迷狂私酔の日々(再)

明鏡止水とはあまりに遠いこの日々。

寛容ということ【2011雲南】DAY15・帰途

2011年04月26日 | 旅する。

4月26日 火曜日 広州→成田→横浜

【帰り仕度】
浴室からはまだ水がひかない。マットが備えてある意味がわかった。

早く起きたので、早く出ることにした。「空港へのトランスポートを予約時間から早めてくれ」という英語を分かるスタッフがいない。しょうがないので、勝手にバスに乗ることにする。有象無象がいるあたりで待つとバスが来た。やはり名簿の確認はなく人民はなだれをうって車内へ。6時37分に発車。

【広州白雲空港でさまよう】
バスは10分で空港の国内出発フロアに到着した。ドライバーに「国際線は?」と聞くと向こうを指さす。ふむ。しばらく歩いてから、いかにも英語ができそうな女性に聞く。
「INTERNATIONAL DEPARTURE、HERE?」
戻って最初を左へ曲がるのだそうだ。ハキハキした英語だった。あのドライバーめ、適当なことを言いやがって。

ANAのカウンターにはすでに行列ができていた。いったん並んでから隣の「BAGGAGE DROP OFF(手荷物預け)」という窓口に気づく。ネットでチェックイン済みのはずだから、こっちでいいんじゃないのか。問題なくそこで荷物を預けて手続き終了、搭乗開始まで1時間38分ある。さあ、自由だ。

【最後まで中国】
フロアを探検するが、お茶もCDもないし、本は中国語のみ。買い物のあてがはずれた。

【中国元を使い切る】
ゲート近くの店で携帯お茶のみポットを見つけた。120元(約1500円!)と今まで見たどこよりも高いが、他に現金の使い道を思いつかない。さらにお茶を2種類(55元と60元)買い、5.5元を残してようやく中国元の現金を使い切る。

搭乗は予定通り始まったが、機内で離陸待ち。その間に税関申告書を書き、毛布をもらう。10時にようやく離陸した。

今回はマイレージでANAだから、フルサービスである。赤ワインにチキン照り焼き、フルーツ、チョコレート、コーヒーなどなど。せっかくなんで機内プログラムも聞く。シェーンベルク「浄夜」、リヒャルト・シュトラウス「13管楽器のためのセレナーデ」に、マーラー「復活」をサイモン・ラトルで。まだバーミンガム響で振っていたころからこの指揮者は好きだった。14時50分、着陸。

【ひどいのはどっちだ?】
成田空港で携帯のエリア設定を日本に戻し、時計を自動補正にする。空港は節電でうす暗い。JR久里浜行き快速に乗る。計画停電で成田エキスプレスは間引き運転になっている。

2時間弱で横浜。乗り換えの私鉄駅で電車を待っていると「かえるー! かえるー!」の大声がした。発達障害の子どもとその母親らしい。「ひどいね」と眉をひそめる「良識」の側の人々。ひどいのは「ひどい」という言葉で排斥をする側だ。

「寛容」は、他者のためだけでなく、自分のためにも大事だと思う。おおらかに、いい笑顔で旅をしたいものだ。


最後に飲茶【2011雲南】DAY14・広州へ飛ぶ

2011年04月25日 | 旅する。

4月25日 月曜日 香挌里拉(中甸)→昆明→広州

【大きな本屋で】
雲南を離れる日になった。今朝は古城ではなく新市街へ北上していく。昨夜のサム教授の話では、その辺に大きな本屋があるらしい。

店内は暗いが開いていた。1階(旅行者向けか地図、写真集)、2階(辞書、教科書)、3階(文学、実用書、他)と、その店舗の大きさと品揃えの傾向からいって公営かそれに近い経営ではないかと思う。

中国地図15元と雲南地図10元を買った。

【逆光に輝くタルチョ】
店を出て古城に戻る。いい天気だ。空は透き通って高く、どこまでも青い。駐車場の客引きたちを笑顔であしらい、何度も歩いたはずの通りでいくつか新しい発見をする。いまさら迂闊な話だが。

強い逆光で人々がシルエットになる。今日もタルチョがはためく。昨日のチベタンチョコレートのカフェを通りがかると、ちょうど女性が外に出てきたところだった。挨拶して、朝食を食べようかと店内へ。暖炉そばでなくあえてテーブル席を選ぶ。

【ヤクのチーズで朝食】
トーストにヤクチーズ載せ20元と、別にコーヒー15元を頼む。

米米クラブ好きのダンナが起きてきた。寒くないか? と聞くので「BECAUSE I WAS BORN IN YAMAGATA、YOU KNOW.」と答えると、彼は「ああ、そうだったね」と山寺の思い出を語りはじめた。

【BLACK POTTERY】
この近くに温泉があるそうだ。「妻の姉妹たちやシェフもいるし、温泉にランチを楽しむハイキングはどうだい? 妻の親類がやってるから安く行けるよ」と誘ってくれたが、残念ながら今日の飛行機で帰ることになっている。
「昆明から広州か。暖かくて、おいしいところだね」
女性は尼西(ニシ)の出身で、そこは昨日バラクソンへの往復で通ったところだ。このカフェの名前でもあり、展示しているBLACK POTTERYは地元の特産。染めて黒いのではなく、二度焼くことでこの色が出るという。

【小さな本屋で】
カフェを出てさらに東へ。また広場にやって来た。孫を子守りしている祖父母らしき風景に心を和ませる。

ゆるやかな笑顔が青空に映える。やることがないので、再び朝陽楼まで登る。石屋根の波、はためくタルチョ、巨大なマニ車。

帰り際に小さな書店に寄ってみた。曼荼羅の図版集があればいいな、と思ったが、適当なものが見つからない。さっきの大きな書店と違い、チベット仏教、文化に関する書籍類が多い。ここでJames Hilton "LOST HORIZEN"(英語版)を購入、25元(約313円)。

【タクシーをシェアして空港へ】
11時30分にはパッキングを終えて宿の中庭へ。

中庭でストーブを囲んでiPadを開く。メールチェックをして、iPadに入れてある旅行写真をアンドレに見てもらう。「ナーリ(ここはどこ)?」と聞くしぐさがかわいい。

アンドレのすすめで同宿の客とタクシーをシェアすることになった。実は早めに出たいのだが、「TOO EARLY(まだ早い)」と制される。客はカップルで、昆明に住んでいるそうだ。時間になると二人でタクシーを捕まえに行ってくれた。
「OK、LET'S GO!」
宿を出る。アンドレに「謝謝、再見!」と手を振って別れる。

車内で「タクシーには僕たちが払うから、僕たちに10元を」と耳打ちされた。ドライバーと20元か30元かでせめぎ合いしている様子だ。もちろん任せる。空を切り取るような稜線がきれいだ。10分もしないでシャングリラ空港に到着した。実に近い。

「昆明はいいところだって? 工事中ばかりでよくないよ。でも5年後には、ね。地下鉄は3年後だし」未来への疑いを知らない自信がみなぎっていた。

空港はむやみに広く、巨大な空間ゆえに逆に空疎さが際立つ。カウンターで昆明乗り継ぎ広州までのチェックインを済ませ、トランジットカードを渡される。キャリヤーは中国東方航空。

【50分遅れで飛行機はラサからやってきた】
2階には土産物屋が並ぶ。シンギングボウルがあった。

滑走路の向こうに銀嶺がそびえる。

搭乗開始予定時刻は過ぎたが、まだ搭乗は始まらない。ラサから飛行機はかなり遅れて到着した。

搭乗してすぐに離陸したが、およそ50分遅れになったので、昆明から広州に乗り継ぐコネクションフライトについて機内で質問した。尊大な構えだったCAが急に深刻な顔をしてコクピットへ急いだ。戻ってきて説明することには「昆明空港でのトランジットをアレンジする」という。係員が待っているそうだ。

【乗り換えは裏口から】
昆明空港に着陸。機内通路で人民は我先にと争うが、空港ターミナルまではバスに乗って移動するので急ぐ意味はあまりない。バスを降りて係員に搭乗券を提示すると「ここで待って」と言われ、他の乗客の誘導が終わってからその係員について行く。

「staff only」の通用口から客のいないカウンターに回り、トランジットチェックインの手続きをすませた。つづいての指示が中国語なのでわからないが、仕草を読み取ってエレベーターで2階へ。そこが搭乗ゲートへの回廊だった。空港の裏側から搭乗ゲートまで近道をショートカットしたもよう。

搭乗開始2分前にGATE50についた。土産物屋では雲南小粒珈琲を4桶100元で売っていた。麗江では1桶10元だったのに。携帯茶飲みポットの中に茶葉入れがあるタイプは100元だった。「高い!」と買わなかったのだが、広州白雲空港ではさらに高かった。

【機内食は隣人と同じ】
搭乗ゲートに行列ができていた。今度は定刻らしい。バスに乗り、搭乗、タキシング、すぐに離陸。著しく眠い。しかし、このフライトでは軽食が出る。まずオレンジジュース、機内食のチョイスが不明なまま、隣席が「ミーファン!」(米飯!)と頼んだら、私にも同じものが来た。隣は連れではないし、連れだとしてもチョイスはフツー聞くものだが。

中身は牛肉飯とミニパックの松茸、なめこ(佃煮のようなもの)、りんごチップなど。すぐにドリンクが回ってきたので「coffee! 」と叫んだら、置いてあったオレンジジュースを飲んだカップにそのままミルクコーヒー(砂糖入り)を入れてくれた。この大雑把さが何ともいえない。

【ホテルがあまりに高いので】
18時13分、広州白雲空港に着陸。飛行機が停止するや機内はみんな立ち上がり、携帯で話す大声が響く。荷物をピックアップして出口からホテル紹介のカウンターへ回る。最後の夜なので、ちょっといいホテルで休んで飲茶なんかしたいという思惑は見事にはずれた。

「いまはFAIR(交易会)があって最低でも800元(約1万円)だ」
ただでさえ高い広州のホテルがさらに高くなっている。
「エアポートホテルの方が安い、例えばここなら200元(約2500円)」
空港近くの宿で送迎してもらう方がラクだし、時間も節約できるし、市内への交通費もいらない。明日朝は早い。市内までバスで行って安宿をこれから探すのは面倒だし、飲茶は諦めてゆっくり寝るだけにするか……。川は低きに流れ、人間は怠惰に傾く。エアポート近くの200元のホテルに決めた。ちなみに200元は今回の旅行ではいちばん高い宿代になった。

【100元の使い道はあるか?】
ホテルは広州人和怡東酒店、GOOD EAST HOTEL。カウンターでずいぶん待たされたあと、愛想のない警備員のような女性に無言で誘導されて出発階の3階へ。すぐ外の駐車ラインにホテル名を書いたバンが停まっていた。荷物を抱えて乗り込む。出発客を空港に送ったクルマを動かさずに乗る人間の方を移動させるのが中国式か。高速を人和で降りるとすぐそこがホテルだった。パスポートと明日朝の航空券を見せ、空港へのトランスポートは朝8:00、モーニングコールは7:30にしてもらう。デポジットは100元。明日朝このデポジットを返してもらって空港で使い切れるかどうか。

【窓のないカビくさい部屋】
エレベーターに向かう。オヤジがひとり先に乗っていたが、待つこともなく扉を閉めて平然と上がる。もはやそんなもんだろうと驚きもしないが、ひと呼吸おいてボタンを押したらすぐに扉が開いて、ひとりで先に上がろうとしたオヤジを止めるかたちになった。意図せず、マナー知らずに逆襲した気分。

カビくさい、窓のない部屋だった。広く、ダブルベッドで浴室にはバスタブもあるが、普通の時期ならこの部屋に200元は払わないだろう。後学のために宿の案内とルールを読む。空港送迎無料に加え、市内へのトランスポートも1回は無料らしい。1階にレストランとカフェ。CHINA NETのWiFiもあるが、ログインが必要だったので試さなかった。

【物流の街】
夕食に行こう。階段を降りると右手に「餐庁」のドアがあったが、無視して外へ。今ごろになってカーゴパンツのポケットから20元札を2枚発見した。たぶん60元の買い物に100元出した時のお釣りだろうが、いつだろう?

「超市(スーパーマーケット)」という名の小さな売店があった。日本にも時々「○○スーパー」という名の個人商店があるけれど。隣に大きなスーパーもどき(百貨超市)があり、道路に面して大型テレビが並ぶ。そこに人々が集まっていて、まるで街頭テレビのようになっている。暑い地域では日が暮れてから外で涼む習慣があるので、その延長かもしれない。

食堂がいくつか並んでいて、意外に繁盛している。「空港に近い」と聞いて閑散としたエリアを想像したが、どうやら高速道路の近くで物流拠点や工場が進出しているようだった。郊外住宅地とは明らかに客層が違う。

通りを大きなバスが行き交っている。泊まっているホテルの隣が不夜城のように賑わっていることに気づいた。道を戻ってみれば、さっき無視した「餐庁」のドアを通って行くホテル付属のレストランが、この界隈で一番人気だった。

【最後に広州の飲茶】
システムがわからないまま、席に座る。とりあえず、皿や箸のセットとお茶はきた。菜単(メニュー)を請求するが、要領を得ない。蒸籠や点心をのせたカートが来て、小皿を見せられる。あ、飲茶か!  と今さら気づく。

チャーシューを一皿、タケノコを一皿もらう。いずれも柔らかくて歯ごたえがあり、滋味がにじみ出る。タケノコがしみじみと辛く、ビールを頼む。銘柄がわからないので隣席の瓶を指差して、珠江の生ビールにする。

蒸籠から海老焼売と翡翠焼売を取る。これがまた至福のうまさ。味、歯ごたえとも申し分なく、噛む度に芳香が立ちのぼり、脳髄に沁み渡る。

中国最後の夜、しかたなく泊まった空港ホテルに地元で人気の飲茶があったとは。思わぬご褒美だった。米飯(ミーファン)を頼む。客の回転はよく、夜も遅いのに空いたテーブルが次々と埋まっていく。蒸籠からもうひとつ、焼売系でひと籠に3個の高そうなやつを取って、これで打ち止めにする。できれば、こうした飲茶は大勢でわいわい食べたいものだ。

勘定は計62元(試算例:蒸籠から6元×2、8元×1、チューシュー14元、タケノコ14元、茶2元、飯3元、巾[ティシュ]1元、ビール8元)におさまり、どーにか予想の範囲内だった。

ホテルに帰り、バスタブに栓がないことに気づく。それはシャワーで済ませればいいから問題ないが、どうやら排水に問題があるようで浴室床に水がたまり、なかなかひかない。


桟道の孤愁【2011雲南】DAY13・巴拉挌宗へ

2011年04月24日 | 旅する。

4月24日 日曜日 香挌里拉(中甸)

【巴拉挌宗に行くには?】
今日は巴拉挌宗(バラクソン)に行こうかと思う。崖に取り付くようにめぐる桟道を歩いてみたい。だが、昨日見つけた「巴拉挌宗ツーリストインフォメーション」はまだ開いていなかった。青空に名残の月が浮かんでいる。

【Aチベット粥を試す】
ATMを探して新市街まで足をのばし、中国工商銀行で500元を引き出した。戻るとタクシーたまりの男たちに次々と声をかけられたが、笑顔で断る。ここでVISAのATMを発見した。宿から出て1分のところ。しかも日本語の案内まであった。どうして気づかなかったんだろう?

巴拉挌宗インフォメーションはまだ開かない。すぐそばのSEAN'S CAFE no.2で朝食にする。チベット粥10元と雲南珈琲(ミルク入り)15元。

甘めの小豆入り粥に、やや雑味のある珈琲。ここは英語が通じるし、観光情報にも詳しいようだった。西洋人ツーリストたちが根城にする感じの店だ。

【中国エリートと同行する】
ようやく「巴拉挌宗ツーリストインフォメーション」が開いた。

英語を満足に話せるスタッフがいないため、説明が要領を得ない。帰りは18時ころになる、往復の費用50元だけをここで払えばいい、と判明したところで、予約客らしい夫妻が来た。上海から来たそうで、きれいな英語を話す。30代後半の富裕層か、野村證券からもらったというデイパックを持っていた。もうひと組のさらに若そうなカップルも英語を話す。どうやら中国のニューエリート層と同行することになるようだ。

大きめのツーリングワゴンに客は計5人、二列目と三列目に二組のカップル、私は助手席にゆったり座る。怖そうなオヤジが運転するが、フロントにマニ車がのっているところを見るとチベット族のようだ。

途中で女性2人がdico'sで買い出しに走っていった。どうやら昼食は自前らしい。ちなみに私は非常食を常に持ち歩いているので、何とかなる。もとい、何とかする。

工事中の区間では徐行や信号待ちなど時間がかかる。途中停車して証券マンが走り出したので、私も降りる。予想通りトイレだった。いい勘をしていた。路傍の公衆トイレには人民の排泄物が山盛りになっていた。

車内後方から酸梅味スナックが回ってきた。日本で言えば梅干し飴みたいなものか。若い方のカップルからだった。一般人民のある種押しつけがましい親近感とは違うが、友好のしるしをいただいておく。

【通天峡桟道を行く】
11:45、香挌里拉大峡谷旅客接待中心、景区(公園)の入口に到着。巨大な建物はホテルで、駐車場に民族衣装のガイドらが待ち構えていた。証券マンがその民族衣装のガイドと交渉し、みんなで一緒にいくことになる。各自186元(約2325円)をここで支払う。ここからのバス代と入場料が込みのチケットになっていた。

大きなバスに乗って川沿いを走る。ここも一種のパーク&ライドで、それは高額の入場料を課金するシステムとして機能していた。バスが着いたところから、通天峡桟道を歩く。ここは巴拉挌宗神山のふもとにあたる。岩壁にNATURE-MADE BUDDHA、つまり自然にできた釈迦像がある、ということだが「そう思えばそう見える」というたぐいであった。

切り立つ崖に取り付けられた急な登り道は鉄骨の足場に木の板が載る構造で、整備されている方だが、女性たちは不安がる。時々木が腐ったか、抜けているところがある。むしろ、もっと昔ながらの崩れかけた桟道を期待していたので、ちょっと拍子抜けした。

道はさらに崖を上っていく。撮影しながらゆっくり上ると、小さな休憩所になっていた。ここから先には行けないそうだ。来た道を降り、待っていたバスに乗ってさらに先へ。

【学校の先生?】
バスが着いたところは香挌里拉大峡谷という名前で、急流沿いに延々とつづく桟道には香挌里拉桟道という名前がついていた。なにがなんでも「香挌里拉(シャングリラ)」にしたい強引さがうかがえる。斜面に馬が放牧されていた。

ここでガイドから帰りにラフティングするか尋ねられる。他のみんなは行かない。車内で梅をくれた彼によれば、ラフティングには短過ぎるという。ここは協調性を発揮してみんなと一緒に歩いて往復することにする。

この道はずっとフラットで、川沿いの崖に懸けられた桟道を歩いていくことになる。さっきはいろいろあった解説もない。民族衣装を着たガイドが先に歩いていく。河原に降りると積み石がいくつかあった。

