ダス。

2008年03月14日 18時42分46秒 | 日録雑感

詩誌「紙子」15号は、いま校正段階。
4月の初め頃には、できあがってきます。

ぼくは、作品『外地』を書いた。

連作「双児の艸」シリーズ。

ぼくが書いている一照の地にある双児の艸。
それをぼくは写真に撮ったのだが
それは、私の「生の外地」のことなのかなあ
といった詩。

それから編集工房ノアのPR誌「海鳴り」に
連載中の『伊東静雄論』の8回目分を書き上げて
原稿を送付。

今回は、伊東の「朝顔」の詩3篇を引用しながら
伊東における
「擬我」「喩的身体」など
造語をからめて
彼の詩の両地平としての、彼岸と此岸についてなど
頭、ぎゅんぎゅん抱え悩みつつ書く。

この間、

杉本秀太郎や長野隆の著作とともに
なぜか
上田閑照「実存と虚存」ちくま学芸文庫
    「言葉」岩波現代文庫
山口昌男「文化と両義性」岩波

なども読む。

詩は、身体的、時間的には「錯誤」や「無」であり
唯一、空間的には、「虚無や錯誤」の結路として成る。

錯綜した、多次元の現/実存と
混沌錯乱した、詩作品の虚/存のはざまには
場所しかない。
身体や時間は、滅するが、場所(空間)は滅びない
のではないかと

思いながら昨夜、睡眠していたら
その理屈が「夢」にでてきて
夜中の3時に、目が覚める。

メモをとろうかと考えたが、
そうしたら眠れなくなりそうなので

とにかくテレビをつけた。

どのチャンネルも、天気予報ばかりで

雨、雨、雨、、、、、だと。






聴いている音楽、

一時は、ブルックナー、脱出を試みて
シューマン、シューベルト、マーラーとたどるが
またまた、ブルックナー。

とくに、3番と6番。
最近よく聴くのは、ウィリアム・スタインバーグという
マイナーな指揮者。

それからいまかけているのが

「レディオヘッド」のトム・ヨークが好んで聴いている
という、

ペンデレツキの「チェロ協奏曲」。
まったくもって、頭、ぐちゃぐちゃにびしょびしょに
なる音。

ああ、ロック聴きたい(聴けばいいのにね)
それから、トム・ヨークって、マガジンやREM
好きなんだよね。

ぼくも、一時期、
バズコックスやマガジン
それからマイケル・スタイプ
トム・ヴァーレーンなんかばっかり聴いていた。

ああ、ロックなジャズの世界に戻りたい。

この前、バーゲンで

チャーリー・シェイバースとレイ・ブライアントのコンボ盤が
NO1から3まであって、すべて購入。
60年代の音源なのに、まんま中間派の音で
癒されます。



で、トム・ヨークって
ほんまにペンデレツキ、聴いてるんかいな。

それにしても、このチェロコン
美しい悪夢です。


●本年最後にヤフオクで届いたCDを聴きながら、、、

2007年12月31日 18時30分12秒 | 日録雑感

今年もずっと、ヤフーオークションのお世話になって
いろんなCDを楽しませてもらいました。
大みそかの、きょう届いたのが
もちろん最終便。

前々からずっと欲しかった、
ケイコ・リーの「秋桜」でした。

暗い歌唱ですが、秀逸です。

山口百恵とは、まったく違った曲想になっています。



みなさん、今年はどうもありがとうございました。

来年もよろしく楽しく、おつきあいのほど
お願いいたします。




京都・比叡山麓より

やがて除夜の鐘が聞こえてくるでしょう。


■この夏は、たくさん詩を書いた。流茫、退却する蟻の図が浮かんでは消えて。

2007年09月06日 10時27分06秒 | 日録雑感


きのう、昼飯時に
心のどこかに、武満徹の音楽が鳴って
都市の溝に、無数の蟻たちが流茫、退散、消去される
ようなことをイメージ。
自転車で、京の小路を走っているときだ。

詩は、いつもこんな感じで書きはじめられる。

すっと行くときは、ほぼ20分ぐらいで
50行ぐらいに草稿があがる。

この夏、8月締め切りの詩作品が7件もあった。

みな、水にまつわる作品ばかりだった。

蟻が流された、豪雨、あるいは驟雨。

その雨は、この世界を描く、素描の主体で
夏の人々は、その蟻よりも淡い、主や身で
受動的に構成され、描かれている
と思った。

連作進行中の「双児の艸」でも
似たようなことを考えている。

右耳の上のこめかみあたりがずっと痛く
湿布をしたりしているが、調べる必要があるかも。

7作も書いて、雑誌に送って
その間に、通販カタログなどのコピーも仕上げる。
湿布を貼りながら
ゴルフの月例競技にもでる。
祇園に行くような生業関連の日常もある。

詩を書く、その「書くこと」を日録になど
しるしたことはほとんどないが
疲れた、夏だなあと思う。



ステレオではなくて、
50年代のモノラルの音源に親しんできた。

8月から9月にかけて
ウィリアム・カペルというピアニストの音。

これも、なぜだか
「水」を感じて聞いている。
ミケランジェリの音も。
ピアノの音、「風」よりも少し、少しだけ
ソリッドな粘りのある「水」がいい。

それは、すぐに、退却して、流茫して消える。

この夏は、そんな夏だった。


★伊東論を久しぶり。音楽はもう、過激に飢えて。

2007年04月13日 14時42分09秒 | 日録雑感
みなさん、お久しぶり。
伊東静雄論の第7回目をやっと書きあげる。
大阪の出版社「編集工房ノア」のPR誌『海鳴り』に
連載中です。連休明けには、出るでしょう。
大きな書店で問い合わせていただければ、
無料でいただけるはずです。
前回で、伊東の卒論「子規の俳論」にふれましたが
今回もその続き。

