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翌明治十四年は、繁にとってというより、彼とは直接関わりのないところで大きく動いた年でもあった。まず天皇の二度目の東北行幸と、これを利用した思われる明治十四年の政変と呼ばれる大隈失脚劇があった。また、福島側では、安積開墾における最大の功労者である中條政恒が、県書記官から太政官少書記官へ異動したのである。
では、これらの詳細を追う前に、時間軸にそって話を進めよう。
その年の一月十三日、繁は内務省安積郡疎水掛長を申し付けられている。これは、奇妙といえば奇妙な辞令書だが、おそらく前年、中條が訴えた国側と県側の職務権限を明確にした結果かもしれない。あくまでも疎水責任者という地位に限定する意味があったのだろう。
次にその後の三月十四日付けの繁の辞令書では、愛知県三河国へ出張を申し付けられている。この詳細も理由もよくわからないが、前年の松方の行動を考えると、ある程度推測ができる。
前年の二月末に内務卿に就任した松方は、四月になって大阪府庁における綿糖共進会に出席した帰り、三河国碧海(へきかい)郡の水路開鑿(かいさく)竣工式に出席している。積極的に殖産興業政策を推し進める松方の、いや明治政府の意気込みを感じさせる好例だが、おそらく、この現場を繁に視察させ、安積疎水工事の参考にさせたということではないだろうか。
こういう例は、このときだけのことではない。「清水次郎長と奈良原繁」の章でも言及したが、この年三月、松方は、内務省に提出されていた静岡県富士郡吉原の水門再築願いに対して、その実地検分をしている。そしてその翌月、繁と南一郎平をそこに派遣し、それが実施可能かどうかを調査させているのであ
る。だからおそらく、三河国の水路開鑿視察後に繁らを吉原にも寄らせているのであろう。
なお、吉原港の水門再築願いに関して、繁らは、「再築至難ニアラズ」という判断を下している。二年後の明治十六年三月にも、繁が静岡県下巡回を申し付けられていることから、繁が静岡県令に任命されたのは、吉原の問題と深く関わっていたことは疑いようがない。このことは、すでに「清水次郎長と奈良原繁」の章でも述べている。
ところで、この間の四月七日に、新しく農商務省が設置され、猪苗代湖疎水事業は、内務省からこの省に移ることになった。この農商務省の設置は、鈴木しづ子氏の『明治十四年政変と地方政治』によれば、「大久保没後、緊縮財政をさらに強化させる上で、殖産興業政策も一部手直しを迫られて」おり、「農商務省の設置もその一環であり、これまで内務省内において進められてきた士族授産による殖産興業政策の見直しがはかられた」からのようであった。ただ、繁は、そのまま安積疎水責任者を続けている。が、農商務卿は、河野敏鎌という土佐出身者がなり、松方の内務卿はそのままだった。もっとも、繁の安積疎水事業はもう軌道に乗った事業といえたし、また前年、中條から非難されたような職務権限の問題もなくなれば、所管の長が替ったからといってもはや何の問題もなかっただろう。
さて、三河や静岡の視察から戻った繁は、四月二十一日にまた福島へ、そして二か月後の六月末には、千葉県の下総種畜場へと出張し、七月末の三十一日には、松方内務卿とともに猪苗代湖第一期工事成業通水式に出席し、松方の祝辞に対して、奉答の挨拶を返している。
このとき松方は、天皇の東北・北海道巡幸の先遣として、すでに二十九日には福島入りし、中條らの案内で安積郡の開墾地を巡視していた。ところが、その中條は、八月二日、天皇行幸を迎える準備のさなか、太政官転出の辞令を受け取った。
翌明治十四年は、繁にとってというより、彼とは直接関わりのないところで大きく動いた年でもあった。まず天皇の二度目の東北行幸と、これを利用した思われる明治十四年の政変と呼ばれる大隈失脚劇があった。また、福島側では、安積開墾における最大の功労者である中條政恒が、県書記官から太政官少書記官へ異動したのである。
では、これらの詳細を追う前に、時間軸にそって話を進めよう。
その年の一月十三日、繁は内務省安積郡疎水掛長を申し付けられている。これは、奇妙といえば奇妙な辞令書だが、おそらく前年、中條が訴えた国側と県側の職務権限を明確にした結果かもしれない。あくまでも疎水責任者という地位に限定する意味があったのだろう。
次にその後の三月十四日付けの繁の辞令書では、愛知県三河国へ出張を申し付けられている。この詳細も理由もよくわからないが、前年の松方の行動を考えると、ある程度推測ができる。
前年の二月末に内務卿に就任した松方は、四月になって大阪府庁における綿糖共進会に出席した帰り、三河国碧海(へきかい)郡の水路開鑿(かいさく)竣工式に出席している。積極的に殖産興業政策を推し進める松方の、いや明治政府の意気込みを感じさせる好例だが、おそらく、この現場を繁に視察させ、安積疎水工事の参考にさせたということではないだろうか。
こういう例は、このときだけのことではない。「清水次郎長と奈良原繁」の章でも言及したが、この年三月、松方は、内務省に提出されていた静岡県富士郡吉原の水門再築願いに対して、その実地検分をしている。そしてその翌月、繁と南一郎平をそこに派遣し、それが実施可能かどうかを調査させているのであ
る。だからおそらく、三河国の水路開鑿視察後に繁らを吉原にも寄らせているのであろう。
なお、吉原港の水門再築願いに関して、繁らは、「再築至難ニアラズ」という判断を下している。二年後の明治十六年三月にも、繁が静岡県下巡回を申し付けられていることから、繁が静岡県令に任命されたのは、吉原の問題と深く関わっていたことは疑いようがない。このことは、すでに「清水次郎長と奈良原繁」の章でも述べている。
ところで、この間の四月七日に、新しく農商務省が設置され、猪苗代湖疎水事業は、内務省からこの省に移ることになった。この農商務省の設置は、鈴木しづ子氏の『明治十四年政変と地方政治』によれば、「大久保没後、緊縮財政をさらに強化させる上で、殖産興業政策も一部手直しを迫られて」おり、「農商務省の設置もその一環であり、これまで内務省内において進められてきた士族授産による殖産興業政策の見直しがはかられた」からのようであった。ただ、繁は、そのまま安積疎水責任者を続けている。が、農商務卿は、河野敏鎌という土佐出身者がなり、松方の内務卿はそのままだった。もっとも、繁の安積疎水事業はもう軌道に乗った事業といえたし、また前年、中條から非難されたような職務権限の問題もなくなれば、所管の長が替ったからといってもはや何の問題もなかっただろう。
さて、三河や静岡の視察から戻った繁は、四月二十一日にまた福島へ、そして二か月後の六月末には、千葉県の下総種畜場へと出張し、七月末の三十一日には、松方内務卿とともに猪苗代湖第一期工事成業通水式に出席し、松方の祝辞に対して、奉答の挨拶を返している。
このとき松方は、天皇の東北・北海道巡幸の先遣として、すでに二十九日には福島入りし、中條らの案内で安積郡の開墾地を巡視していた。ところが、その中條は、八月二日、天皇行幸を迎える準備のさなか、太政官転出の辞令を受け取った。
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