高山にあるならケアン(ケルン)、この地方ならチベット仏教のストゥーパに類するものかもしれないが、日本人には「賽の河原」を連想させる。

ライフジャケットが積んである場所に着いた。ラフティング用か。ここが終点らしい。また歩いて引き返す。みんなそれぞれに対岸を眺め、川の流れに耳を傾け、花を愛でる。

車内で梅をくれた彼から「学校の先生か?」と質問された。明日の飛行機で帰るそうだ。一行はバスで出発点の香挌里拉大峡谷旅客接待中心まで戻った。

【ナパ海を見下ろす】
ここからは怖いオヤジのクルマに乗り、帰途につく。工事で発破をかけたらしく、白煙の上がる道を少し待ってから通過。その先でも工事で5分ほど停車。少し進んではまた停車。

ナパ海(漢字では納[巾+白]海、上の写真を参照)を見下ろす展望地でクルマが停まった。ここに来るか巴拉挌宗にするか迷ったので、ナパ海を見られるだけでも嬉しい。

湿地帯に広がる草原を上から眺めるだけだが、馬がいて、ストゥーパが立ち、タルチョが風に舞い、湖が広がる風景は美しい。

帰途、長征大道に面したホテルでカップルは2組とも下車していった。あとで知ったが、彼らが泊まっていた香挌里拉天界神川大酒店は1室1000元以上の5つ星ホテルだった。100元や130元の部屋で「贅沢だなぁ」と悦に入るビンボー旅行者とは格が違った。

古城入口でひとり降りて宿に戻る。

【お仕着せのタルチョ】
夕食に出かける。四方街の踊りの輪から、女の子が駆け寄ってきた。

四方街から東へ。どの道も広場に通じるつくりだ。通りから空にかかるタルチョを見上げる。ここのタルチョの一部には、よく見ると当局のスローガンが書いてあったりする。そういえば、ストゥーパや聖地ならともかく、商店が並ぶ通りにこんなにタルチョがあるのははじめて見た気がする。

広場からマニ車と朝陽楼を見上げる。

月光広場にはまた踊りの輪ができていた。

北側の道はストゥーパのある小さな広場に続く。

【沈黙の聖なる石】
レストラン探しで今日も右往左往するが、結局このLHASA RESTAURANTに決める。東北チベットにあたるアムド地方の料理店のようだ。

メニュー看板に静静的[口+麻]昵石/THE SILENT HOLY STONESと出ているのは映画(邦題「静かなるマニ石」ペマ・ツェテン監督)のことだろう。入店してみたが誰もいない。キッチンに入って呼ばわっても出てこない。しばらくテーブルに座って待つことにする。ようやくメニューをもらい、[口+加][口+厘]土豆鶏/ポテトチキンカレー26元と蔵式肉餅/ヤク肉入りチベタンブレッド26元を注文する。

映画のDVD(あるはビデオCD)をかけるが、接触が悪くて音がぶつ切れになる。テレビ画面もごく小さい。最初は店員が韓流ドラマでも見るのかと思っていたが、どうやらこれが"THE SILENT HOLY STONES"らしい。カレーもヤク肉パイもうまいが味が単調で少し飽きた。数人でいろいろ頼んでシェアするのが賢いと思う。

【暖炉を囲んで】
昨日見つけたチベタンチョコレートの店へ入ってみる。昨夜もいた白髪白髭の老紳士は同じ暖炉のそばに座っていた。小さな男の子と女の子が遊んでいる。丸刈りの男の子は白髪白髭紳士に「リトルモンク」と呼ばれていた。

「ニーハオ! ハロー!」と女性がメニューを持って来てくれた。「寒くないですか」と気遣ってくれる。とりあえずベイリーズチョコレートカフェ35元を頼む。

今度は店主らしき男性と老紳士が炉辺に誘ってくれた。固辞する方が失礼のような感じだったので暖炉の前に移動する。老紳士は「サムです」と握手を求めてきた。店主はアメリカ人でかつて山形県にもいたそうだ。女性は奥さんで現地の出身だった。男の子「リトルモンク」がやって来て、持っていたピーナッツを全部私にくれた。歓迎のしるしとして。暖かなホスピタリティが、距離感を溶かしていくようだ。

【教授と歓談する】
サムはいかにも「老教授」という風情だったので、「YOU ARE HERE FOR RESEARCH(ここには調査で来ているのですか)?」と聞くと、「A KIND OF(ある意味では).」と話し始めた。中国政治、哲学が専門の教授で、雲南に低所得者向けの学校を作ってアメリカから教師が来て教えるプログラムに関わっているそうだ。場所は「リンサン(西北部)」。しかし、7-8grade(13-14歳)でやめて仕事につく例が多く、経済的理由と親の無理解が原因だ、と説明した。

初めての中国は1983年だったと聞き、シャングリラへの改名について尋ねると「面食らったよ」と言う。そりゃそうだ。

アメリカに行ったことはあるかと聞かれたので、「仕事でニューヨークに行きました。まだ危険だったころに」と答えると、「今も危険だよ」と笑った。

【米米クラブの思い出】
ニューイングランドのクリスマスや、出版ビジネスはインターネットの普及で厳しいのか、などの話題をサム教授と話していたら、店主が米米クラブをかけた。日本にいたころ大好きだったんだそうだ。

それから話題が転じて日本のホラー映画や、幽霊、ゾンビ、キョンシーの違いについて高尚な議論が戦わされた。中国の本屋にケルアックの『ON THE STREET』中国語訳があって驚いた話をしたら、イギリス人の民主主義についての本も中国語に訳されているよ、ということだった。中国の現状をどう考えるのかについて、サムは「THINGS GETTING BETTER(だんだんよくなっている).」と慎重な言い方をした。

店にドタバタと西洋人ツーリストの団体が入ってきた。帰る潮時らしい。
「I GOT TO GO(もう行きます).」
夜の街に人影は少なかった。

宿に帰ったら、アンドレが「寒いからお茶飲んでいけば」と誘ってくれた。眠いので辞退したが、ここはいいところだな、としみじみする。

【違和感とシンパシーと】
この街で感じる違和感の理由を考える。通りにむやみにはためくタルチョ、しかも書いてあるのが官製スローガン、観光客向けの商店ばかりが並ぶ通り、毎日の踊りの輪。どれもチベット文化からは不自然で観光のための作為を疑う。しかし、そんな違和感にもかかわらず、この街は初めてなのに懐かしく、人々にはよそ者をあたたかく迎えるシンパシーがある。


架空の理想郷【2011雲南】DAY12・香挌里拉(中甸)

2011年04月23日 | 旅する。

4月23日 土曜日 麗江→香挌里拉(中甸)

【スタッフがいない】
今日はさらに北へ行き、さらに標高が上がる。持っている衣類をかき集めて着重ねる。

中庭は無人でフロントの場所がどこかわからない。外に出る門には施錠されており、何よりデポジットを返金してもらわないといけないのでスタッフを待つが寒い。

2階のカップル客が降りてきて小さな小屋をノックしたら、スタッフがパジャマのまま出て来て門を開け、カップルが出て行った。この小屋はトイレだとばっかり思っていた。そのスタッフにレシートを見せると彼は頷いて身支度し、タバコをくわえて「ついて来い」という仕草をした。

五一街を西へ、かなり歩いて別の客桟でおかみさんから70元を回収して取引終了。ここがオーナーのウチらしい。

もうそこは小石橋だった。すでに06:53、思わぬことで出遅れた。香挌里拉(シャングリラ/旧名は中甸[チョンディエン/ちゅうでん])行きのバスは07:30発、急がねば。

四方街から七一街を抜けていく。あっという間にツーリストが増えてきた。静かな街を楽しむなら7時前か。小学校を過ぎ、クラウンプラザホテル前のタクシーたまりから右折し、車列が空いた隙に道路を渡る。交差点の向こうでバス待ちの人々が路上にあふれていた。西側の山々が朝日を反射して輝いている。

【香挌里拉行きのバスに間に合った】
07:21、麗江バスターミナル着。61元(58元+保険3元)だった。今までバスの保険は1元だったから、危険度が高い道らしい。ちなみにこの保険はほぼ自動的に徴収されるが、名目的には強制ではなく任意らしいので、払わないで済ませることもできるようだ。

窓口嬢が指差した方向に向かう。立派な待合室が両側にある。gate 4でチケットをもぎり、目の前にいた香挌里拉行きバスに自分で荷物を入れる。07:29、発車。

【虎跳峡漂流】
バスはしばらく西へと走る。右側に玉龍雪山が見える。このバスは比較的まともな車両で、席もほぼ定員を守り、時計も合っている。人民たちは平べったいあんパンやプレッツェルもどきを朝食代わりに食べている。

山道に入った。気圧が下がってきたので耳抜きをする。右手に崖、左手に大河。工事が多い。やがて「虎跳峡漂流」の看板がかかった橋を通り過ぎると、右手に急流があらわれた。

何もないところで青年が下車していった。自転車に大量の荷物、ここからヒルクライムか。健闘を祈る。バスは急流に寄り添って崖を走ってゆく。山頂に雪をかぶった高峰、ヤギ、そしてタルチョ。

どうやらチベット文化圏に入ってきたようだ。空が晴れてきた。香挌里拉らしき街に入る。11:45、バスターミナル着。

【架空の地名に託す皮算用】
バスから降りる乗客に客引きが群がるが、中国人グループに集中してくれたおかげで簡単に抜け出せた。きっぷ売り場へ行って地図を撮影する。

バスの路線図と時刻表によれば、ここからラサまでのバス便がある。パーミットがないと行けないとは思うが。

[注]シャングリラ(Shangri-la)はジェームズ・ヒルトンの小説「失われた地平線」に描かれた架空の理想郷だが、雲南省西北端の迪慶(ディーチン)チベット族自治州にある中甸(チョンディエン/ちゅうでん)県が2002年に県の名称をシャングリラ(香格里拉))県に改め、飛行場の名称もシャングリラ空港として急速に観光地化を進めた。チベット名ではGyalthang(ギャルタン)と呼ばれる。当局は「ここがシャングリラだ」と強弁するが、作者ヒルトンがチベット地域あるいはその周辺をまったく訪れたことがなく、限られた書籍資料から想像を膨らませたものである以上、その言い分はこじつけに過ぎない。「シャングリラみたいだ」程度が妥当であろう。ここから徳欽(デチェン)を経てラサに至る道はかつての茶馬古道で、梅里雪山はチベット族にとってカイラス山(カン・リンポチェ)に並ぶ崇拝の対象である。個人的には20年前からあたためていたチベットまで陸路4WDをチャーターして行くプランの拠点になるべきところだったが、いまや秘境でもなんでもなくなったようだ。

【チベット宿の中庭でお茶】
古城(独克宗古城/ドゥケソン・クーチョン)に向かうバス停を探す。交差点で男に聞くが分からない。通りの名はそれぞれ康定路、香挌里拉大道と判明したので、まず香挌里拉大道で聞いてみた。7路のバスが来たが、それではないという。売店の女が向こうを指差すので康定路へ行き、バス停を発見したところにちょうど1路のバスがきた。これが古城に行くバスか。

支払いは下車時らしい。途中で西洋人ツーリストが3人乗ったので、古城に向かう確信を深くする。古城前で下車。 1元。目の前に有名なヤクバーがある。

古城内へ入る。蔵式住宿なる看板がいくつかあり、チベット風住居の宿の意味とおもわれる。

「蔵式名居 gua da inn 呱達客桟」という看板が気になったので空室があるか尋ねてみる。

[注]この客桟名の簡体字(写真参照)は後で調べて「呱達」と判明した。なお、簡体字はunicodeなら表記できるのだが、現在のインターネット環境では日本のほとんどで「?」になるだろうから、このブログ中のテキストでは通常のエンコードで表示できない簡体字を用いない。画像を使うのも面倒なので。

中庭で人々がストーブを囲んでいた。背の高い女性がきびきびと部屋を案内してくれる。まったく英語は通じないが、それが不自由でなく気持ちよくコミュニケーションできるのが不思議。勝手に「アンドレ」と呼ぶことにした。理由はとくにない。

2階のツインには街道側に窓があり、非常に広い。シャワー、トイレ、電気ポット、テレビと設備も充実。もうひとつは廊下側に窓があり、やはりツインで広い。インターネットもあり、無線LANも飛んでいる。部屋はそれぞれ100元、80元だが、100元の部屋の方が明るいのでここにする。

室内の設備案内のあと、中庭で2泊分を前払いする。アンドレが「身分証」を説明しきれず困っていると、客のおじさんが自分のカードを出して教えてくれた。パスポートを預けて、お客さんたちとストーブを囲む。記入が終わったパスポートを返してくれたアンドレから「tea?」と誘われたので、いただく。

中国語の会話はほとんどわからないが、妙になごむ感じがなぜか懐かしい。「チーファン(喫飯)?」と尋ねられて、たぶん「ご飯は食べたか?」という挨拶程度の意味だろうと見当はついたのだが、部屋に戻って、指差し会話帳を持ち出す。おじさんと娘さんの二人はもう食べたそうだ。この近くに焼きそば、火鍋、サンドイッチといろいろあるらしい。

【火鍋の洗礼】
12時過ぎに宿を出た。通りで後ろから「ヘロー!」と声をかけられる。アンドレだった。なんだか人懐っこい。「チーファン(喫飯)!」と告げて街を歩き出す。せっかくなので火鍋にした。小で48元だが、システムがわからん。どうやら48元はスープと肉だけで、野菜がそれぞれひとかご8元、キノコが12元とあり、選ぶらしい。やはり一人で食べるものではないな。

ほうれん草としいたけを選ぶ。かごに山盛りだ。肉は意外に柔らかく、旨味があり、噛みごたえもある。おそらく水牛あたりか。ほうれん草は正解だったが、しいたけは多過ぎた。飯は隣のテーブルにのった巨大な圧力鍋から自分で取れ、と言われた。遠慮なくいただく。

スープは美味、まったく辛くない。勘定は結局71元(約888円)だった。今回の旅における食事の最高価格を更新する。飯が2元、他にお茶か何か1元らしい。

宿に帰るとアンドレに「食べた?」と聞かれた。「火鍋」と答える。宿に泊まっているのではなく、下宿か親戚の家に世話になっているような気がしてきた。

【水が出ない】
部屋に入ったらアンドレが来て、「どっちのベッドを使う?」か聞いて、電気敷布がひとつしかないので、窓側のベッドから手前に入れ替えてくれた。「あとは自分で」と笑って手を振る。

松賛林寺(ションサンリンツィー/ソンツェンリン・ゴンパ)への行き方を聞く。「サンルー」3路のバスが1元で、すぐそこから出るそうだ。そうか。

歯磨きしようとしたら、水が出ない。掃除中のアンドレに大声で「めいようしゅーい(水が出ない)!」と訴える。「てんふぉーら(断水)!」と返ってきた。

宿を出てバス停へ。すぐそこに3路のバスが止まっているのに気づいて飛び乗った。

【松賛林寺(ソンツェンリン・ゴンパ)】
15分も走ると巨大なセンターに着いた。ここが入場施設らしい。ここまでのバス代は1元ですんだ。それにしてもばかでかく、空虚な建物だ。

きっぷ売り場に群がる人民は列を作らず、渦のように窓口に手を出していく。入場料は85元もした。入場ゲートでICカードのように入場券をタッチして、シャトルバスに乗る。パーク&ライド方式か。シャトルバスは満員で、出発するとまもなく松賛林寺が見えてきた。

[注]2004年には入場券もなく、撮影禁止もなかったようだ。2006年では入場券が30元だったが、立地上買わなくても入場できる状態だったらしい。この巨大な入場センターの存在とシャトルバスで運ぶシステムは、観光経済が上から制度化されてきたことを象徴する。

若者たちが乗るトラックとすれ違った。広場でバスを降りる。目の前には湖が広がり、山の斜面に寺院の建物が連なる。団体にはガイドがつく。大門でチケットチェックがあった。

この大門は間違いなく非常に新しい。天井には曼荼羅。

僧坊が斜面に並ぶ。

女たちが行きすぎる。

石段をあがる。高地なので気をつけてゆっくり上っていく。中央の堂は工事中のようだ。

中央いちばん高いところに大殿、弥勒殿などが建つ。まずはそこをめざす。とくに高山病の症状もない。ガイドがいる訳でもないので、勝手に僧坊を見て回る。

これらの建物それぞれが倉(サン/同音の「参」と表記されることもある。しいて訳せば宿坊)で、僧たちが起居する生活の場であり、学問の場であり、修業の場である。キッチンもあれば図書館もあり、通常は出身地域別になっていることが多い。読経は見事な音程とリズムを保ち、トランスへと導く宇宙の音楽のようにも聞こえる。ヤクバターの灯りがほのかに匂う。

[注]松賛林寺、ソンツェンリン・ゴンパは中国語では「ションサンリンツィー」と発音される。チベット仏教の寺院で別称は「帰化寺」、「小ポタラ宮」とも。五世ダライラマの創建にかかり、湖水に近い小高い丘に立つ。

寺を降り、湖のそばで休憩していたら、停まっていた3路バスがふいにクラクションを鳴らした。もうすぐ出るようなので、乗ることにする。帰りは直通らしく、さっきの入場センターを過ぎて15分で古城に着いた。夕方の路上には果物屋が。

北門街を南下し、西へ折れて四方街から北へ。ぐるっと回るつもりだったが、カメラのSDカードがメモリフルになったので散歩を切り上げて宿に帰る。SDカードを交換してまた出かける。中庭ではアンドレたちが食事中だった。「シュイ(水は)?」と聞かれたので、大丈夫だよ、と伝える。

【巨大なマニ車が街を見下ろす】
四方街から東へ。ネパールでみたのと同様の白いストゥーパが小さな広場の真ん中にある。周囲にはいくつかマニ車が並んでいる。通りを進み、交差点から丘の上を仰ぎ見ると巨大な金色のマニ車がそびえていた。

そのマニ車をめざしてみる。四方街の南東口に出た。南の方向は近代化から見放されたような界隈で、裏側まではまだ観光開発の手が回っていないらしい。坂を上っていくと、マニ車の後ろに回り込むかたちになった。背後に朝陽楼の金色が見える。回りながら今度は降りていくと、大きな空き地のような広場に出た。

広場に面した大きな建物はデチェンチベット族自治州博物館だった。入ってみると無料で、医学や薬草の曼荼羅のようなものがあった。個室のお祈りスペースがあったり、雲南の地形図があったり。博物館というよりは多目的センターか。広場から石段を登って大仏寺へいく。

登ったところからさくらを愛でる。さらに階段を上がってゆく。

朝陽楼の回りを巡る。たくさんのタルチョがはためく。眼下の民家には石屋根が多い。

巨大マニ車を回してみる。

【観光開発の影】
2010年に作られた民族団結の碑があり、共産党とチベット族の共和をそらぞらしく謳い上げている。

山から降りると広場に踊りの輪ができていた。しかし、伝統的にもともとここで行われていたようにはみえない。

[注]2004年までは古城に古い町並みが残っていたが、政策により古い民居は壊されてチベット風の街並みが意図的に作られた。こうして伝統は破壊され、観光客のイメージに合わせて街が改変されていく。こうした開発の「成功例」は、中国各地で見られる。

