『秋寂び』1968年(『今、ふたたびの京都』 求龍堂)
いつか訪れるなら絶対に紅葉の季節にしよう、と決めていた光悦寺。今年こそはと意気込んでいたのに、残念ながら逃してしまいました。でも、光悦垣は見たかったし、あと一年も待てなかったので、本日行ってまいりました。紅葉のないのは仕方ないとして、画伯の構図を探して撮ったのが次の一枚。
落葉してますが右上に木の枝がありますし、光悦垣の角度も、右側に2本の緑の竹という配色も同じでかなりイイ線ですが、問題は手前の木。どう見ても絵の黄色い葉っぱ(萩でしょうか?)と種類が違いますよね。
でも他にそれらしい枝はありません。見落とすほど広くもないので、この構図は創作かも? と思いつつ、お寺の方に伺いました。
すると、くだんの枝は毎年9月くらいに、葉が黄色くなる前に根元から刈り取られるというお答え。刈り取ることでまた枝が生えてきて、翌年きれいな花を咲かせるのだそうです。画伯が訪れた当時は、そうした手入れをされることがなく、葉が黄色くなるまで(つまり枯れるまで)そのまま置いておかれたのではないかというお話でした。
つまり、紅葉と黄色い葉というこの景色は、現在ではもう見られないものだったのです。
この絵は何度か実物を拝見していますが、『秋』というタイトルが入っているのに、紅葉が画面の端にほんの少し見えるだけで、この黄色い葉っぱが中心に置かれているのをいつも不思議に思っていました。
お話をうかがって、画伯は今を盛りと色づく紅葉の下で、ひっそりと一つの季節を終えようとしている黄色い葉の命を惜しみ、そこに美を見出したのだと、とても腑に落ちました。だから『寂び』なんですね。
この絵がますます好きになりました。また出会える日が楽しみです。