日記や彼の卒論、詩作品や、手紙までずっと
読んでいると、近しい感情が湧いてくる。

あんまり、接近してくるのもよくない。
対象なのだから、シンプルにテキストと向き合わないと。

きのう、松坂投手のインタビューがよかった。
「清原には、尊敬はしても敵対心は沸かないけど
イチローには、なぜだか、敵対意識がある」というようなことを
言っていた。当たり前のことだ。

プロ意識とは、目的意識のことであり、
感情ではない。プロにとって、感情とは、時に邪魔になり
目的を濁らせる。

松坂投手は、優れたプロフェッショナルだ。

今回の伊東論は、短い。次の展開への扉となる予感。
末尾は、次のような言葉。

 「読人不知」とは、そうした回避の署名なのだろう。詩人に、
 現実や現在がある。そしてそれを自覚しつつ「内的真」をあぶ
 りだそうという意志さえある。ところがこの現実に、偽装に似
 た衣を着せる。伊東の場合、そうしたアイロニカルな衣装が、
 五官的触知に拠る、国文学的な語法であった。

甘い。甘すぎる。松坂を見習いたい。



音楽、

あいかわらず、ブルックナーとマーラー主体。

最近、

エネスコ。(〜1955)ルーマニアのヴァイオリニストだが、
管弦楽曲でも鋭い曲を書いている。
ほそい、狂的。
ヴァイオリン・ソナタやピアノ四・五重奏曲なども。

アルヴェーン。(〜1960)スウェーデンの作曲家。
「岩礁の伝説」という管弦楽曲。暗し。胸おどる。

ヘンツェ。(1926〜)ドイツの作曲家。まだよくわからない
けども、この音楽は、尋常では対処できない。胸おどる。

その他、やはりアルヴォ・ペルトとギャビン・ブライヤーズ
など。

コルトレーン。(〜1967)ジャズ、サックス。
先日「情熱大陸」の「不肖・宮嶋」のバックで鳴ってて
久しぶりに、驚いた。コルトレーンは、耳の端で鳴ってて
こそ、偉大さに驚く。で、突然「クルセ・ママ」などを
取り出して聴く。エルヴィン・ジョーンズの力は大きい。
マーラーなんかよりも、現在だと思う。

メンデルスゾーン(〜1847)言わずと知れた。
やはり天才。耽美、審美の人。交響曲の3と4。室内楽
それから、管弦楽シンフォニーなども。だいたい
若書きの曲は、誰しもあまりよくないが、この
メンデルスゾーンは、十代の頃から凄い。
その少女漫画的な美少年ぶりの肖像も綺麗。
水墨画のような絵も、なかなかのもの。

そんなこんなです。



阪神タイガースは、強いのやら弱いのやら、不明。

■年末年始の見聞。ほんとうにたいしたことは、なにもない。

2007年01月05日 16時07分47秒 | 日録雑感


正月は、ろくなTV番組もなかった。
つまらない。驚くべき、低予算。
安直なアドリブがきく、タレントにしゃべらせておくだけ。

まあまあよかったもの。

津軽の大間のマグロ漁船とマグロ釣師のドキュメント。

あとは、

タカ&トシの漫才。
とくに、つっこみの声量。
久しぶりの、漫才における物理的芸にうなる。

昨日のリンカーンの
シャッフル漫才における
さまーず二人の壺に入ったアドリブ芸。
とくに、大竹の暴力的身振り。

正月は、
年末に100円で買った
竹田青嗣の哲学の本を読む。
事務所からもって帰った
エリアス・カネッティの「マラケシュの声」は読めず。

ルドルフ・ケンペ指揮の
「シェラザード」「幻想交響曲」「新世界より」
を聴く。
ブックオフで250円で売っていた
ヘルベルト・ケーゲル指揮
「幻想交響曲」、鐘の音が日本のお寺の鐘の音みたいで
びっくり。
あとは、マーラーの9番をザンデルリンク指揮のもの。
6番をツェンダー指揮のもの。

きょう5日、事務所ではじめてかけたCDは、

ハンス・ロットの交響曲。

年末年始で、もっとも感動したのは、

レイフ・セーゲルスタム指揮の「シベリウスの2番」。
夜、車の中で、大音量でかけていたら
興奮して、泣いた。
震えて、ほんとうに涙が出た。
自分が死んでも、記憶に残るとさえ思った。





そうそう、なぜか
古本屋で売っていた
「中欧」の旅行ガイドブックをずっと眺めていた。

ハンガリー、チェコ、ルーマニア

行ってみたいなあ。と。




●暮れていく、2006。そして2007年には。

2006年12月30日 11時57分21秒 | 日録雑感


ことし一年、プログでおつきあいいただきありがとうございました。
この一年は、
とにかくブルックナーの音楽にあけくれました。
「死んでも忘れない」という言葉
きっと、ある音楽は、私の肉体が滅んでも
身体ではない、何かが記憶し
死んだ後にも、自分自身が思い出すようにも思える。

ブルックナーの後には

シベリウス
ヴォーン・ウイリアムス

の交響曲。

あとは、

チャイコフスキーの5番
ドボルザークの8番
ベートーベンの7番
シューマンの4番
シューベルトの5番

をよく聴いた。

いろいろな曲の素晴らしさを教えてくれたのは

ルドルフ・ケンペという指揮者であったように思う。

いま事務所に出社。

書店へ行って、中沢新一の「芸術人類学」という本を
買いにいく。

明くる、2007年には
久しぶりに
たまりにたまった作品を編集して
新詩集を出す予定。