海鳴記

歴史一般

大河平事件再考(15)

2010-09-25 08:07:54 | 歴史
 それから、由来や経緯を開陳していろいろ請願したが聞き入れられず、明治23年、証拠書類を揃えて、正式に「下戻願」を出したところ、これも聴許されなかった。さらに、明治26年、新たな証拠書類を付け加えて、再度、「下戻願」を提出したが、明治31年、国側は八重尾一族に対して、正式に大河平隆芳の所有に帰すものとして却下している。
こうして、十数年の歳月をかけた請願も虚しく、300年来の争いは、結局隆芳に軍配を挙げた形で終わった。
 それでは、隆芳の主張はどうだったのかというと、勝っただけあって、より説得力があり、またより有利な証拠も残していたようである。

 隆芳によれば、もともとは、小林郷の八重尾与左衛門なる者が、球磨の皆越(家)に行き、飯野大河平山の内(論山)を小林郷に編入したいので、その書面を取り交したいと要求したことから始まったとしている。ところが、皆越家では、古来より、飯野、須木、球磨の三方立会いで境界を査定してきたが、一度も小林と境界査定をしたことがない、と八重尾氏の要求を拒絶したことを当時の大河平家へ書面で伝えてきていたのである。そして、その書状が大河平家に残っているからと、隆芳は国側に提出している。
 また、正保3年(1646)、奉行上井(うわい)采女、入佐(いりさ)四郎左衛門が出張して来て、大河平一円の境界を調査した絵図面や、元禄11年(1698)に作成した小林郷境までの間数や方位を記した書面なども証拠として提出している。さらに、天保9年(1838)、当時の山奉行が論山内における山餅製造の許可を御用商人に与えたことを、その山奉行の間違いだったと認めた通達書面も残っていた。
 このように、残された証拠としては大河平家側が圧倒的に有利だが、八重尾家側で明治になっても論山の所有を主張するのは、北原氏や島津氏に遡る歴史の経緯、またそこに単に同家の屋敷跡があったことや現在でもそこにある氏神を祀っているからという薄弱な理由からばかりでなく、何かもっと別な理由があったのかもしれない。もっとも、それが何だったのかは、わからない。ただ明治になって、論山内で「稼山」をしたり、栗の植え付けなどをしたりしていたというから、江戸時代でも「入山」や「使用」そのものは黙認されていたというのか許されていたのかもしれない。



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