中心鎮公堂に入ってみる。隣の長征博物館には「10天(10日)休み」という掲示があり、点検休業のようだ。広場では踊りの輪がさらに広がっていた。地元のおばさんたちが主だった。きれいなコによる洗練された踊りではなく、普通の人々による盆踊りのような印象だった。ここは月光広場という名前らしい。四方街でも踊りの輪ができていた。 

【冷めたモモ】
この街は寒い。スパッツや、耳も覆うニット帽がほしくなる。時々小雨が降るなか、食堂探しに右往左往した。ないわけではない。小厨房や、チベタンチョコレートを売り物にするカフェ、大きなチベットレストランなどなど。とにかく観光客向けの店しか見当たらない。チベタンチョコレートのカフェでは大きな暖炉のそばで髭面の西洋人が本を読んでいた。

日が落ちて街は夜景に沈んだ。行きつ戻りつ、結局入った店には西洋人ツーリストしかいなかった。チベットモモ18元、火腿(ハム)卵炒飯13元、ビール(大理)10元。

見た目には「素敵な」チベット料理のカフェレストランなんだが、モモは冷めていて固かった。

【ミーマー(暗号)!】
宿に帰ると、アンドレが奥の部屋から笑顔で手をふる。そうだ、無線LANのパスワードを聞かないと。「ミーマー(暗号、パスワード)!」で分かってくれて、メモ帳に書いてくれたのだが、室内ではつながらない。電波が弱いようだ。部屋から出たら、少しつながる。中庭で立ってメール受信していたら、アンドレが手招きする。「中庭では寒いから、ここに来なさい」いったんは固辞したがなお手招きするので、オフィスで別のパスワードを教えてもらってネットにつなぐ。

iPadには友人から結婚パーティーの招待状が届いていた。


甍の波を見渡す部屋【2011雲南】DAY11・麗江

2011年04月22日 | 旅する。

4月22日 金曜日 麗江

【早朝は美しい】
朝、パッキングしておいてから出かける。部屋に鍵をかけていたら宿の娘に「今日はどうするの?」と聞かれた。「香挌里拉(シャングリラ)」と答えておく。今日はいい宿を見つけたら麗江に泊まり、なければ香挌里拉に行くつもりだ。

早朝、大半の観光客が目覚める前の麗江の街並みは美しい。獅子山方向へ甍の波がつづいている。昨夜迷い込んだあたりには安い朝飯屋が多い。朝食は「早点」や「早餐」が目印。

【玉龍雪山】
四方街から万古楼をめざして登る。獅子山公園の入場料は15元だった。双景台から玉龍雪山を望む。

いまの中国における旅行ブームは日本なら昭和30年代に旅行とカメラがブームになったころを思わせる。東京オリンピックが1964年、北京オリンピックが2008年。感覚的には符合する。

遊歩道からまっすぐ上る階段の先に万古楼があった。入るときに帽子を脱いで礼したら線香を渡されかけた。あまり丁寧にお参りするのも考えものだな。楼を上がる。北に玉龍雪山、東に麗江の街並みが見える。屋根に延びる隅棟には神獣が並んでいる。

【甍の波がつづく】
広い公園には万古楼からさらに先があるが、西側は省略して山を少し戻る。石段を降りるときにラジカセ(あるいはCDラジオか、もしかしたら音楽プレーヤーかもしれないが、サイズと見た目はラジカセ)を鳴らして歩く中国人観光客に何人か会う。音楽はイヤホンではなく、回りに音を拡散するのが中国流らしい。

ナシ族の祭祀の場らしく、「東巴祈福地」と書いた角をがタープの下に安置されていた。石碑には小さな鐘が取り付けられていて、道の両側に角穴の空いた高い柱が並び、赤や黄の布がたなびいている。

眼下には甍の波。調子に乗って撮影する。南へ向かう。獅子乳泉にはなぜか小鳥が多数いた。双景台には徐霞客の文が石碑に刻まれている。ここは木府(ムーフー)を見下ろす位置にある。

木府に降りる入場口は閉まっていた。戻るしかない。

【木府見物に60元】
坂の途中に朝飯屋があり、五一街よりやや高い。包子が6元だが、五一街では5元だった。四方街から四方客桟脇の路地を南へ行く。途中、路地と紛れてどこかの客桟の中に入ってしまう。ちょっとした迷宮のような道だ。

官院巷を抜け、天雨流芳の篇額の下をくぐると忠義坊前だ。木府への入場チケットは60元もする! 逡巡したが入ることにする。ここでも古城維持費レシートの提示は求められなかった。こういういい加減な運用だから逃票(チケットなしで入場する)を試みる輩が増えるのだと思う。 

木府は背後の獅子山に向かって直線上に建物が配置されている。

議事庁、万巻楼とめぐる。回廊、庭園も整備されている。

精緻な天井彫刻や、独特な屋根のカーブ。2階にあがればさっき登った万古楼がある獅子山がすぐそこにあり、遠くに玉龍雪山を眺める。護法殿、光碧楼と次第に斜面を上っていく。中にはいろんな売り場があって、観光客の財布を緩めようとしている。

玉音楼を見下ろす。団体をやり過ごして休憩。回廊はさらに山を巻いて上り、途中にあずまやがある。

三清殿からさらに上っていくと獅子山公園への入口があった。さっきは閉まっていたところだ。どうやら8時30分ごろから開くらしい。ここが開いていれば、いったん山を下りずにすんだのだが。玉音楼にはけっこう充実したナシ族民族文化の展示があり、ここで麗江の観光は終了ということにした。ふう。

【売れ筋は毛沢東】
官院巷、七一街を北へ。小さな骨董屋があった。 

途中、よさげなシャツを見つけたが65元の値札は予想より高いので買わず。民族衣装の老人ふたりが路地をゆく。

【眺めのいい部屋を探して】
四方街をすぐ抜けて五一街へ、さあ宿探しだ。ちなみに以下の宿を選んだ基準はとくにない。どこも英語はほとんど通じなかった。

1.高家客桟:納西(ナシ)人家ということに惹かれて入ってみた。奥まった部屋が70元、シャワートイレテレビ電気ポットと設備は十分なんだが窓の外が作業小屋で、いかにも場所も作りも低級。
2.苹果樹客桟APPLE TREE HOUSE:部屋はよさげ、シャワートイレは近代的、中庭を囲む2階で気に入ったが、老板(あるじ)が留守で値段がわからず、気のいいにいちゃんと待つことにするが、客が来ても対応できない留守番にまかせる時点で宿のオペレーションとしてまずいんじゃないかと考え直し、他の宿を当たることにする。
3.幸福水岸客桟:掃除中のおかみさんに案内してもらった。80~110元、部屋も設備もいいが、眺めがちょっと。インターネットはあるそうだ。
4.牡丹園客桟OLD TOWN PEONY GARDEN INN;英語はまるっきりダメだが素直そうな娘が真面目に対応してくれた。2階奥のツイン、テレビの代わりにPCがある。設備は普通だが、窓からのながめが甍の波。130元と高いが、ここにする。

「30分で荷物を取ってくる」と言いおいて早足で坂を下る。古月坊の部屋からバッグかついで出たら娘がドアのすぐ外で待っていたので、鍵を渡す。おかみさんが「バイバイ」と手を振る。

【電話中のおかみに炒飯を指定される】
その足で牡丹園客桟にチェックイン。カードキーの代わりに名刺を差して解錠する。いいのか、それで? 宿帳はなく、自分で領収書に氏名、誕生日、住所を書いた(今までの宿もかなり適当だったが)。デポジット70元を加えて200元を支払い、レシートをもらっておく。庭では白い大きな犬2匹が縄でじゃれて遊んでいた。

部屋でiPadで試すと無線LANもあるようだが、せっかくなので部屋の中のPCを立ち上げる。メールをチェック、ニュースに「20km圏内に立ち退き勧告」「田中好子、乳ガンから他臓器に転移で亡くなる」など。

宿を出て目の前にある天和餐庁のメニュー看板を見ていたら、携帯で電話中のおかみさんにいきなりテーブルを指定された。座ると「ツァーファン(炒飯)?! チンジャオロースー(青椒肉絲)?!」と言い渡され、頷いたらそれで決まりだった。メニューによれば8元のはず。

青椒肉絲炒飯は油っぽいがいける。辛くないのが意外。おかみさんは相変わらず電話中で、電話を離さないまま10元札見せて勘定したら2元のおつりをくれた。

さらに東へ歩いてみる。現代アートのような彫刻の店があった。アフリカ風の模刻にも見える。なんでもありの観光客向けかもしれないし、民族伝統の様式を受け継いでいるのかもしれない。

【広州便が高い理由】
格安の値段を掲示している旅行社で、香挌里拉→昆明→広州の値段を聞いてみた。ここは1900元とさらに高い。どうやら広州で大きなイベント(たぶん見本市)があってこの時期だけ高くなっているそうだ。そういうことか、時期が悪かった。

【結婚文化展示館】
崇仁巷を東へ行く。

王家庄にナシ結婚式文化展示館があった。たぶん式場として営業していた、あるいはしているのだろうが、閑散としている。ここにはさっき見た木彫の店と同様の彫像があった。そうするとあれは伝統様式なのかもしれない。

牡丹園客桟に戻って、無線LANのパスワードを教えてもらう。
「謝謝(ありがとう)」
「不客気(どういたしまして)」
なんでもない会話だが、うまくいくと気分がいい。ネットしているあいだに眠くなり、昼寝する。

【汽車客運站まで予行演習】
16時35分、外出。明日朝、汽車客運站(バスターミナルに)歩いて向かう予行演習のつもりでまっすぐ南下する。しかし、南下しているなら西日の影が左側にできるはずだが正面に来る。つまり、東に向かっている。どうやら自然に東側へと湾曲して出る道だったようだ。右手に折れると石橋(南門橋)に出た。幼稚園のお迎えか、大量のクルマが路上駐車していた。

南下、のち西へ。城外から古城南辺へ出入りする道が何本かある。古城南大門を過ぎた先にクラウンプラザホテルがあってそのあたりはタクシーたまりになっていた。さらに西へ歩き、バスターミナルへの分岐標識を確認する。宿からここまで30分くらいか。このへんで戻ることにしよう。

【水路に花、橋に祭列】
まっすぐ北へ。水路沿いにきれいな花が咲いていた。

七一街に出たあたりでなにやら鳴りものつきの行列に遭遇し、橋までついていく。お祭りにしては少人数だが、服装からは少数民族の儀礼のようにも思える。あるいは新興宗教か。

麗江の地理は十分把握したので、違う道を南下してみる。その途中、真美客桟で左手(東)に抜ける。ゆるやかに曲がる道筋、長屋のように続く建物。茶馬街道だなあ、と感慨に耽る。この辺は店の数が多いが、さらに南下すると店が少なくなってきた。

【再び雲南特色菜館にて】
右手に入ると見たような食堂街にぶつかった。ブロックの東側、北側が丸ごとレストランが並ぶエリアになっている。ぐるっと回ると西側も、さらに南のブロックもそうだった。

見覚えがあるのも道理で、一昨日に遅いランチを食べた雲南特色菜館だ。西日で見にくいメニューを読んでいたらオヤジに呼び込まれた。また同じあの娘がメニューを持って来た。

納西烤[火+考]肉28元、納西砂鍋米線8元。メニューを指さして「ミーシェン」と言うと、確認して「ミーシェン」と正しい発音で言ってくれる。大理脾酒6元、「ピージュ」も「ピージュ」と復唱してくれる。オーダー確認作業で発音を習う。どうやらコツはアクセントの位置と高低、口を思い切り動かすことにあるようだ。

お茶がポットで出てきたかと思うと、ビール、肉(揚げた薄切り肉)、米線(土鍋煮込み酸辣スープに極細麺)が素早く揃った。ここの娘は誰かに似ていると思っていたが、いま気づいた。安達祐実そっくりだ。

店のすぐそばではモデル撮影(変身写真)が進行中。カメラマンはあえて逆光で狙って背景をとばし、髪の上に光の輪を作るんだろう。

揚げた薄切り肉はややパサパサで油っぽいが、米線の酸辣スープにつけるとうまい。日が傾いてきた。買った地図がかなりいい加減なことに今さらながら気づく。マイタン(勘定)すると43元だった。夕食ではお茶は1元らしい。

【手書きトンパ文字のTシャツ】
ぐるっとこのグルメ街を回る。ストアーも多く、南大門からツーリストが続々やって来て、店からはメニューを持った客引きが声をかける。これからが書き入れ時だ。

日が沈んで麗江古城の街が賑わいはじめる。あるいは騒がしくなってくる。七一街を抜け、三眼井近くのトンパペーパーの店に入ってみた。ここには水車や祭祀のポールがあり、壁にはトンパ文字(生きている象形文字)が英語と対照表になっている。売っているおみやげのトンパ文字関連商品は300元から。あまりに高い。

手描きTシャツ屋があった。XLしかなく、35元もしたが、手書きのトンパ文字にひかれて買ってみる。

右折、万子橋から崇仁巷へ、左折、くねくねと曲がっていく。公衆トイレに係員がいたが無料だった。しかもニーハオトイレではない個室で、麗江は中国では異質な都市との感を深くする。外国人観光客に向けたショーケースのような。

最後の坂を上れば、日光傾城で昨日と同様にライブをしていた。

【謎の相席】
もうすっかり暗くなっている。日光傾城に入って窓際に座ろうとしたら、拒絶された。なぜか一人では窓側の席はダメらしいのだが、理由が分からないので聞く。やはり要領を得ない。結局スタッフの上司らしい女性と相席であればいいらしい。これはこれで意味がわからない。この女性と少し会話したが、あまり英語は得手ではないようだった。

デザートが欲しい気分だったのでベイリーズを頼んだが、45元(約563円)と驚異的な高価格。今回の旅行で最高の贅沢(という名の失敗)だ。

【ライブの罠】
窓際の端の席では昨日と同じ男がナイロン弦ギターをピックで弾き、アンジェラ・アキに似た女が通りに甘い歌声を振りまいていた。曲は夜来香、スカボローフェア、などなど。店内の客向けではなく、通りの客を呼び込むためのライブだった。

相席の女性に「THANK YOU FOR SHARING THE TABLE.」と礼をいって店を出た。

【タクシーを毎日チャーターして「貧乏旅行」?】
すぐ隣が牡丹園客桟だ。iPadで香挌里拉(シャングリラ)を検索する。あまり参考になる旅行記がない。タクシーを毎日チャーターしておいて「貧乏旅行」と卑下してみせる人もいて、勘違いもいい加減にしてほしいと思う。


古街の憂鬱【2011雲南】DAY10・白沙、束河古鎮へ

2011年04月21日 | 旅する。

4月21日 木曜日 麗江

【歩いて黒龍潭へ】
今朝は北へと上がっていくことにした。

今日もいい天気だ。過橋米線屋がある。昨日バスを降りて着いた広場で巨大水車が回っている。古城から外に出て、玉河道を北上、黒龍潭(麗江玉泉公園)へは矢印が出ていた。川べりの気持ちいい道だ。

ホームレスやジョギングや犬の散歩や老夫婦。現代中国のいろんな切り口を見る朝だ。黒龍潭風景区に入る門で古城維持費を徴収される、80元。

[注]古城維持費は古城地区に宿泊・観光する場合、各観光地の入場料とは別に支払わないといけないこと(という建前)になっている。一度買えば、他の箇所では領収証を提示すればいい。要記名。しかし、高額な上に検札がいい加減なので払わないで抜け道を探す旅行者もいる。

湖畔にお堂が点在し、かなたの玉龍雪山には雲がかかる。ビューポイントにはツーリストが多数群れていた。中国以外では韓国、フランスの団体が多い。

晴れて鏡と化した湖面に青空が映り、鯉が泳ぐ。写真を撮りまくる。湖の東を回る。解脱林、トンパ文化研究所などが並ぶ。

[注]麗江玉泉公園は麗江古城から北に約2km、玉龍雪山からの雪どけ水が湧出した黒龍潭を中心にした公園で、澄んだ泉水を碧玉にたとえて玉泉と称する。明清年間に建築された得月楼、五鳳楼などをはじめ、解脱林、一文亭、五孔橋、鎖翠橋、東巴(トンパ)文化研究所などがある。

濃青の湖面から白骨のような枯木が枝を広げる。水辺を歩き、いろんな写真アングルを試す。透明度が高いのは雪解けの春だからだろうか。

湖面に橋が映り、向こうに玉龍雪山がそびえる撮影ポイントには人民が我先に殺到する。喧噪を回避し、鎖翠橋を渡ってベンチで休憩する。湖のなかの得月楼へ行くと、近所のじいさんばあさんの社交場と化していた。朝だからか、体操するひとが多い。

五鳳楼に登る。ナシ族から雲南省省長になった和志強を顕彰する展示が目を引く。中国における少数民族の問題を少し考える。

[注]五鳳楼は高さが20m、三階建ての建築で、反り上がった屋根を飛び立とうとする鳳凰になぞられて名付けられた。漢族、チベット、ナシ族の三つの建築が融合しているそうだ。

【ナシ族の祭祀に焼香する】
公園内でナシ族の祭祀を執り行っていた。

観客にも線香3本が渡され、順番に焼香する。フランス人の団体は非常に喜んでいた。

園内でカップルが着飾って撮影している。中国で「婚紗照」、日本では「変身写真」と呼ばれるこのビジネスは、モデル気分でコスプレしてプロが撮影してくれるサービスで、中国では大人気らしい。

スタジオ撮影だけでなく、観光地の名所ではこのように素人がいろいろ着替えてポーズにも余念がない。どうも結婚記念とは限らないようだ。一周し、博物館には入らず、花を接写し、牡丹園を回り、再び鎖翠橋で休憩する。西出口から出たときには11時を過ぎていた。

【古城を過ぎて騰冲料理に出会う】
しばらく歩いて八路のバスを見つけたので乗った。1元。古城口を過ぎて席に座れたが、一瞬寝てしまったらしい。バスが民主路から外れて左折したので、慌てて下車したが、実は古城地区を過ぎてかなり南側に乗り過ごしていた。間違いに気づかないまま、祥和路から歩いて民主路に戻り、さらに南下してしまった。

食堂というより飯屋という方が近い店で鮮肉火腿炒飯(肉とハムのチャーハン)を食べる。7元。テーブルに麺用らしいが調味料その他ネギ、香菜があったので入れてみた。

店内を見るとここは騰冲(とうちゅう/トンチョン)料理の店で、名物の大救駕が売りらしい。

[注]騰冲は雲南省西端の地で、温泉がある。マルコポーロも立ち寄った。四川省、雲南省からビルマやインドへ抜ける西南シルクロードの要衝。米からつくるトコロテンのように細い麺「騰冲餌糸」が名物。店内にあった中国語の説明を読むと、明の永暦帝が敗走する際に現地で(あり合わせの材料で作ったものを)食べて体力を回復したことから「大救駕」の名前を与えたという料理があり、いまは雲南名物になっている。うるち米からつくるラビオリのような形のもちと肉、野菜を炒めたものだそうだ。

11:55、康仲路まで南下した時点で間違いにやっと気づいて反転、北上する。祥和路は古城南門から出る道で康仲路は客運站の道だから、古城の南端からバスターミナルまで歩いたことになる。

【白沙の壁画と十六羅漢】
白沙行きの乗り合いタクシーを探す。「白沙(バイシャ)?」と聞けば、まだ先だと北を指さした。石鼓方面行きのようだ。大きな通りに沿っていくつも乗り合いタクシーのたまりがあり、各車のフロントガラスに行き先を表示している。ようやく見つけた「白沙」行きを見つけて乗る。

12:30、乗車と同時に発車した。女性のドライバーで乗客は7人と本来の定員そのまま。アジア的常識では定員の1.5倍は乗せるんだが。もちろん安全でラクな方がよい。12:50には白沙に着いた。3元だった。

民族衣装の女子高生が歩く背景に玉龍雪山がそびえる。

白沙のメイン観光地である白沙壁画の駐車場で下ろされたようで、巨大な門が入場口になっている。入場料は30元だった。入ってすぐの文昌堂は「木氏土司歴史博物館」というミニ博物館のような展示内容で、麗江やナシ族について勉強する。ここ白沙は明元代に麗江を支配した豪族(土司)の木(ムー)氏が地盤としたところだ。

さて、壁画はどこなんだろう? 柳の巨樹があり、さらに奥へ行くと中国の壁画を概説する展示があって、その先に壁画はあった。撮影禁止。ブッダ、僧のキャラクターが描き分けられていて、ちょっと曼荼羅を想起した。

そこに英語のツアーがやって来た。ガイドのあまりにも冗長な説明に、客の大半は飽きていた。出口に向かったらそこは土産物屋通りだったので出るのをやめ、園内に戻って見逃していた金剛閣や十六羅漢を見学する。

ツアーが去ったところで戻り、ひとりで壁画と対峙する。濃密で、静謐な時間。

【白沙古街の憂鬱】
出口からは足早に土産物屋の包囲網を通り抜け、しつこい勧誘を笑顔であしらいながら、白沙古街という名のツーリスト通りを歩き出した。青空を鋭角に区切る稜線がきれいだ。

カフェ、土産物屋、街頭演奏。静かでもなく、かといって観光客でごった返しているわけでもない。ツーリストに媚びながら失敗した観光地の憂鬱がただよう。

中途半端な路上駐車のせいでもともと狭い道路をクルマが通れなくなっている。中国式混乱の好例か。もうちょっと気を遣って停めればいいのに、そういう公共感覚がない。

門をくぐって南へ向かう。舗装とは縁遠い土を踏み固めたような道がつづく。店はまったくなく、放棄された家が散見される。牛がのんびり草を食んでいた。

【束河古鎮まで歩いてみた】
天気もいいので束河古鎮(スーフェークーチン)まで歩いてみようか、と突然思いついた。地図もなく、標識もないが、このまままっすぐ歩けば着くだろう。あまり根拠のない予想では1時間半程度か。まっすぐな道の両脇には田んぼと菜の花畑がつづく。

田んぼの中でモデルになりきって撮影をしていたのは例の観光地「変身写真」ではないかと思う。自転車のツーリストたちが行きすぎる。仁里新一村という村名を記した真新しい石碑があった。分岐を通り過ぎて振り返ったら「←束河古鎮」の標識を見つけた。ここまで約50分、ゆっくり歩いたからたぶん4km程度、拍子抜けするほど近い。

3時前には束河古鎮に入った。カメラのバッテリーが少なくなっている。地図と現在地が符合しないが、とにかく南へ向かう。ブックショップ兼カフェがある。中和堂、茶馬古道博物館、そして四方街。ここが中心の広場か。橋の上では着飾ったカップルをモデルに撮影していた。

仁里路を北上する。典型的な三眼井があった。あまりに新しく分かりやすいので、現代に観光用としてつくられたのでは? と疑う。

軍人のブロンズ像のようないでたちをした2人が歩いている。どこかで立って大道芸で稼ぐつもりらしい。湖水のほとりではソプラノサックスの生演奏をしていた。なかなかの腕前で、自分のCDを売っている。水路ではまた別のカップルをモデルに撮影していた。邪魔しないように遠回りして水路の反対側を戻る。

ナシ古楽を演奏しているオヤジたちには、白沙のような悲壮感はない。明るく「聞いていかないか?」と誘ってきた。

【雲南コーヒーを優雅に】
雲南小粒珈琲を試してみようと水路沿いのカフェに入る。看板によれば店名は「錐刻時光SCULPTING IN TIME CAFE」、いかにも時流に乗った名前だ。水路沿いのテラスに席をとる。メニューを見ると、雲南小粒珈琲はなんと30元もする!

15元のビールで驚いていられないな。ありえない高額だが雰囲気はいいので自分に贅沢を許す。日本円なら375円だし。この高価なコーヒーを分岐点にして、このあと旅はどんどん贅沢になっていくことになる。

コーヒーにはなぜかお湯がついてきた。薄めるためなのか? 深煎り珈琲を濃く淹れてあって、たっぷりのミルクで久しぶりのカフェオレを楽しむ。

水路沿いに四方街、そこから少し南へ。「飛花触水」は水路沿いの樹木から花が散って水面に浮かぶさまを言うらしい。この辺にはカフェらしき店が雨後のタケノコのように並ぶ。水煙草とかライブが流行っている。というか、店が模倣しあうのだろうが、3、4軒で同じようなアコースティック中心の演奏をやっていた。

楽しみにしていたナシ音楽広場(四方聴音広場)では、イベントが何もなかった。しかも、ついにカメラのバッテリーが切れた。代わりに携帯で撮影する。

【ATMで幼児につきまとわれる】
広場で子どもを観察する。フラフープが見事なまでにできないコ、着飾って自慢げに歩く女の子。子どもって面白いな。

束河古鎮入り口の門に出た。本来はここから入場するらしい。白沙から歩いて来るビンボー旅行者は考慮の外だろう。麗江行き乗り合いタクシーに乗車、2元と行きより安かったが古城まで行かず、そのはるか手前で下ろされた。市場を抜けて福慧路に出て東へ歩く。

中国建設銀行のATMで1000元を引き出しておく。幼児がうろちょろしてATMのブース内までやってくる。お金を狙っているようには見えないが、場所が場所だけに、優しく、しかし強く「OUT OF HERE!」と追い出す。親は甘やかし放題のようだ。

【インターネットにつながらない】
麗江古城に入る。夕焼け空に塔がシルエットを刻む。

玉河広場、新義街、積善巷を経て古月坊に帰る。宿のオヤジにインターネットのパスワードを聞いて部屋でアクセスしてみるがつながらない。ちなみにタオルもベッドも今朝出たときそのままで、この宿にホテル的サービスを期待してはいけないようだ。つながらないネットを解決しようとまたフロントへ行き、いろんな人を巻き込み、ある客は自分のiPadまで持ってきてくれたが、結局ダメであった。今思えば設定をいったん初期化してから試せばよかったかもしれない。

19時半、城外を歩いて金虹路、玉縁路と食堂を探す。玉河広場、さらに一周して北側を巡るがピンと来る店がない。ちなみに、麗江には城壁がない(木氏が「木を囲むと『困』という字になる」のを嫌った、という説がある)。それでも城外と城内を区別できるのは、城内がいかにも観光仕様の街並みになっているからで、だからこそ城外には地元御用達の安食堂があるのではないかと探してみたのだが、城外では観光施設がより大規模になっているという違いだけだった。夕食の場所を決めかねたまま古城内に戻り、積善巷、新義街をまたさまよう。

【贅沢は素敵だ】
安い店を探すのが面倒くさくなってきた。菌王庄餐庁という店にフラフラと入る。「菌」はキノコの意。二階へと上楼し、まったく英語が通じないが、メニューから麗江酸辣魚48元、大理啤酒12元、米飯7元を頼む。もう安さを追求するのはやめて、「贅沢は素敵だ」に方向転換する。

他のテーブルは大人数で卓を囲んでいる。その卓に並ぶ料理の豪勢さに中国の経済発展を実感する。バックパッカーの水準はもとより、日本人の平均的旅行者よりも中国人旅行者の方がはるかに金離れがいい。

料理はうまいがやはり辛い。魚がやや土臭いのは湖水育ちのせいか。唐辛子の量以外はスープは極めて美味、ご飯ひと椀も適量といえば適量だが、ご飯が櫃(ひつ)で出た大理の鷹揚さが懐かしい。マイタン(勘定)! 計67元(約838円)。

WiFiカフェを探して東大街、四方街、科貢坊と歩くが、騒々しいライブバーだらけだ。この時間に麗江の古城を歩くのは興ざめだな。人ごみをさけて裏へ。南の路地、七一街、忠義街官口巷、天雨流芳、木府回りの路地をゆく。店は見つからないが、人通りは落ち着いている。流し灯籠を売っていた。

日光傾城というカフェバーを見つけた。2階から路上に聞かせるライブをやっていた。手書きでWiFiとあり、今日はもう遅いが明日来ようかと思う。さらにその先には手頃な食堂がいくつかあり、この路地はよさそうな感じがする。


巨大観光都市【2011雲南】DAY09・麗江

2011年04月20日 | 旅する。

4月20日 水曜日 沙渓→麗江

【夜明け前】
今日は沙渓(シャーシィ)発08:00乗り合いタクシー、剣川(ジェンツァン)発09:30麗江(リージャン)行きバス、麗江に12:00到着を目標にしよう。標高が高いせいか、放射冷却か、夜は冷え込む。紅茶を淹れて、軽くパッキングし、朝の散歩に出かけた。フロントではオヤジが寝ていた。まだほの暗い6時半、ゴミ回収車が爆音を立てて走り抜けていった。路上でもう餃子屋が湯気をたてている。

寺登街には提灯のような街灯がついている。

四方街では三層楼が暗い空にシルエットを描く。四方に伸びた隅棟にそれぞれ二体の神獣(鳳凰か)が乗っている。学校へ行く子どもたちとすれ違った。

南宗古道へ入ってみた。丘の上の古趣を帯びた道を行く。視線の下方に街が広がる。三方一照壁の家があり、瓦の波が連なる。突然、村中に音楽が鳴り響いた。夜が明けたようだ。途中から犬がついてきた。

一種のguide dogか、道案内をするかのように先導し、立ち止まると一緒に止まってこちらに「歩こう」と催促する。かつてアイルランドのアラン島で吹雪のときにguide dogに宿まで案内してもらったことを思い出した。

小さな門をくぐり抜ける。

分岐に差し掛かった。学校は左手の方向にあるようだ。右手に折れるとちょうど沙渓酒店の前に出た。さらに歩くと、餃子屋がもう一軒店開きしていた。荷物を満載したトラックが走っていく。道案内の犬はどこから拾ったか、獣骨をくわえて帰っていった。ここで役目は終わりらしい。もう一度、最後に寺登街を歩く。欧陽大院へ。青空が広がっている。

路上の餃子屋が妙にフォトジェニックに見える朝だ。

【フランス語と英語と筆談で仲裁する】
沙渓酒店に戻るとオヤジは今日もニコニコしていた。朝の街は気持ちいい。乗り合いタクシーはちょうどあと一人だった。フランス人らしき中年夫妻は軽装だから石宝山までだろう。乗り合いタクシーだと入場ゲートの数km手前までしか行かないからかなり歩くことになるが。

やはり石宝山で中年夫妻は下車したが、料金でもめる。フランス語と英語を駆使して聞けば「昨日は2人で16元だった、1人10元はあり得ない」という。ひとり当たり2元(25円)の差だが、公共交通機関なのに料金の差があるアジア的いい加減さが許容できないらしい。フランス人が折れそうにないので、ドライバーに漢字筆談で説明したら、ドライバーはしぶしぶ折れた。

剣川に着いた。行きと同じ10元。ドライバーに「在哪[口+那]裡、巴士、到麗江(ツァイナーリ、バーシー、ダオリージャン/麗江までのバスはどこ)?」とめちゃめちゃな語順で聞き、指差してくれた方向へ行ったら剣川客運站があった。

【窓口の混沌】
客運站で開いている窓口はひとつだけだった。そこに人民が群がって混沌状態になっている。体を食い込ませ、肘を張って順番を主張しないと何も進まない。手を突っ込んでメモ帳の「麗江」を見せると、「09:30」とPCの画面を回して見せてくれた。17元+保険1元で18元。大理から剣川までは30元だったから、剣川→麗江間より近距離なんだろう。時刻表は古いままで、香挌里拉(シャングリラ)は中甸と本来の地名表記のままだった。

まだ8時半を過ぎたばかりだ。トイレに5角払う。いわゆるニーハオトイレだが、小用だから我関せず。食堂を探して歩く。客運站の隣に並ぶ数軒のうち、米線の店に入ってみる。

料理を指差して注文する。辛いが、うまい。朝日が逆光になって店に射し込む。4元(約50円)だった。

【労働争議で麗江行きは遅れた】
30分前に改札を抜け、麗江行きのバスを探す。構内では何事か揉めていた。不穏な匂いがする。09:15、麗江行きバスは来たが、そのドライバーが紛争に参加する。どうやらドライバーたちが上役と何か争議になっているようだ。ドライバー集団には高橋克実似やココリコ田中似がいて、距離を置いて見ているお局さま然としたおばさんは友近に似ている。それぞれに役柄を当てはめてストーリーを想像して遊ぶ。しかし当事者の表情はさらに険悪になり、事態はどんどん深刻の度を増してゆく。バスには乗車すら出来ず、その麗江行きのドライバーが一番興奮している。

10:00、やっと乗車。すぐに発車した。争議がどういう解決になったのかはわからないが、ドライバーはいまだに激昂している。ただでさえ安全運転とはいえない中国のバスなので、とにかく事故がないことをありとあらゆる神様に祈る。

バスの車内から馬に乗る観光客とガイドたちが見えた。このあたりからツーリスティックな匂いがしはじめた。

12:10、すでに麗江市内に入ったようだ。目の前がシャングリラ大道だ。12:20、麗江バスターミナルらしい。下車地点は車両の駐車場で、客運站はその隣だ。例によって客引きに囲まれる。今回はすぐ目の前にバス停があり、経路も停留所名も書いてあるので楽勝である。 

【古城に宿を探す】
11路のバスが停まっていた。発車しかけていたが乗る。ドライバーに「グーチェン(古城)?」と聞くと頷いて、運賃入れに顎をしゃくる。乗客のほとんどが降りたところで降りた。そこが古城口だった。道の向こうに百貨大楼がそびえる。どうやら麗江は大理とは桁違いの規模の観光都市に変貌しているようだ。

客引きのおばさんをあしらい、公園に入ると、麗々しく世界遺産を謳った碑(揮毫は江沢民)や巨大な水車、トラベルインフォメーションが並ぶ。ああ、観光地なり。この時点ですでに疲れそうな予感がする。

玉縁路を南東へ、公安派出所で右折して五一街興仁上段を行く。路地を折れると小学校を囲む塀にトンパ文字が描いてあった。坂の上から西側を見下ろすと甍の波が連なる。その坂を降りたら正面が古月房客桟だった。

部屋は残りひとつ、通り側のツインが「イーパイ(百)」、100元なら許容範囲だがトイレその他設備が古いのが気になる。いったん辞して隣の老謝車馬店へ。中庭を抜けるとレセプションがあった。今日は満室だそうだ。ここなら英語が通じるのだが。昆明のHUMP HOSTEL(駝峰客桟)と同様に外国人向けのゲストハウスのようだ。

古月房に戻って、さっきの部屋にチェックインする。2泊で200元を前払いするが、デポジットはなかった。ただし、パスポートにビザがないことを不審に思われる。滞在15日以内ならビザ不要であることを説明するが、なかなかわかってもらえない。

【帰途の飛行機を買う】
近所を歩くと、古い家屋を改築したらしい客桟が目につく。ここも宿泊施設が供給過剰らしい。たまたま見つけた旅行社で帰途の飛行機を決める。麗江→広州はやはり高いので、どうせならと香挌里拉(シャングリラ)まで足を伸ばしてみることにする。 1日で香挌里拉→昆明(クンミン)→広州と乗り継いで、計1660元(約20750円)。

【路地をさまよう】
街を歩く。街全体が「観光テーマパーク化した」と悪口を言われる麗江だが、そう割り切って歩けばとくにストレスはない。ただ、やっぱり人ごみは苦手だ。レストランを探し、干し肉屋に興味をそそられ、水路を愛でる。水辺にはやはり高そうな飲食店が並ぶ。

四方街には民族衣装で踊る輪ができていた。ここもか。お揃いの民族衣装、盛り上がる飛び入りの観光客、冴えない表情の踊り手たち。

迷路のような細い路地に入り込み、思いっきり迷ってみる。また四方街に出た。まだ踊りの輪がつづいていた。

【ナシ族風ランチ】
水路沿いにはいかにも観光客向けのカフェが並び、レゲエカフェもある。南へ。雲南珈琲、三道茶、プーアル茶の店が目につく。ジェンベを叩く店員のいる楽器屋が多い。三眼井がいくつかあった。

[注]三眼井は、水路から引いた水を順番に三つの井構につづけて流し、一番上流は飲料水に、真ん中の水で野菜などを洗い、下流は洗濯などに用いる。今もよく野菜洗いには使われていた。

インフォメーションブースで麗江の地図を買う、5元。

15:20、雲南特色菜館という食堂でランチにする。納西小炒肉(ナシ族風の肉炒め)15元、納西炒飯(ナシ族風のチャーハン)10元、お茶はサービスらしい。計25元(約325円)。

食べ終わって「ムーフー、ツァイナーリ(木府、在哪[口+那]裡/木府はどこ)?」と聞くと、笑顔の娘さんがその方向を指差してくれた。

[注]木府(ムーフー/もくふ)は麗江を統べたかつての政庁で、いまは古城博物院になっている。明代から麗江宣慰司の官職を世襲した木(ムー)氏の役所と私邸を兼ねた。獅子山を背に傾斜した土地に、一連の建造物が直線上に並ぶ。元代の建物だったが、1998年に再建された。麗江は1996年に大地震に見舞われ、翌1997年に世界遺産の指定を受け、復興という名の「観光テーマパーク」化を遂げた。なお、木氏はもともとは白沙を本拠地にしていた地元の有力豪族(土司)。

とりあえず歩く。この道は茶馬古道として売り出しているらしい。とびきりの笑顔で教えてもらった木府だが、見当たらない。さっき地図を買ったブースにまで戻り、地図を見直してみる。まあ、別にいいか。適当に歩こう。 

【えげつないイチゴ売り】
北へ向かい、なにげなく西へ。「激沙沙」なる民居客桟の看板を目印にする。ごく細い路地というより筋のようなところでイチゴなどを道売りしていた。さらに先へ進むと大きな市場が広がっていた。ここが忠義巷らしい。

すでに夕暮れ、市場は弛緩して麻雀をする人々が目立つ。かなり広い。調子に乗って撮影したら、SDカードのメモリーがなくなった。宿に戻ろう。せっかくなのでイチゴを買う。「8元/キロ」のはずが、中国語がわからないと見て取ると10元と言い出す。こすからい。5元分くれ、というと計って6元という。5元、と強く言うとイチゴを減らした。実に食えないばあさんだ。

帰りを急ぐが、急ぐにはツーリストたちの流れが邪魔になる。中国人は急ぐ他人のために自分が譲ったりはしない。しかも観光客で混雑する中を軍か公安が隊列を組んで行進していった。かなり不思議な光景ではあった。四方街を抜ける。古月坊客桟に戻ってSDカードを交換し、イチゴを食べた。

【少数民族の文化というビジネス】
今度は南西へ。ある店では客寄せか、織機の前に民族衣装の女のコを座らせている。

小石橋、大石橋をたどる。緩やかに傾斜した石畳の道に排水溝が切られている。

四方街から科貢坊へ。馬に乗った民族衣装の男がカモを探している。有料で記念撮影をさせる商売か。ここから南へは上り坂になっている。細い路地を仕事場に男が看板を彫っていた。

あとで地図を見直すと木府の裏をぐるっと回っていたようだ。大きな三眼井で休んでいたら、関西のおばさん3人組が「ニーハオ!」と現地の人たちの写真を撮りまくっていた。元気と言えばポジティブな表現だが、むしろ失礼を通り越して傍若無人か。

櫻花美食広場という巨大な集合屋台街、一種のフードコートに雲南料理をはじめとする各種食べ物が集結している。その規模と熱気が壮観すぎて、気圧される。なんだか追い立てられているようで、気が休まらない。官による統制と漢民族の商売上手が結合したような施設だ。

【木府前の広場】
七一街やら川沿いを適当に歩いていたら、忠義碑なるものを見つけた。ライトアップまでしている。天雨流芳の扁額が新しい。 

どうやらここが木府前の広場らしい。川沿いに北西へ。四方街はものすごい人出と騒音で、サッカーのワールドカップで盛り上がった(あるいは悪乗りした)2002年の渋谷を思い出す。 

【安い食堂が見つからない】
水辺の菜館はあまりに高いのでやめる。大理啤酒が15元はありえない。その反動で安い菜館を選んだはずなのに、なぜかトータル42元(約525円)もかかった。

 回鍋肉ホイコーロ15元、苦瓜卵ゴーヤー卵炒め12元まではメニューにあり、啤酒(ビール)はいつもの大理、米飯をつけてこの勘定ということは、ビールが10~12元、米飯3~5元か。麗江では今までの相場で考えてはいけないようだ。店選びは慎重にしよう。


時代から取り残された街【2011雲南】DAY08・沙渓

2011年04月19日 | 旅する。

4月19日 火曜日 大理→沙渓

【帰りの飛行機を探す】
今日が8日目、今回の旅のちょうど中間点になる。iPadで帰途の飛行機を検索する。麗江(リージャン)→広州は2万円超だが、麗江→昆明なら640元(約8000円)。しかし昆明から鉄道で広州に行くと1日よけいにかかるのがネック。

【沙渓への行き方をいまごろ聞く】
LAZY LODGEをチェックアウトする。初めて見る若い男が朝番だった。デポジットの12元を返してもらい、沙渓(シャーシィ)について尋ねてみたが、言うことが判然としない。昨日のうちにサモハンキンポーに聞いておくべきだったか。

沙渓は麗江まで北上する幹線道路から外れた位置にあり、途中の剣川(けんせん/ジェンツァン)で降りて乗り換えることになる。ここまでは調べてある。剣川からはミニバスがあるのか乗り合いタクシーなのかは出たこと勝負。方角から考えれば剣川方面に行くバスに古城付近から直接乗車できそうなものだが、それは推定であって確実ではない。剣川行きのバスがどこから出てどこを通るのか、わかっていない(だから聞いてみたのだが)。

いったん南に戻ってまた北に向かうことになるのが業腹だが、下関(シァーグァン)まで行けば確実だ。下関へは西門を出たところからバスがあるという。

【バスとミニバスの違い】
07:30、緑色のバスがUターンするので、追いかけて聞く(二路、大理学院行きだった)。「前のバスに乗れ」と言われ、見ればミニバスがいた。ミニバスの乗客はまだ二、三人だった。

出発したミニバスの車内から緑色二路の下関行き路線バスを見つけた。もう少し歩けばよかったのか。こちらのミニバスは古城の東南をかすめて乗客を拾いながら走る。フランス人初老夫妻が乗ってめでたく満員になり、車掌がバス代徴収にかかる。「すーふぁ」、4元だった。路線バスとミニバスの価格はそれぞれ約20円と約50円でたいした差ではないのだが、妙に悔しい。

【この客運站ではない】
ミニバスは下関に入り、市街地のはるか南の客運站で下ろされた、ドライバーは「ここだ」と自信たっぷりだが、客運站で聞けば沙渓行きも剣川行きもなかった。「ツァイナーリ(在哪[口+那]裡)?」と聞くとメモに「北站」と書いてくれた。オート三輪と交渉したら、運転手が指で十字を作った。ペケの意味かと思ったら「10元」の意味だった。なんと強気な。

【下関から剣川へ】
時間がもったいないので言い値で乗る。5分ほどで大理汽車客運北站(大理北バスターミナル)に着いた。

このバスターミナルも近代的な建物で時刻表には麗江や香挌里拉(シャングリラ)行きが並ぶ。幸い、剣川行きは15分おきにあった。距離にして93km。窓口に並び、メモを見せると担当の小姐は表情をキリッとさせて電卓で「30」と料金を見せてくれた(29元に保険1元)。08:55発。ミニバスに毛が生えた程度の中型バスは、ほぼ定時に発車した。子どものおしっこで停車するローカルさがたまらない。このバスにはツーリストはほとんど乗っていない。途中で満員になったが、かまわずさらにどんどん客を乗せる。

路傍の市場を通り過ぎた。炎天下に肉も野菜も板に直のせで売っている。

すでに2時間以上走っている。どうやら「各駅停車」だ。3時間以上はかかるだろうと覚悟した。峠を越える。気圧が下がって耳が痛いのだろう、子どもが泣く。結局、剣川には3時間40分かかって着いた。計算したら平均時速26kmだった。着いたところはバスターミナルというよりは、空き地の駐車場に近かった。

【沙渓行きバスから追い出される】
「沙渓行きはそこ!」と車掌が指さすバスに乗った。座席は荷物で満杯になっている。乗客がなんとか座るスペースを作ってくれたが、結局ドライバーに追い出される。理由は不明だが、沙渓は近いから次のバスにしろ、ってことらしい。権力はつねに横暴だ。次のバスは隣に停まっていた。14:00発、あと1時間以上もある。ドライバーに「喫飯(チーファン/食事)に行く、荷物は置いたままでいいか?」とことわって外に出た。

【乗り合いタクシーでチキンレース】
通りに出たところで乗り合いタクシーを見つけた。「石宝山、沙渓」行きのボードが出ている。これだ! 走って戻り、荷物を持って件のドライバーに「汽車(チーチャオ/自動車)!」と一声かけて乗り合いタクシーへ。乗ったところでちょうど満員になり、客8人を乗せて発車。これが凄まじいカミナリ族(かなり古い死語)で、何度も事故を起こしかける。無理な追い抜きをかけ、反対車線に突っ込んではギリギリですれ違うのが大好きらしい。中国人の乗客が悲鳴をあげている。

【ここが沙渓らしい】
けっこうな高度の峠を越えていく。田舎道がつづく。どこかの空き地に乗り入れて停まった。沙渓に着いたか。降りて10元を支払う。

ただの空き地に放り出され、何の見当もつかないまま、とりあえず通りを歩く。静かを通り越してゴーストタウンのように人影が薄い。それほど広い道ではないが両脇に商店が並んでいるのでメインロードのようだ。後で思えば左手に寺登街があったはずだが気づかずに通り過ぎた。突き当りに「沙渓酒店」の派手な看板があり、沙渓の地図を眺めていたら気のよさそうなおじさんが「ニーハオ」と話しかけてきた。

【成り行きにまかせてみる】
どうやらこの酒店(ホテル)のオヤジらしいので、「有没有単人房(ヨウメイヨゥタンレンファン/シングルルームありますか)?」と聞く。部屋を見せてもらうと、中庭に面した伝統様式の家で、庭では子どもたちが遊んでいる。

2階の広いツイン、シャワートイレ付き、庭を見下ろせる静かな部屋だ。「多少銭(トゥオシャウツェン/いくら)?」と尋ねたら100元だった。オヤジはニコニコしている。「好(ハオ/いいです)!」即決する。

沙渓酒店に落ち着き、オヤジに石宝山への行き方を聞くと「汽車! すぐそこから」というので、たぶん乗り合いタクシーを降りたあそこだろうと見当をつける。途中、雰囲気のいい古道を撮影する。ここが実は寺登街だった。タクシーたまりにいた乗合タクシーと交渉する。一台しかないので、ターゲット決定は容易だったが交渉は難航が予想された。「石宝山」と書いたメモにつづけて「多少銭」と聞くと、「180元」と書いてきた。粘って往復150元(約2000円)にしてもらう。何しろ選択の余地がない。クルマからは鶏糞の匂いがした。生きたままニワトリを運んだな。

【石宝山、宝相寺の猿】
石宝山へはさっき沙渓に来た道を戻ることになる(安くあげるなら剣川からの乗り合いタクシーを石宝山入口で降り、そこから徒歩で回る方法もなくはないが、宝相寺と石鐘寺を両方回るとトレッキング並みの距離だ)。乗り合いタクシーを独占チャーターしたから、途中の停留所で待っている客は乗せないわけで、不満げなおばさんたちが「乗せろ!」と窓やドアを叩く。さすが中国を生き抜く人々。やがて静かな道になり、牛たちを追い越していく。

石宝山の入場料は50元だった。ガイドブックでは30元だったから、観光インフレが進んでいる。さて、宝相寺はどこだ? ドライバーがあそこ、と指さすのは石段のはるか上だった。延々と石段を上っていく。巨岩を立てて水を流し、滝に見立ててある。仙人でも住んでいるのかのような風情をかもしだしているが、仙人の代わりに猿の群れが住んでいて、人を見ても逃げない。

猿に食べ物を与えるな、と注意を促す看板のはずがあまりにもトンデモ翻訳なので、とくに掲載してみる。

英語も日本語も支離滅裂、おそらく自動翻訳をそのまま転記しちゃったんだろうが、なんで「movie/映画」なんて単語が出てくるのか?

ようやく寺に着くと、正面の岩盤はるか上に巨大な像や鳥取県三朝温泉にある投入堂のような堂宇がはめ込まれている。お堂の先にはまたお堂がある。

そして壁を上るには石段をまた登らなければならない。仏の道を究めるのは苦行である。岩壁を背にして立てた堂宇、人工的に水を導いたらしい滝。福々しい像を行き過ぎてから振り返る。

さらに上がると最近作ったような像もあり、最後はお堂に塗装の仕事中だった。

さらに頂上まで石段は続いていたが、「ま、このへんにしてやろう」と自分を許す。降りたら1時間たっていた。ふう。一仕事をやり終えた感がある。しかし、待っていたドライバーが「まだある」と壁の浮き彫りを指さした。え、これもかい。

【石宝山、石鐘寺の石窟】
さらに7kmほどドライブすると石鐘寺に着いた。今度はさっきよりもさらにアプローチが長い。しかも谷を降りていくということは帰りは上りではないか。

途中、岩にかすかに色が残る壁画があった。寺では男たちが賭けトランプをしている。チケットチェックがあり、石窟へ。

フランス人の家族連れは小さい男の子と女の子を連れていた。

剣川のモナリザと称される像や、愁いを帯びた老人のような像が小さな石窟に鎮座している。女性器の形象を崇めるのは仏教では極めて珍しい。途中でまた岩壁画を見つけた。

見晴らし台からは絶景に点のような建物の配置が絶妙だ。その建物へも行ってみる。

さらに獅子関窟に行こうと思ったが、道を間違えたか、戻る道に合流してしまったので、帰ることにする。ドライバーが途中まで迎えに来てくれていた。「シャーシィ(沙渓)?」にうなずく。帰り道は眠りこけた。時々目が覚めると車窓には菜の花畑と田んぼがつづく。

まことにのどかな道だ。谷沿いにクネクネと曲がる道に入ると、沙渓に着いた。「そこが寺登街だよ」とドライバーが教えてくれて、150元を支払い、握手する。ついクセで「ぼられてないか」と神経質になるが、もっと素直になってもいいのかもしれない。

【寺登街で水音を聞く】
夕方の寺登街を歩く。小川の水音が響く。それだけ静かだ。子どもが友だちを呼ばわる声。客桟、カフェがたくさんある。というか、観光地としての沙渓、ツーリストにとってのメインストリートはこっちだった。

趣はあるが大半は観光客向けの店が並ぶ。ただ、ツーリストは外国人も中国人観光客もほとんど見かけない。暇なのか、庭で卓を囲んで麻雀をしていた。中国の麻雀は捨て牌を中央の「海」に放るので誰の捨て牌か確認できず、故にフリテンがない。その他にもルールがけっこう違う。ちなみに中国ではマージャンは「麻将」で、「麻雀」はスズメの意味になるそうである。

通りは短く、あっという間に大きな広場に着いた。四方街だ。大声が聞こえるのは携帯電話でリコンファームか何か悪戦苦闘する外国人ツーリストだ。たぶんさっき会ったフランス人家族の父ではないかと思う。俗事の電話以外は実に静謐で落ち着いた空間だ。寺の門に派手な色の仁王が立っていた。寺の名は光教寺、向かいに三層楼、古戯台が建つ。

広場中央には巨大な木がそそり立ち、それより高いポール(柱)の上に飾りが乗っている。子どもたちが缶蹴りらしき遊びをしていた。門から外へ出ると空き地が広がり、その向こうを川が流れていく。

【玉津橋と工事中の橋】
どこかの写真で見た趣のある橋はどこだろう? たしか玉津橋とかいったが。

川の上流を見れば、すぐそこにかかっていた橋が玉津橋だった。その先では新しい橋を工事中で、手押し車で資材を運び、鑿で岩を穿ち、路傍に火釜をしつらえて鍛鉄に火入れしていた。自動車もドリルマシンもない。手作業で、火も薪でおこしている。

ここだけ、時代が止まっているような錯覚に襲われる。

玉津橋は見事なフォルムをしていて、小さな彫刻に味があった。来た道とは別の奥まった道をたどって戻る。自転車のツーリストとすれ違った。

東門は石と土でできた方状の門で、素朴。広場に面した壁には中国共産党のかなり古いスローガンが残っていた。「中国要富強、民族要共和、人口要控制(試訳:国を富ませて強くし、民族は共に和し、人口を抑制するべし)」。

寺登街を戻ると、ツーリストの姿が少し増えてきたようだった。さて、欧陽大院はどこだろう? 

この門かな。確信はないがくぐってみる。 

【沙渓の静かな夜】
少し早いが夕食にする。あまり選択肢もなさそうだ。桔木飯店ORANGE RESTAURANT、メニューに料理名は中国語と英語で表記されているが、値段がない。材料を指差しての注文もできるようだが、それはまだ難易度が高い。猪肉排骨FRIED PORK RIB、炒飯FRIED RICE、大理啤酒BEERを頼む。

ビールはよく冷えていて、すぐ出てきた。通りを眺めながらビールを飲む。娘が「SPICY?」と注文を確認しにきた。雲南料理は四川料理系統なので、辛いのは半端なく辛い。「JUST A LITTLE BIT.(少しだけ辛めに)」お願いする。

でてきたのは味付けスペアリブの唐揚げに唐辛子となんかの葉っぱの素揚げ、なんかの漬け物らしい醗酵したうまみが少し利いた炒飯で、どちらもおいしくいただいた。日本人には塩味と油がきついかもしれないが、完食した。

勘定は計28元(約350円)、推定では排骨12元、炒飯10元、脾酒6元あたりか。ミニッツメイドのオレンジジュースを3元で買い、沙渓酒店に引っ込む。今日は移動と山歩きで疲れた。

電気ポットが沸かず、テレビが映らない。別にいいが、気になる。たぶん、どこかに電源をコントロールしているスイッチがあるはずだ。シャワーを浴び、WiFiがあったのでメールチェックをした後、寝ようと思ってベッド脇のスイッチをいじったら、音楽とともにテレビがついた。このスイッチが電源と連動していたとは。せっかくなのでテレビでいくつか番組を見て、寝た。


人生に三つの味【2011雲南 】DAY07・喜洲へ

2011年04月18日 | 旅する。

4月18日 月曜日 大理

【喜洲へ】
早朝、宿からいったん外に出たが、寒いので部屋に戻って薄手のシャツを着て出かける。今日はちょっと遠出してみようと思う。西門を出たら、駱駝がいた。

客引きのおばさんに「喜洲(シージョウ)行きは?」と聞く。
「もっと向こう」
そうですか。さらに駐車場誘導係の兄ちゃんに聞く。
「向こう、さらに左手に回ってドウタラコウタラ」
西側を見上げると、峰々に朝日があたってきれいだ。

暇そうな警官に聞く。
「まだまだ、向こう」
ミニバスが停まっていたのでこれかと思ったが、ドライバーも乗客も
「道の向こう、あそこ!」
と左手に停まっていた青い車両を指差す。あれか! 北に向かうのだから、と道の右側を歩いて来たのだが、喜洲方面に行くミニバスは反対側だった。この空き地から往復しているらしい。道を渡る。広い車道を太陽が照らしている。いい天気だ。

[注]いかにも流暢に聞いているようだが、実は「シージョウ(喜洲)?」と地名を発音しているだけである。聞き返され、言い直しを重ねて発音が現地に近くなり、だんだん平仄にも習熟すると、旅が楽しくなってくる。

このミニバスは洱[さんずいに耳]源行きだった。乗車して発車を待つ。こういう類いの近距離ローカルバスには定時がなく、満員になってから出ることが多い。車掌が回ってきた。7元と意外に高い。30分足らずで喜洲に着いた。下ろされたところは何もない道路脇で、めざす喜洲の街は東側に少し入ったところにあるはずだ。歩いても15分くらいか。

【ピラニアに1元】
バスを降りたときからオート三輪の男が寄ってきて、執拗に「乗れ」という。あまりにしつこく、ピラニアみたいだ。「1元」というので、後でどこかに連れていってリベートを稼ぐつもりだろうとは思ったが、乗ってみる。回りには田んぼが広がる。日本と違うのは稲刈りしたばかりの田や植えたばかりの田が混在していることだ。二毛作あるいは二期作なのだろう。大理はもともと洱[さんずいに耳]海(アルハイ/じかい)という水源に恵まれて発展した地域である。オート三輪はすでに喜洲の街のなかに入っているが、ピラニアはかまわずさらに進み、何やら古い大きな家に入って停めた。ここの白族伝統民居(古民家)を見学し、三道茶と民族舞踊を楽しんで40元という。やはりリベート目当てだった。

伝統民居で三道茶と民族舞踊は喜洲観光の定番だが、こうした観光民居がたくさんできて、競争になっているらしい。そのうちどこかの民居には行くつもりだが、いきなり頼んでもいないところに入るほど、人はよくない。しつこいピラニアを約束の1元で振り切り、外へ歩き出した。

【広場で焼きうどん】
歩いてみると、街は自然な古色を帯び、大理古城のように開発も進んでいず、なかなかフォトジェニックである。広場に出たら、いい匂いがした。焼きうどんのようなものを食べてみる。

屋台にしては5元(約78円)と高いし、量が少ないが、ニラ、唐辛子に漬け物と素朴な麺に風情を味わう。広場から東へと細い道をゆく。観光馬車がコトコトと蹄を鳴らして追い抜いていった。

このまま東へまっすぐ行けば洱[さんずいに耳]海に達するはずだが、けっこう遠いのであっさりあきらめる。老爺が自転車に幼児をのせて行きすぎていった。

さっきの広場に戻ると団体の観光ツアーが来ていた。ここもやはり観光地ではあるが、幸いにして他の観光地ほど演出過多ではない。

広場から北にのびる通りが路上市場になっていて、その先にオート三輪がたまっていた。本来は買い出しの人たちの足になっているようで、さっきのピラニアのように観光客を狙うのは少数派(というか、一人だけ)のようだ。

【人生には三つの味がある】
狭い路地をジグザグに折れながら、行きつ戻りつする。こういう時間がいちばん楽しい。小さな街だが、商都であり、古道の宿駅でもあったろう。

厳家民居を見つけたので入る。ここは50元。さっきのところより高いが、住宅としては驚嘆する広さと建築の巧緻さを誇る。典型的な「三房一照壁」「四合五天井」だ。空いているのを幸い、ゆっくりと建築を見て回る。

[注]三房一照壁は、白族民家独特の庭院形式で、三つの建物で囲んだ中庭に白い壁を立て、陽光を反射させる。下の写真が中庭、白い壁が照壁。

[注]四合五天井は、四つの建物で中庭を囲み、外側の四隅にできた空間を中庭とすることで、中央と四隅合わせて五つの庭を配する形式。中国語の「天井」は屋根のない囲まれた空間をさす。ちなみに日本語の「天井」にあたる中国語は「天花板」。

向こうから手招きされたので行ってみると、イベントが始まるらしい。どうやら今来た団体と一緒になるようだ。ステージのある会場に入り、まずお茶をいただく。三道茶を楽しみながらステージの民族舞踊を見る。踊り子にカーリングの本橋麻里にそっくりの娘がいて、勝手にマリリンという名前に決める。

[注]三道茶は白族に伝わるもてなしの茶道で、最初に苦い茶(緑茶)、次に甘い茶(乳製品や砂糖を加えた茶)、最後にいろいろなものを混ぜた茶(蜂蜜、生姜やスパイスなど)が出る(これを称して一苦、二甜、三回味という)。それぞれを一道、二道、三道と呼び、人生の苦楽をあらわすとされる。つまり、最後は「いろいろあった」ということか。

バスに乗るため幹線道路に向かって歩く。

道路に出たら、あのピラニアに会った。ここで客待ちをしているのだから、当然か。最初の民居に入らなかったので怒っているかと思ったら、親切にもバスが停まる場所を教えてくれた。しかもわざわざ向かい側に一緒に渡り、とくに目印もないところで来たバスを止めてくれた。乗り込むと、道路からピラニアが手を振っていた。

【風船売りの背中】
途中、崇聖寺三塔が見える。大理随一の観光名所だが、入場料が高すぎる。車窓から見たことで「観光した」ことにしておく。バス代は今度は8元だった。細かいことにはこだわらないことにする。朝と同じ場所に着いたが、今は祭りの喧騒でけたたましい。風船売りが売り物の風船を大量に身にまとわせて歩き回っていた。

【千円でマッサージ】
LAZY LODGEに帰ったら、タオルが交換してあった。ゲストハウス的安宿と思っていたが、サービスは意外に緻密だ。

14:30、昨日目をつけておいた博愛路にはマッサージ店が並んでいる。中国伝統の経絡云々で80元/60分というコースがたぶんツボを押してくれるだろうと思い、それを頼む。日本円で約1000円。

個室に案内されてお茶が出た。頭、手、足、腰のツボ、とくに首筋と脚の付け根のリンパ節を念入りにマッサージしてくれる。腕のツボはかなり痛かった。続いて肩、お尻、腰、背中。実質1時間以上、丁寧で良かった。客のカラダがあまりに硬かったので、余計にやってくれたのかな。

【祭りと商魂】
洋人街広場では、昨日軽く撮影した建物をツアーガイドが長々と解説していた。後で来てみよう。今はカメラを持っていない。

16:05、カメラを持って出直す。坂道を上がって城外へ出たら、祭りの人混みに突入することになった。西門から玉耳路を歩くとキャンペーンガールが何か飲み物を売っている。2.5元は安い。服飾店の値付けは「19元!」が多い。レート換算するなら137.5円だが、感覚的には「490円!」あたりか。所得水準がわからないから何とも言えないが。

【雲南風のキリスト教会】
博愛路を左折して北上する。大理公試院を探すが、それらしき建物は見つからない。駐車場奥に素っ気ない建物はあるが。北門から南下したあたりに天主堂(キリスト教会)があったが、探している天主教堂とは違うようだ。映画館の前には出店が多数。昨日と同じ場所で、昨日とは違う団体が伝統音楽を演奏していた。

さっきツアー解説していた洋人街広場の建物。さっきマッサージを受けた店。人民路のカフェ通り。東へ行くと清真料理(イスラム料理)の店が並ぶ。だんだん大理という街になじんできた。

「天主教堂」の文字が見えた。行ってみたら、見事な建築(1927年)だった。これか。施錠されていたので、外側だけ拝観する。

西正面に三つのアーチ門、捻り円柱。西に正面を向け、塔が立ち、東へ長くつづく堂宇という構成はカトリック教会のものだが、屋根の傾斜、瓦、装飾は雲南のものだ。

【あてのない散歩】
人民路に戻る。カフェ、貸本屋、日本食レストラン、客桟がちらほら。

じいさんたちが疎水べりで煙管を吸う風景は絵になる。東門からは団体ツアーのバスが次々と出ていく。叶楡路を南へ行くと、人民軍らしき警備兵が遠くから威嚇する。手真似で「行けない?」と聞くが、剣呑に銃を構える。通行禁止の掲示もなく、地図にも載っていないが、軍の施設が古城のなかにあるようだ。

【楼上から】
軍施設のせいで南西に行けない。路地をぐるぐるして、結局は人民路に出た。復興路を南へ。昨日ほどではないにせよ、人混みの中を歩く。五華楼。さらに南下。南門をくぐると城外には花壇があり、門を背景に記念撮影する観光客が互いに互いを邪魔扱いしている。南門は登楼できなかった。

五華楼に登ることにする。階段を登ると費用徴収係(食事中)がいて、2元支払い。四方をぐるっと回る。見渡す瓦の波の中に興醒めな貯水塔のタンクがいくつか。ここの仏像を拝観する。

上にあがる階段を見つけた。まだ上があるんだ。登る。また回廊があり、さらに最上段へ登る。大理を見下ろす。

この高さからは洱[さんずいに耳]海が見える。その向こうの東山に夕焼けが反射してきれいだ。そうだ、思い出した。明るいうちに洗濯物を取り込まないと。

【書店にて】
帰りに本屋を二つ見つけた。

本屋1、教科書中心、ケルアック "ON THE STREET" 中国語訳『在路上』あり、日本の作家では渡辺淳一も。
本屋2、樹林書房みたいな名前だった。『ONE PIECE』21巻(中国語版)8.8元(約110円)、大理、麗江他をおさめた雲南写真集40元(約500円)を購入する。計48.8元、50元札を出したら律儀に1元札と1角札2枚を渡してくれた。

【関帝廟で白族に間違われる】
さすがに歩き疲れた。日が暮れていく。空腹のまま洋人街から、博愛路を南へ。仮設ステージでイベントをした形跡があり、その奥に関帝廟があった。入ってみたらおじいさんが歓待してくれて、お香をあげろだの、なんだかんだ説明してくれたりするが、もちろんわからない。白族か聞かれたので「ウォーシー、リーベンレン(我是日本人)」と答える。

関羽の隣、張飛はわかるが、もう一人は幼子を抱えて走った李鵬かな。ステージ跡では子どもたちが遊んでいる。

関帝廟と隣の建物と2階で接続するつくりになっていた。そこはアンティークショップ中心のコマーシャルコンプレックスだった。モスクかと思った尖塔はホテルらしい。宵闇が迫る。LAZY LODGEに戻る。庭にいるサモハンキンポーに会釈したら、手を振ってくれた。干していた洗濯物を回収して、すぐまた外出する。夕食だ。店頭に野菜や魚を並べ、派手に中華鍋をふる店がいくつもある。メニューはなく、材料と料理法を指定する注文方法だった。

【烏骨鶏の滋味】
そこはやめて博愛路を下る。角でギターとジェンベのセッションをやっている。BAD MONKEYの向かいの店で熱心なウェイターに根負けして庭のテーブル席に座る。最初に器セットにお茶が出た。メニューとビールを頼む。鍋が3個重なって蒸してある烏骨鶏らしきスープ30元をとくに薦めるので、頼んでみる。料理名は「汽鍋烏骨鶏」。すぐにきたのは、たぶんもう作ってあったから。

すくえば黒い鶏の足。骨ごとぶつ切り、キノコや生姜やネギや臓物や漢方薬膳の香りがする実もみえる。洗練とは対極だが、スープはものすごく美味。漢語の「滋味」そのものだ。途中で米飯(ミーファン)を頼む。ここは櫃(ひつ)ではなく皿にのって出てきたが、けっこうな量をほぼ食べきる。会計は38元だった。

【大理でジャズ】
向かいのBAD MONKEYへ。あまりに高いので悩む。ビールの値段が2倍だ。結局いちばん安いラムをオンザロックで、18元(約225円)。 

今晩はジャズのライブで「SO WHAT?」など4曲を演奏した。4人編成、ドラムスがリーダーで、ベースがサブリーダーっぽい。他にエレキピアノ(キーボードというよりもエレピ一辺倒だった)、ギターは唯一のアジア系で、民族楽器も弓でちょっと弾く。なかなかのレベルで、民族楽器もアレンジし、面白かったが、酒がむやみに高いのでさっさと出る。

街角でギターとジェンベがなんとなく集まって、楽しそうな夜。あまり関係ないがウブド(バリ島)を思い出した。少し幸せな気分でいつものねぐらに帰った夜。幸せの真っ只中でなく、ちょっと外側で気分だけ味わって帰る。


民族の祭り、三月街【2011雲南】DAY06・大理

2011年04月17日 | 旅する。

4月17日 日曜日 昆明→大理

【ドミトリーの朝】
大地を揺るがすいびき、フランス人の話し声、誰かの目覚まし。10人ドミトリーならではの雑多な騒音のおかげで寝過ごすこともなく、6時前に起床。シャワーを浴び、シーツなどをはいで所定の場所に置き、寝ている人に気を遣って荷物を廊下でパッキングして、チェックアウト。デポジットの50元がかえってきた。

テラスに出ると朝日がもうのぼっていた。街路でタクシーを待つが、なかなか来ない。清掃車が通ったあとの道路でバイク、自転車が次々に転倒している。交通量が多いのでハラハラする。明らかに大量の洗浄液を垂れ流しているのが原因だが、問題になっていないのだろうか?

【発音練習の代わりに】
やっと来たタクシーに行き先を伝える。最終的には漢字で書いたメモを見せるのだが、早く行き先くらいは発音できるようになろうと思う。途中、タクシーとトラックの衝突事故現場を通過。アイヤー。早朝の郊外は空いていて、あっという間に着いた。メーターで20.6元、21元支払い。

路上の飯屋がうまそうだ。写真を撮ったら、晴れやかに笑いだした。釣られてボクも笑った。

【大理へのバスはどれだ?】
大理(だいり/ダーリー)行きバスを探している、と言うと「アール・サン・スー・スー」とゆっくり言ってくれる。バスの番号「2344」はわかっている。問題はバスにその番号の掲示がないのだ。適当にあたりをつけたバスのドライバーにチケットを見せたら違っていて、隣のバスだった。乗客から笑いが起きる。ボクも明るく笑って教えられたバスに乗る。

車内はこんな感じ。

07:43、発車。途中、公安のクルマが問答無用とばかりにクラクションを浴びせて他の車をどかし、Uターンしていった。自分さえよければ、他はどうでもいいらしい。

【下関から古城へ】
12:32、到着。昆明から大理へのルートは景色がいいらしいが、熟睡してしまった。さて、バスが着いたここは大理であってまだ大理ではない。旅行者にとっての大理は 「大理古城(ダーリークーチョン)」という城壁に囲まれた街だが、現代の大理市の中心は下関(シャーグヮン)で、ここが交通の起点になっている。長距離バスのほとんどはここに発着するが、行き先は「大理」と表記されるのでまぎらわしい。

バスを降りたところはただの路上で、飯屋が並んでいた。

古城へ行くバスを探すが、何の標識もなく、試しに勘で歩くが手がかりがない。客引きかと思ったおばさんが「パーシー(8/八路)」とバスを教えてくれた。けっこう遠い。南北に通る大通りにバスがたくさん走っていたので、北行きのバス停から八路のバスに乗車、1.5元だった。

左手に蒼山、右手に洱[さんずいに耳]海(アルハイ/じかい)。住宅開発が進んでいる。バスが城壁のなかに入ったら、凄まじい渋滞になっていた。それも、クルマではなく人波で渋滞している。途中、交差する通りが車両通行禁止になっていた。やがてバスが左折しようとする行く手にものすごい行列がバス待ちしているのが見えた。これはいかん。降りよう。

【お祭りだった】
バスから降りて道を少し戻り、車両通行禁止の道を歩いてみる。祭りで通行規制しているのか。あ、そうか、三月街(大理白[ペー]族自治州三月街民族祭)か。旧暦ではたしかに今は三月だ。それにしても、ものすごい人出が狭い通りにあふれている。人民の海、あるいは少数民族の海をかきわけてまっすぐ行く。大理文物保管所、復光路を行きすぎる。

西門の前に出た。屋台が並ぶ。このへんでは路上に食材を並べ、店頭で鍋を振る食堂が軒を連ねている。

博愛路から狭い道に入る。

路上で藍染めの布を売っていた。

【宿の怠惰な選び方】
LAZY LODGE(懶人回家)という宿で空室を聞く。サモハンキンポー似のスタッフは英語が苦手らしく、おかみさんを呼ぶが、彼女の英語も五十歩百歩だった。玄関に近いシングルがひと部屋だけ空いていた。室内に無理やりシャワー&トイレコーナーを作った感じで、窓が通りに面しているのも気になったが、また探すのも面倒なので88元(約1100円)で決める。荷物だけ置いて、すぐにまた散歩に出かけた。

【ペー族の料理】
おなかが空いていたので適当な店に入る。決め手は入口に張ってあった料理写真なのだが、あまりほめられた選び方ではない。2階のテラスへ案内され、通りを見下ろしてランチ。白(ペー)族のナントカ砂鍋飯、薄切り肉のナントカ、ビール。菜単(メニュー)があったので、中国語と英語を参照して解読したが、値段はだいぶ高めだった。

大理名物は「砂鍋魚」(土鍋に魚、野菜などを煮る)だが、その土鍋を使った炊き込みご飯だった。薄味。薄切り肉のタレには納豆のような発酵味があり、「大理に来た!」という感を深くする。

通りを龍の行列が練り歩いていった。

勘定は「スースー」、44元らしいが100元出したらお釣りは55元だった。料理はまあまあだが、サービスする人間にいまいち誠意が感じられない。

雨が激しくなり、しばらく雨宿りしてから雨足が鈍ったところを急いで帰る。

【紙幣が検査機を通らない】
LAZY LODGEでチェックインの手続き。例によって多めにとられる。デポジットであることはわかっているが、念のため「デポジットか?」と尋ねたら意図せずおおごとになる。自称「英語ができる」という中国人客が「FOREGIFT」としたり顔で解説するが、たしかにそれは敷金とか前払い金という意味ではあるが土地や家を買うわけではなく、宿泊施設(それも短期)ではあまり使わない英語だし(たぶん)。

結局漢字で筆談して、わかっていることだがちゃんと確認しておく。さて、今度は払った札が紙幣検査機を通らない。安宿で札を検査機で調べるのも初めてみたが。しょうがないので、別のATMからおろした札を試したら検査機を通過した。おそらく検査機の不具合だと思う。サモハンキンポーが「またか」と悩んでいた。中国製品レベルの一端をかいま見る。ちなみに、中国語ではデポジットを「押金(ヤージン)」というらしい。覚えておこう。

フロントで洗濯を聞いたら「洗衣?」と洗濯機まで案内してくれた上ほとんど代わりにやってくれた。洗濯粉つき、12元(約150円)。洗濯機の使い方は日本とほとんど同じだった。

【エスニックを売る街】
夕方の散歩。洋人街を抜けると街頭では伝統音楽を演奏していた。 

復興路を南へと歩いてみる。古い街並みがつづく。時には崩れかけたまま放置されている。お祭りでなおかつ日曜日のせいか、人ごみがただごとではない。東華楼を過ぎ、南門の前には沙悟浄と猪八戒(の格好をした商売)がいた。福を呼ぶという羊がいて、門の南には民族衣装の若い女性が並んで、記念撮影で一緒に写る仕事にいそしんでいる。

路地裏でペー族が「香草肉」を売っていた。屋台ですらない青空商売だ。

一説には少数民族を売り物にした観光地の商売で儲けているのはほとんどが漢族で、元手がない少数民族はこうした路上の商売でしのいでいるという。

某友人に聞いていたBAD MONKEYを発見する。いわゆるライブカフェだ。なかなかワルい雰囲気である。通りを少し行くと日本人とおぼしきカップルが道売りをしていた。その近くにはジェンベなどを4人で叩いて遊んでいる連中もいた。バスキングしているのか、ただ演奏を楽しんでいるのかは不明。ひとりでギターを弾く若者もいて、このあたりはそういう界隈らしい。

【洗濯機を直す】
LAZY LODGEに戻ったが、洗濯機はまだすすぎの段階だった。けっこう時間がたっているのにおかしいと思い、よく見ると排水トラブルがあってエラーになっていた。直す。洗濯が終わるまで、庭で地図を見たり、スタッフが自転車を点検する様子を見ていたり、なんかゆるい感じでぼーっとする。こんな時間が実はいちばん記憶に残ったりする。ようやく洗濯が終了し、おかみさんに干す場所を聞く。螺旋階段を上がった上に干し場があった。

【あちこちで踊りの輪が】
夕食を求めて外出する。試しに西側から城外に出たら、そこも祭りだった。無数の屋台がひしめいていて、めまいがしてきた。適当に街をぐるぐる一周してみる。マッサージは18:00前なら割引だった(「8折!」は八掛け、つまり2割引の意味と判明)。広場というか交差点というか、いろんなところで踊りが披露されている。

祭りの高揚した雰囲気に浮かされたように人々がうごめく。さらに暗くなっても踊りはつづく。揃いの民族衣装からは「官製パフォーマンス」の雰囲気が漂う。

果物の屋台には裸電球。

そうだ、夕食を食べるところを探していたのだった。この店に入った理由は、いいかげん疲れていたし、客引きのお姉さんが熱心だったからである。青椒肉絲に見えた炒め物にはタケノコでなくキノコがたくさん。ビールを飲み、米飯(ミーファン)を頼んだらおひつ(!)ごとテーブルにやってきた。たらふく食べる。下の写真に同じ皿が二つあるのは、一方は取り皿だから。もともとは大人数で料理を分け合うのが本来の形であろう。

どうやら食べ過ぎた。勘定は36元(約450円)、お茶も有料らしい。BAD MONKEYではライブをやっていたが、食べ過ぎで気持ち悪いのですばやく帰る。


世界遺産というドル箱【2011雲南】DAY05・石林へ

2011年04月16日 | 旅する。

4月16日 土曜日 昆明(石林)

【石林行きのバスを探して火車站へ】
ホステルの廊下には火車站(鉄道駅)をはじめ、各地への行き方が掲示してあった。西洋人が主な客なのだから、おそらく列車やバスのきっぷもここで手配できるんだろうな。この掲示によれば火車站へはバス107番で1元で行けるようだ。朝6時過ぎにいったんチェックアウト、夜番の初老のおじさんから100元が返ってきて、預けた荷物にもちゃんとナンバーのついた札をつけてくれた。さて、バスがあることはわかったがバス停がどこかわからず、結局火車站まで歩く。

これは途中で見つけた映画の看板。

【トンブーとは何か?】
ガイドブックによれば火車站すぐそばに石林(シーリン)行きが発着するバスターミナルがあるはずなのだが、ない。正確には火車站近くにバスターミナルはあるが、そこから石林行きは出ない。きっぷ売り場で聞くと
「メイヨウ、トンサンペイ、うんたらかんたら」
と突き放される。次に客引きに聞くと、
「トンブー、うんたらかんたら」
とわけがわからない。推測するにバスターミナルが郊外に移転したのではないかと思う。

結局指差し会話帳で警備員に聞いてみたら、ペンを出してメモ帳に
「BUS60→TOMBUQUIなんたら」
と書いてくれた。指差した方向をたどり、北京路、永平路、と遠回りをしたがついに「60」のバスに大勢の人民が群がっているのを見つけた。「東部交通○○站行き」とあり、「トンブー」は「東部」かと得心する。

バスに押し合いへし合いして乗り、2元を支払い、立ちっ放しで53分。途中で東三杯というバス停があり、きっぷ売り場の小姐の「トンサンペー」と符合した。なるほど、なるほど。終点らしきところで流れのままに下車したら遠くに「昆明市東部汽車客運站」が見えた。これが警備員が書いてくれた「TOMBUQUIなんたら」ということか。

やはり石林方面など東へ向かうバス路線は郊外に新設されたバスターミナルに移管されたようだ。中国の変化は想像以上に早い。きっぷ売り場の電光掲示板には「石林風景区 毎10分/25元」とあり、手書きのメモを見せて無事にきっぷをゲットした。

【世界遺産はドル箱】
1時間半弱でバスは石林風景区入口に着いた。入場券は175元(約2188円)もする。

予想以上の観光インフレだった。ガイドがつくわけでなく、ただの入場料が宿泊代よりはるかに高い。しかし、中国人観光客は嬉々として入場し、民族衣装を着たサニ族がツアー客をガイドしている。ううむ。しかし、ここまで来たら入るしかない。

とりあえず、歩く。

天然舞台、屏風石あたりは記念撮影スポットになっている。

広場では民族舞踊をやっていて、大きい三絃(サンシェン/三線や三味線の原型)に共鳴胴とさわりをつけた楽器が興味を惹いた。

狭いところを抜けるといきなり開けて蓮花池に出る。

アーシマの岩では民族衣装に着替えて記念撮影するのが定番らしい。

ここからいったん戻って最初の分岐を左手に行く。人ごみを避けるようにルートをとる。三絃もどきの楽器の巨大なオブジェがある舞台に出た。

もとの道に戻ったので、大石林から別のルートを歩くが、結局、蓮花池に着くのは同じ。望夫石への道を取る。

人が極端に少なくなる。団体のルートをそれると人口密度が下がるようだ。ひとりで岩山を歩くのは気分がいい。

しかし、暑い。うっかり道に迷うと脱水症状がこわい。監獄石というあたりは日陰が多いので、しばし休憩。また蓮花池に出たところでいいかげん帰ることにする。

【中国のバスに慣れていく】
バスのきっぷ売り場で何か聞かれるが、中国語はもちろんわからない。通じた部分だけ雰囲気で意訳してみると。
「13:00?」イエス。
「ひとり?」イエス。
「27元」
かくして、すでに満員のバスに乗る。行きより2元高いのは保険2元が加算されているから。最後尾に座る前にもう発車した。歩き疲れたせいか、熟睡してしまい、気がついたらみんな降りていた。慌てて降りたが、そこはただの路上だった。人の流れについて行くと、ようやく今朝の東部バスターミナルが見えた。なぜ離れた路上に下ろされるのかが不可解だが、これが中国方式らしい。

東部汽車客運站とは別に、市内バスが発着する乗り場を発見。すぐに60のバスが来たので人民の海に揉まれつつ、なんとか乗車する。座れなかったが朝よりは混んでいない。途中からは座れて白塔路、春城路と道を確かめる余裕が出て来た。駅前の道で降りて歩くと飯屋(食堂というより、戦後闇市に近い)が立ち並び、「二蔬二菜8元」などと看板を出している。その安さとエネルギーに圧倒される。

【博物館に古代をたずねる】
南蒙バスターミナルに行くと、たちまち客引きに囲まれた。振り切って構内で大理(だいり/ダーリー)行きの情報を探すが、何の表示もない。客引きによれば大理行きは西部バスターミナルから出るらしい。「オレのクルマに乗れ。○○元で送っていく、そこからはXX元だ」というようなことを口々にわめくが、今日はその情報で十分だ。客引きをうまく使うのも大事なテクニックで、とくに中国は変化のスピードが速く、ガイドブックどころかネットの口コミもすぐに古くなる。

タクシーで雲南省博物館まで行く。東風東路に右折、Uターンして東風西路というルートは面妖だが、回り道なのか渋滞回避だったのかはわからない。メーターは15.3元で、15.5元(約194円)渡すと当然のようにお釣りは返ってこない。いまだに「角」という単位を中国で見ていない。

雲南省博物館は2階に展示、3階に民族物産展(ほぼ売店)と展示がある。

司馬遼太郎『街道をゆく20 中国・蜀と雲南のみち』から引用する。

……(以下は引用)……[石塞山は]日本から出た「漢委奴國王」という金印としばしば比較される金印「滇[てん]王之印」が出土した古墳のある山である。その古墳地帯から紀元前の青銅器も多数出土し、とくに、
「雲南青銅器」
と称せられる。戦国から前漢時代のものが多く、おなじ青銅器でも、漢族のものとは違っている。滇池のまわりで栄えた西南夷の古文化を物語るものといっていい。……(引用終わり)……

とあるように、昆明は滇[さんずいに眞、以下「てん」は同じ漢字]池(ティエンチー/てんち)のほとりに栄えた古滇[てん]国の中心で、引用中の「滇[てん]王之印」は前漢の武帝から益州郡として封された時のものとされている。その後は南詔国として栄華を誇った歴史をもつ。

『街道をゆく20 中国・蜀と雲南のみち』ではこの青銅器群についてかなりの紙数を費やしている。祭祀や生活の様子を知る資料的価値はもちろん、一瞬の動きをいきいきとダイナミックにとらえた造形の妙は一級の美術品でもある。他にも少数民族の文化資料が多い。有名な「牛虎銅案」もあった。昆明には駅前の「奔牛」をはじめとして牛の像が多いのだが、これに由来するのだろうかとも思う。

[注]「牛虎銅案」:銅案は青銅でできた祭祀用の供物をのせる台。牛の腹の下に子牛がいて、親牛のしっぽを虎がくわえている図案。スキタイ文化に見られる動物闘争文様との類似が指摘されている。その芸術性が高く評価され、また分鋳、溶接など古滇国の鋳造冶金技術の優秀さがうかがわれる。1972年に李家山遺跡古墓群から発掘された。

外に出たら、そこは繁華街の土曜日であった。高級車が街頭に展示されていて、キャンペーンガールがはべる。歩行者天国ではカップルが目立つ。日本でいえば、東京オリンピックとバブルが一緒に来たような、高揚感というか浮ついた感じがする。

【大理行きのバスを買う】
HUMP HOSTELに戻る。昨日頼んだドミトリー予約は入っていなかったが、ぎりぎり10人ドミの10番目に滑り込む。35元にデポジット50元、85元を払う。

英語が通じるスタッフに大理行きを聞く。バスは100元、朝7時40分発があり、西部バスターミナルまではバスで40分、タクシーで20分ということだ。ここでも買えるが15元の手数料がかかる。ちょっと迷ったが、面倒なことはさっさと済ませようとここで買うことにしたら、フロントのコが少し驚いた。普通ドミに泊まる旅行者なら手数料15元は惜しむのだろう。

今朝預けた荷物を請け出し、ドミトリーに入ってロッカーを探すが、ない。そんなわかりにくい場所にあるんだろうか? しばらく悩んでようやくとあるベッド下にあるロッカーを発見した。そこかい。さて、今度はフロントでもらった鍵で開かない。キーリング近くにあるICが反応する方式みたいだが、感度が悪いらしい。いかにも今の中国を象徴するような粗雑なハイテクに苦戦を強いられたが、ようやくロッカーに荷物をしまうことに成功する。

【雲南映像を探して歩く】
シャワーを浴びて、少しネットした後に外出する。雲南映像の場所を探して昆明を歩き回る。情報にあった場所からは移転したらしく、そこは工事中だった。何人かに聞いたが、わかる人がいない。もちろんホステルで聞けばいいのだが、こうして散歩というか、うろつく時間が愉しい。思いがけないものに会えるときもある。

結局ホステルに帰って雲南映像の場所を尋ねたら、今晩のチケットは売り切れていた。電話して特別に補助席を確保してもらう。チケットはたしか125元だった。フロントのコが「今晩雲南映像を見に行く女の子が3人いるからタクシーをシェアしたら?」とすすめる。それはまことに好都合なのでロビーで待つ。宿泊者はコーヒー1杯無料。

しかし、この女の子3人がなかなか来ない。マッサージが終わらないそうで、このままだと明らかに開演に遅れるのでひとりで行くことにした。タクシーで会場の芸術学校へ。フロントのコが書いてくれたメモを見せたが、ドライバーも会場を知らなかった。適当におろしてもらって会場を探し、「雲南映像」という看板ときっぷ売り場を見つけてチケット代わりにホステルで渡された券を見せると、電話を受けて席を手配してくれたスタッフが席に案内してくれた。補助席ながらいい場所だった。すでに開演の20時を5分過ぎていて、席についてすぐにショーは始まった。

【雲南映像、伝統とモダンの融合と再展開】
ステージを撮影することは禁止。著作権保護から当然なのだが、カメラを構えるだけでスタッフからレーザーポインターで指摘される。しかし、中国人観客はその目を盗んで撮影することに恥を感じないようだ。

雲南映像はレベルの高いパフォーマンスで、伝統芸能をただ保存するのでなく、その伝統と人材を生かして新しい文化を生み出そうとする気迫が感じられる。何よりもその世界観が指し示す豊穣な精神の未来性と多文化の可能性、ローカルを突き詰めた先の普遍性について考えさせられる。アイルランドのRIVERDANCEを思い出した。伝統の墨守でなく、現代への迎合でもなく、伝統と現代の融合と再展開へ。

舞台はよかったが、観客席の中国人はカーテンコールも待たずにさっさと帰る。禁止される写真は撮りまくり、ショーの後に拍手する人は邪魔もの扱い。マナー以前に、自己中心的すぎる。ステージと観客席で、両方の中国を見た感じがした。

さて、帰る人の多さに対して流しのタクシーが少ないので、多くのタクシー難民が発生していた。一計を案じて逆方向のタクシーをUターンさせて停める。近くで困っていた西洋人夫婦に声をかけ、シェアする。偶然だがHUMP HOSTELから至近距離のホテルだった。夜の広場はライトアップされていた。

懸案の夕食だが、夜22時を過ぎるとかなり限定される。マクドナルドとKFCをあわせたようなdico's(徳克士/ディコス、中国国産ファストフード)へ行ってみる。意外にもご飯がなく、チキンをはさんだバーガーとポテトフライ、コーラのセットで値段はたぶん7元くらいだった。


東寺探しの徒労【2011雲南】DAY04・昆明到着

2011年04月15日 | 旅する。

4月15日 金曜日 (広州)→昆明

【不機嫌の理由】
夜半、トイレに行ったがなぜか開かない。真夜中なのに先客か。その先の車両まで行ったがふさがっていた。あきらめて帰る。7時に起きて、懸案のトイレをすませるため列車の中を遠征する。結局7号車の軟臥(2段寝台)まで行くとようやく空いていた。

どこかの都市を通過した。高層ビルと街路樹を備えた大通りは立派なものだ。

補助椅子を確保し、朝食も昼食も抜き(車内販売の味とコストパフォーマンスが悪いため)、窓の外をひたすら眺める。

棚田が広がる。

13:05、石林(シーリン)駅に着いた。ここで降りることも考えたが、昆明(クンミン)まで行くことにする。

14:37、ほぼ所定の時刻に昆明駅に到着。下車するにも人民の渦に巻き込まれるのだが、たまたま車掌が「こっちからも降りられる」と別の出口を教えてくれたので比較的スムーズに出られた。

【巨大なショーケースとしての昆明火車站】
改札を出ると巨大なホールは大量の団体客やダフ屋や客引きらしき面々で埋まっていた。広州駅をしのぐ巨大さは雲南省における近代資本主義のショーケースなのだろうか。

きっぷ売り場で大理行きを探す。明日の大理行き夜行は硬臥なら空席があり、昼行は硬座のみだった。本来ならさらにバスターミナルまで行って情報収集したいところだが、気力がない。早く宿を決めよう。

駅の回りには客引きやダフ屋が群れをなし、食べ物や日用品の道売り、耳掻き屋までが路上に屋台を並べていた。

【金馬碧鶏広場に宿をとる】
歩いてみる。北京路を北へ、環城南路を西へ、東寺路を北へ。左手に西寺塔が見えるが、観光は後回しにして先を急ぐ。金碧路を西へ行ったのが間違いだったようで、西昌路へ引き返してようやく昆明の中心部に出た。碧鶏門と金馬門がつづく広場だ。

この広場の奥にHUMP HOSTEL(駝峰客桟つまり「駱駝のこぶホステル」)を見つけた。ドミトリーは満室、150元(約1875円)のバストイレ付き個室が1泊だけしか空いてなかったが、他を当たるのも面倒くさいのでここに投宿。

けっこうゴージャスな部屋だった。ちなみにチェックインでは250元(100元はデポジット)支払う。このホステルは旧市街にあり、古い家屋を改装したもので西洋人に人気が高いようである。

【西寺があるのに東寺が見つからない】
外に出て書林街を往復したが、レストランも東寺も見つけられない。金碧路を東へ。やはり何もない。意固地になって三度書林街を往復する。行けども行けども東寺の塔がない。なぜだ? そうこうしているうちにネットに包まれた塔を発見した。これだったのか。

修復工事中だったらしい。意地を張って時間も体力も消耗してしまった。

【美食街はまだはじまらない】
途中の遊歩道で「美食街」なるイベントをやっていた。各地の物産展のようだが、肝心の「美食」はまだ始まっていない。どうやら運に見放されているようだ。

東寺路を渡って西寺へ行き、撮影してみたりする。

【昆明でBBQ】
美食街の周辺ををさまようがピンとくるレストランがない。金馬碧鶏広場の南に広がる新宿歌舞伎町みたいな歓楽街あたりで探してみる。決められず、優柔不断に陥る。遊園地の残骸のようなさびれた地下の広場や、伝統建築とアメリカ文化が野合した欲望の混沌を眺める。美食街と広場南の歓楽街を往復する。もっと遅い夜が本番なのだろう、まだスタートしない夜の街の風情が漂う。

この建物がカフェらしい。何でもありだな。

結局、「BBQ」という看板に釣られて、とある店に入ってみる。日本で言うバイキング(フランス語ならbuffet、北欧ならsmorgasbord、沖縄なら「バッフェ」、つまりセルフサービスの食べ放題)の料理をのせた大テーブルがあり、さらにシュラスコ風にBBQの串焼きが客の卓を回っていくシステムらしい。ビール、ドリンク、サラダ、フルーツ、スイーツ込み込みで48元(約600円)。スタッフは英語はできないが、笑顔で懸命にサービスしてくれるのがけなげ。

クミン味付けの羊肉、豚肉は甘辛く、鶏軟骨が美味。炒飯は薄味だが米線と一緒ならいける。サーロインも食べたいが、すでに食べ過ぎでお腹がいっぱいだ。ビュッフェのテーブルにはスープにお粥、ライチのジュース、メロンのジュースなども並んでいる。ビールはアルコール薄め、コク多めの若い感じの生ビール(ベトナムでいうビアホイよりは濃いめ)だった。不運つづきの日にしては上出来の食事。


西洋の残り香【2011雲南】DAY03・沙面

2011年04月14日 | 旅する。

4月14日 木曜日 広州→(昆明)

【湖面をすべる舟の仕事は】
3日目ともなると、おなじみの道になる。いつもの横断歩道を渡り、茘湾湖公園へ。腰の入った太極拳を眺めたり、いろいろ変わったウォーキングに驚いたりしながら湖沿いに歩いていく。

老人たちがカードゲームをしていて、映画《ジョイラッククラブ》を思い出す。あの真剣さは間違いなく金を賭けているとみた。

湖面を静かに渡っていく舟。朝もやのなか、美しい景色だが、やっていることは「掃除」である。浮いているゴミを拾いながら舟は行く。

昨日は通り過ぎただけの西関大屋だが、今朝は運河に降りて水路沿いに歩いてみる。ここでもすべる舟の仕事はゴミ拾い。

故居、バニヤントゥリー、祖廟、小さな通り。風情のある遊歩道は最近整備されたと思われる。

多宝路という道に出た。南へと右折。木々に囲まれた古い道を歩くのは気持ちいい。やがて埃っぽい建設現場に出ると地下鉄「黄沙」駅があり、高層マンションが林立していた。近代が古い世界を暴力的に浸食しているような風景だ。

【旧租界、沙面へ】
歩道橋から沙面に渡る橋を見下ろす。あの橋の向こうが沙面か。 

[注]沙面は外国貿易にあてられた人工島で、運河を掘削することで珠江に面する岸を切り取るようにして作られた。西が英国、東がフランスの租界地で、初期のジャーディン・マセソン商会もこここに本社を置き、後に香港に移転した。この小さな島には19世紀の西洋文化が色濃く残っている。

ようやく沙面に上陸だ。沙面北街をはじからはじまで歩く。

歩きながら朗々と歌う老人もいる。庭で飲茶できるガーデンカフェも。公園では警察か軍隊の小規模な訓練をやっていた。太極拳もあれば、中国の歌謡曲も流れている。目の前を流れる珠江を船が行き交う。

【西洋の残り香】
いたるところに彫像が置いてある。

ちなみに、沙面にはホテルもいくつかあり、ツアーなどでよく利用されているようである。おしゃれな旅行をしたい方はどうぞ。

【茘湾仔艇粥】
沙面を出てあてもなく歩くと海産物干物系市場があった。路地を抜けていくとペット、盆栽系市場が。

ここも抜けると昨日も歩いたツーリスト向けファッションストリートだった。朝食がまだだが、ガイドブックによく出ている○○居はやたら混んでいるのでやめる。茘湾湖の水路には観光船が浮かんでいた。その名も美食園という店がある。こうしたいわゆる「観光」というものに違和感が先に立つ。目くじらをたてて「観光」を忌避するつもりもないのだが。

茘湾仔艇粥(リーワンテンジャイジョウ)なるものを食べてみた。6元。これがうまかった。薄味の粥に、味付けしながら風味を変えて食べるのがよい。艇仔粥とは海上を小舟で売って回ったことからこの名がついたらしい。小エビ、魚の皮、スルメ、落花生などが入っていることが多い(そうだ)。やっぱり中国の朝は粥に限るな。

ホテルに帰ってチェックアウトする。デポジットからおつり179元とレシートが返ってきた。

【火車站という人民の海を泳ぐ】
地下鉄(2元)で広州火車站へ。簡単には駅構内へ入れない。列に並んできっぷを見せ、荷物をセキュリティーチェックしてようやく入口ホールに入れる。電光掲示板では「K365、14:02」が「九在候」と出ているのはたぶん待合室が指定されているのだと思うが、ためしに改札できっぷを見せたら「行け」と言われたので入ってプラットフォームを探す。まだ掲示板には出ていないので番線は聞くしかない。大きな駅にしてはプラットフォームが4までしかないので、当てずっぽうに上がって駅員に聞いてみたら、黙って指を二本立て、降りて隣へ行け、という仕草をした。2番ホームですか。指示通りに2番線に上がるとちょうど隣に遵義からの列車が到着した。ここで駅員にきっぷ見せたら、頷いて隣に止まっている車両を指した。「昆明-広州」のプレートが下がっている。これか。

しばらく待って乗車。きっぷは乗務員がいったん回収し、代わりにプラスチックカード(換車票)を渡される。寝台車特有のシステムで、ヨーロッパでもかつてこういうやり方をしていたような記憶がある。各車両に担当の車掌が乗車名簿をまとめて、これを見て起こしに来てくれるシステム(のはず)である。

噂の改札でのラッシュや乗車時の混乱はうまく避けられたが、瞬く間に車両は人民の海となり、山のような荷物に埋まった。どうやら四川の旅行社によるツアーらしく、機関銃のようにかしましいおばさんが添乗員だった。

【寝台車なのに立つ】
硬臥は上中下三段なのでそれぞれの下段には3人座れるはずだが、ツアーの人々が占拠してしまってスペースがない。デッキは喫煙スペースで、補助椅子にはツアーの添乗員らが入れ代わりに座るため、寝台車なのに立っているという不思議なスタートになった。まあ、撮影をしたかったから窓際にいる事自体はいいのだが。

14:02、定時に発車。

車内販売1がやって来た。スナック、飲み物が中心。
(隙を見てようやく補助椅子に座る。)
車内販売2は果物。
(車掌が身分証を確認していく。)
車内販売3、軽食か(排骨飯みたい)。
車内販売4、鶏モモ肉飯、15元。
車内販売1が再度通る。辛ラーメンのカップ麺もあった。
車内販売2、果物はあまり売れない様子。

高速と並んで走る。大動脈という形容が比喩ではない、スケールの大きい国土開発を目の当たりにする。

車窓がダイナミックに変わっていく。

ついに、わが寝台下段は両側合わせて7人で占拠された。おばさんは踊り、健康法を披露し、大声で話し騒ぎ、おじさんはパジャマにスリッパで歩き回る。

ツアーのみなさんの話し声がたまに静まると、車内アナウンスが流れていたことがわかる。どれだけうるさいのか。

17:40、車内販売5、弁当は木須肉のような卵料理にスープ付きだった。

結局、夕食には別の弁当を購入した。さらに鶏もも肉をすすめられたが断った。スープに味がなく、弁当には炒め煮が二種、串に刺したハンバーグもどき、揚げ卵、小骨だらけの鶏肉がのっていた。これで20元(250円)は暴利だな。

上段にあがるとメモ帳に書くのも苦しい狭さだった。iPod Shuffleを聞きながら寝る。


鳩を食らう【2011雲南】DAY02・広州

2011年04月13日 | 旅する。

4月13日 水曜日 広州

【高層ビルと太極拳】
8時前にホテルを出て近所を散歩してみる。歩道橋を渡ると、眼下に繁栄する中国のラッシュアワーがはじまっていた。茘枝湾湖公園へ入っていく。

公園では太極拳をする人々が大勢いて、湖面に映る高層ビルと好対照をなしていた。おばさんの団体に撮影係を頼まれる。

【陋巷に自由市場】
広い公園から裏道へ抜けると、路地が市場になっていた。

ここだけ近代化に取り残されたのか、自然発生した自由市場らしい。取り澄ました観光客向けに整備された遊歩道より、よっぽど面白い。多くは路上にシートを広げ、箱をのせただけで野菜や豆や芋や唐辛子などを商っている。そこここで紙幣と品物が取り交わされ、たいした活気である。かつての陋巷、北京でいう胡同のなかのような路地や小さな広場はいまもしぶとく生き残っていた。

枝のように裏路地が広がり、開発から取り残されたタイムカプセルのようだ。

路地を進むと野菜だけでなく、肉屋があらわれ、生きた鶏も商われていて、さすが中国。

通り抜けたところに近代的な建物があり、そこが公設市場だった。どうやらこちらが本来の市場で、その周辺に路上市場が増殖したものか。

[注]広州は珠江デルタ地帯の北部にあたり、古代から中国の南海貿易の拠点だった。清代には広州だけが欧米諸国との貿易に開放されていて独占商人たちが巨富を得た。アヘン戦争では英国に占領され、辛亥革命では孫文がここを首都に中華民国を建国した。珠江は香港、マカオの間を通って東シナ海に注ぐ。深圳・珠海の経済特区や広州に隣接する仏山市、東莞市、中山市などは近年の中国の経済成長を象徴するエリアである。広州市の経済規模(市内総生産)は上海市、北京市に次いで中国第三位。

【路地裏からファッションストリートまで】
裏道から仁威祖廟に出た。線香の煙が絶えない。

大きな通りをゆく。フードストリートなる通りがあり、飲食店が蝟集している。

運河をこえると西関大屋という、独特な建築が並ぶエリアだ。

鮮やかな赤が視界を横切った。花を満載した自転車が走って行った。

テキトーに道を曲がる。上下九路は歩行者専用の道らしい。おしゃれなファッションストリートだが、朝が早いせいか、まだ観光客は数少ない。

ナントカ飯という軽食を売っていたので、食べてみる。屋台ですらない、天秤棒を担いだ路傍の商いだ。立ち食いですませる。あまりうまいものではなかった。値段も忘れた。

そこここに路上の物売りが出ている。帽子やカゴなど編み細工を商う店も。

【飛行機が高い】
旅行社を探すが、調べてあった住所から移転したらしく、空きオフィスになっていた。その近所は靴問屋が集まる通りになっていて、ありえないくらい大量の荷を積んだ台車、自転車が(自動車ではない)いきかう。こんなに積んでよく倒れないなぁ、と思っていたら前を行く自転車が転倒した。高さにして2メートルを優にこす荷物を積んでいるのだから、さもありなん。

移転先に行くと、旅行社の窓口は高級ホテルの中にあった。英語が使えたが、広州から昆明(こんめい/クンミン)への飛行機は1420元(約17750円)だった。高すぎる。

思ったより移動が高くつくかもしれない。ホテルもデポジットを要求されると現金が必要になる。さらに2000元を引き出しておいた。札束が分厚く、財布が閉まらなくなった。

【省汽車站と火車站で】
地下鉄を探して、「海珠広場」に。地下鉄への入口が分かりにくいが、どーにか乗る。

地下鉄「広州火車站」駅へ。この周辺は昨日も苦労したが地下で迷い、地上でも迷い、なんとか省汽車站(長距離バスターミナル)にたどりついて、行き先、便数や価格など情報収集する。本命はあくまで鉄道だが。

広州火車站(鉄道駅)のきっぷ売り場にたどり着くまで二度、大回りした。乗車客が駅に入るには身分証ときっぷの検問があり、その長い行列を迂回しなければならなかった。

きっぷ売り場の電光掲示板に昆明行きが出ている。14:02発と21:08発があるが、所要時間はおよそ24時間のはずだから、昼過ぎに着く方が都合がいい。4月13日(今日)の14:02発でも席は取れることがわかったが、予定通り4月14日(明日)出発にしよう。メモを走り書きして係員に見せる。わざわざ英語がわかる職員が呼ばれ、硬臥の上段を330元(約4125円)でゲットした。

かつて悪評高かった中国の鉄道きっぷ入手事情だが、驚くほどすんなりと明日の昆明行きを買えてしまった。

駅前にあった中国のファストフード〈李先生〉で牛肉麺18元、ミルクティー6元(計24元、約300円)。

鉄道駅に戻ると人混みの先に大きな時刻表が掲示してあった。これによると昆明行きは14:02発→翌日14:37着、21:08発→翌日23:13着だった。この壁の時刻表を撮影しておき、さらに薄いパンフレットの時刻表も買う。3元。

【越南王墓博物館は無料だった】
駅周辺を離れて解放北路を歩いて南下する。左手には越秀公園。目的の越南王墓博物館は、入場料無料だった(いつもは12元)。入ってみると、展示品が少ないのと空調が効いているので非常に快適だ。

館内を上階へあがっていくと王墓の発掘現場に出た。ここに出土品が展示してあり、これがこの博物館の本命である。

碧玉(jade)の円形薄切りに紋様が刻んであり、さらに碧玉を絹で編んだ鎧帷子(shroud)に包まれた王が横たわる。

博物館を出て、解放北路を渡って越秀公園へ。いかにも観光客向けの五羊石像は高台にある。中国人観光客たちの記念撮影にかける情熱を垣間見る。

この五羊石像には切石を接着した痕がはっきり見えていて、いかにもツクリモノの感じがする。

降りていく道筋に防空壕があった。公園出口にはさまざまな屋台や出店が並ぶ。

【陳氏書院も無料だった】
地下鉄に乗る。2元。「越秀公園」から「公園前」で乗り換え「陳家祠」で下車する。構内にセブンイレブンがあり、ペットボトルの甘いお茶を買う、4元。コンビニでも並ぶ習慣のない人民たちが頻繁に横入りするのに閉口する。

出口Dから目の前に陳氏書院があった。ここも無料だ。

今日4月13日は美術館博物館が「免費開放(無料)」の日らしい。それは好都合、さっそく入館して建築や住居内部の様子を見学する。

陳氏書院の屋根の彫刻、その向こうに高層ビル。

展示よりも販売にかけるエネルギーが大きい状況を実感する。

中山七路から八路を歩いてホテルへと戻る。このあたりは繁栄を享受する中国そのもので、便利店(コンビニ)、ファストフード、ストリートライブ、どれもがゾッとするほど俗っぽい。

地下鉄「中山八」近くの便利店でレモンジュース4元、水2元を買った。

ちなみに水の相場は下記の通り(500mlのペットボトル)。
・ホテル、ミュージアム内ショップで3元
・自販機、一部の便利店で2.5元
・ほとんどの便利店で2元
・駅前の出店、路上で3元/2本、たまに1.5元/1本(ただし品質は不明)

茘枝湾湖公園に寄る。水のそばにいるとやすらぐのは、人間本来の性質なんだろうか。黄沙大道を歩いてホテルへ。こうして歩いてみると、昨夜の迂闊さが悔やまれる。分かってみれば地下鉄駅からホテルへは近かった。

【美食街で鳩を食らう】
ホテルで休んだあと、夕食を摂りに外に出た。義州食堂街という、提灯と花火に見える電飾に飾られた派手な一帯に店が立ち並んで歩道にも席が出ている。今朝見かけたフードストリートは夜が本番の時間になるようだ。

どこも混んでいるが、適当に入店してみた。何か聞かれる(たぶんお茶か、飲み物か)が、もちろん中国語はわからない。客が外国人とわかるとウェイトレスの一人は曖昧な笑顔でもうひとりのウェイトレスに(なんとか頑張って)と押し付けた。どこでも要領のいいヤツがいる。この店は紙のメニューに自分で印をつけるシステムだったので、そのメニューを解読して注文する。

[注]簡体字が読めなくて苦労した。後日解読した繁体字を〈〉内に付記し、解明した料理内容を記す。

「莫大毛紅焼乳§」(最後の漢字のつくりが鳥なので鶏かなにかと思った。肉系ではひと際安いので頼んだ)16.8元
〈莫大毛紅焼乳鳩〉(実際には仔鳩だった。「紅焼」は醤油煮込み。「莫大毛」はいまだ不明。教えを請う)
「魚§§§蛋」(魚、にくづきの漢字はたぶん部位、その次の漢字が火へんだから調理法で、次はたぶん鶏の卵、つまり魚のどこかに火を通して卵かと推理)13.8元
〈魚腸[火+局]鶏蛋〉(魚の臓物を卵でとじて蒸し焼きにした料理。[火+局]はオーブンで蒸し焼きする調理法)
広東炒飯(これはわかる)25元
珠江純生(ビール)8元

鳩は皮がパリパリしておいしい。両手でつかんで食いつく。「いのちを貪る」感覚がする。頭のなかでは「生かされている私」「原罪」「供養」などいろんな想念がめぐるが、とにかくうまい。炒飯は凄まじい量でやってきた。4人前はあるかと思われる。まずは鳩を平らげよう。遅れて卓にのったのは魚の臓腑を柔らかいだしまき卵でとじたいわば巨大な魚腸入り茶碗蒸しで、苦く柔らかい臓腑がたぶん珍味なのだろう。おいしいが、これも一人で食べきれる量ではない。

結局、鳩と炒飯は意地で全部食べた。お茶でお腹をなだめる。周囲を見れば、料理の残りをタッパーに詰める客もちらほらいる。満腹を通り越して苦しいくらいだ。勘定はお茶が3元入って計66.6元(約833円)。ちょっと贅沢し過ぎか。


喧噪の海【2011雲南】DAY01・広州到着

2011年04月12日 | 旅する。

4月12日 火曜日 成田→広州

【マイレージで無料フライト】
ANAのマイレージポイントがたまって、広州(こうしゅう/グァンヂョウ)までは行けることがわかった。それなら、懸案の雲南に行こう。面倒くさいビザがいらない15日間で帰ってくることにする。booking.comで最初の広州の宿だけ予約して、あとは移動も宿も行き当たりばったりで。

【まだ揺れる】
当日、出かける前から緊急地震警報が何回か鳴る。成田空港に向かう途中、青砥駅で乗り換え待ちの時に大きく揺れた。点検のため、運行が一時止まる。

チェックインはすでにネットで済ませている。空港カウンターで荷物を預けて身軽になり、いつものように空港内を歩き回る。出国手続きを経て出発ゲートに行ったら、ユジノサハリンスク行きだった。あれ? どうやらゲートが変更になっていたらしい。かなり遠くまで歩く羽目になった。 

【喧噪の海】
広州白雲国際空港には21時過ぎに着いた。機械を到着客に向けて体温を測定しているようだ。SARS騒ぎの時は大変だったらしいが。時節柄、あるいは放射線でも測っているのかもしれない(ジョークですよ、ジョーク)。

ANAの広州便はビジネスマン主体のせいか荷物を預ける人が少なく、すぐに流れてきた荷物をピックアップして出たらそこは喧噪の海だった。

空港のATMで2000元の現金を引き出す。レートを1元=12.5円とすれば2万5千円分、私にしては高額な現金を準備したのは明日にも航空券を現金で買う可能性もあるからなんだが、どうなることやら。 

【バーシィ、ダオ・ホージャータン?】
市内へ行くバスを探す。広州駅は「広州火車站」、Gunzhou Hojya-tannという発音でいけるだろうか? 手近なバス乗車券売り場で聞くと「そこのバス、きっぷは車内で買える」と面倒くさそうに英語で教えてくれた。バスに行き、車掌らしき制服の女性に確認したら、ぶっきらぼうにうなずいたので乗った。行き先表示は広州火車站、料金は16元(約200円)。 

【火車站前は人民の渦】
夜の広州をバスは走るが、景色を見ることもなく眠っていた。みんな降りるので終点と判断し、降りた。その途端に客引きの渦に巻き込まれた。「ホテルが安いよ」「三輪タクシーはどうだ」などなど。

渦を抜け出して火車站(鉄道駅)へ。場所はすぐそこだったが、駅前の広い空間から駅構内へ通じる導線がわかりにくい。というか、自由に行き来できないようになっている。何度か大回りをしたが、めざす地下鉄への入り口が見つからない。テキトーに歩いたらきっぷ売り場だった。数人のダフ屋らしき連中がうろついていた。

駅前は広すぎる上に無秩序だった。タクシーは順番を無視して客引きし、きっぷのダフ屋が徘徊し、何のためにこんなに大勢いるのかわからない無数の人民が群れている。

人がたくさんいれば店もたくさんある。屋台の誘惑に負けそうになる。

【夜の迷路】
駅の西のはじに「METRO」の文字を見つけたときには23時を過ぎていた。階段を下りていく。自動販売機は大半が故障している。バス料金のお釣りでもらったしわくちゃの10元札でトライすること数回、ようやくきっぷ(トークン)を手に入れた。2元(約25円)。

路線図を撮影しておく。事前の情報より大幅に路線が延長され、駅が増えている。

改札から乗り場までも迷路だった。意図的に分かりにくく配置した地下道は韓国同様、国防のためか。ようやく地下鉄に乗って三つ目の「中山八」で下車。地上に出たら、鳥瞰図のような地図があった。昨年の広州アジア大会のために整備されたのであろう、外国人にも分かりやすい。

しかし、このわかりやすさが罠だったか。番地を頼りに巨大なロータリーを渡り、歩道橋に上がり、暗い道を歩き、公園を抜け、ホテルを探すが見つからないまま30分もたち、埒があかないのでタクシーに乗ったら5分で着いた。9元(約113円)。

いちばん最初に歩いた道で「遠すぎる。暗いし、道を間違えたか?」と引き返したところからあと50m歩けば着いていた。ううむ。

【湖畔の宿のはずが】
booking.comで予約したのはLiwan Lake Garden Inn。その名前から茘湾(れいわん/リーワン)湖公園に面していると思っていたが、甘かった。广州嶺南佳園連鎖酒店・茘湾湖店、つまり「ガーデンイン」というホテルチェーン(連鎖酒店)の茘湾湖店だった。2泊で318元(3975円)。

【depositか、taxか】
フロントで400元を請求された。追加された料金はタックスかデポジットかと聞いたら、おばさんが不機嫌になった。出し渋りと思ったらしい。英語のできるスタッフが呼ばれたが判然とせず(このスタッフもdepositという単語を知らなかった)、結局デポジットと判断して払ったが、おばさんは500元に増額した。金額はおばさんの胸先三寸であった。

中国のホテルでは現金のデポジットが常識のようだが、depositという用語を使わない。

部屋は悪くなかった。クイーンサイズのベッド、大型テレビ、エアコン、金庫、有線LAN(無線はなかった)、トイレシャワー付き。室内にあるペットボトルの水、ラーメン、トラベルセットなどは有料。いま中国で爆発的に増えているという格安ホテルチェーンでは標準的なところなんだろう。このホテルチェーンは広州だけで8軒もある。