海鳴記

歴史一般

日本と英国の出会いー薩英戦争まで

2023-07-05 09:34:21 | 歴史

                  (7)ロシア(スラヴ)の東進

 ロシアがヨーロッパの上流階級で高く売れる毛皮を求めて東進を始めたのは、リューリク朝末期の16世紀末からだった。そして、ロマノフ朝(1613~1917)になった、1636年、コサックのイヴァン・モスクヴィチンという探検家がオホーツク海に至り、初めて大陸横断を達成している。その後の1648年には、ロシア人・セミヨン・デジニョフが、米国と隔てていることは認識してなかったようだが、ベーリング海に到達している。さらに、その翌年、オホーツクには砦が建設され、最初の入植地としている。こうして、着々と日本に近づいていたが、実際には、日本人のほうが早くロシア人と接触したようである。

 元禄8(1695)年、大坂から江戸へ酒や米を運んでいたデンベイ(伝兵衛)らが、途中嵐に遭遇し、半年ほど漂流してカムチャッカの南部に流れ着いた。そこで助けられた伝兵衛らは、カムチャッカ探検中だったコサックに連れられてモスクワへ行き、西洋化政策で、また大男としても有名なピョートル1世(在位:1682~1725)と謁見したという。そして、興味深いのは、ピョートル1世は、臣下に日本語を学ばせようと勅令(1705年)まで出したというのだ。勿論、日本文化を学ぼうという方針でなかったことは、その後の日本への接近で明らかだが。

 次もロシア側の記録だが、宝永7(1710)年、サニマ(三衛兵門?)という日本人がカムチャッカに漂着、ロシアの首都になっていたペテルブルグへ送られ、そこで日本語を教えていた伝兵衛の助手になったという。三番目は、鹿児島では有名なゴンザ(権左?)とソウザ(惣左?)という漂流民である。彼らは、享保14(1729)年、若潮丸の乗組員として鹿児島から大坂に向かう途中、暴風雨に遭い、そのままカムチャッカまで流された。乗組員は17人いたというが、ゴンザとソウザを除いて、全員コサックに殺されたという。理由はよくわからない。ゴンザとソウザは、ペテルブルグまで連れて行かれ、女帝アンナ(在位:1730~1740)に謁見したと記録されている。また彼らは、1736年にペテルブルグに日本語学校が開設された際、教師となり、科学アカデミーのアンドレイ・ポグダーノフという学者に協力して、世界初の「露日辞典」を編纂していた。余談になるが、私が鹿児島で古本屋をやっていたとき、入手先は出版社からだと思うが、この翻訳本を扱っていた。江戸中期の薩摩語から現代語との比較が面白いらしく、何冊か売った記憶がある。

 ゴンザやソウザが辞書作りに協力した、約40年後の安永7(1778)年6月、ロシア人が初めて日本への扉を叩いている。場所は蝦夷地(北海道)厚岸(あっけし)(根室市)である。そこに松前藩の番所があった。そしてそこに通商を求めに来たというのである。この4年後の天明2(1782)年、漂流者としては最も有名になった伊勢の船頭・大黒屋光太夫(1751~1828)がアリューシャン列島に漂着し、そこでロシア語を習得、いろいろな経緯から当時の女帝エカテリーナ2世(在位:1762~1796)に謁見している。そして、そのエカテリーナ女帝の通商使節となったアダム・ラクスマン(1766~1806以降)とともに、寛政4(1792)年9月、根室に来航。光太夫他2名の日本人ととともに上陸した。おそらく、ロシアに漂流し、帰国した初めての日本人だった。漂流から10年振りの帰国だった。その後は、11代将軍家(いえ)斉(なり)にもお目見えし、鎖国時代とはいえ、処遇は悪くなかったと言われる。

 ここで、江戸期にロシアへの漂流者に多かった理由について考えてみたい。まず、江戸期の和船で一番大型は千石船である。これは現在のトン数でいうと180トン位だそうである。つまり、1本マストで喫水の浅い200トンに満たない船なのである。こんな船が一度暴風雨に見舞われ、そして帆柱が折れたりすれば、すぐ舵も効かなくなり、黒潮と偏西風のために北へ東へと流されてしまう。冬季はともかく、日本海側より太平洋側のほうがはるかに危険である。

 私は、インド航路の大型船で一度だけ、海上に油を敷いたようなベタ凪(なぎ)の海を経験したことがある。それが夏期の日本海を航行している時だった。それまで日本海は冬の荒ら海だけのイメージだったが、完全に覆されたことを今でも鮮明に憶い出す。

 要するに、江戸期を通して、北前船と呼ばれる西回り(日本海側)航路が栄えたのは、こちらのほうが安全だったからでる。せいぜい、200トンに満たない和船では。

 ところで、デンベイ(伝兵衛)が最初にロシアへ漂着した、1696年から1850年まで、カムチャッカ、アリューシャン、千島列島へ漂着した日本船は、13隻で174人に上るという。途中で難破したり、飢えと寒さで全員死んだりすることもありえたとすれば、実際はもっと多くの船が流され、行方不明となっているだろう。

 エカテリーナ女帝の使節ラクスマンの話に戻す。幕府は、鎖国を楯にラクスマンらの通商使節を何とか追い返すことに成功したが、この12年後の文化元(1804)年9月、2度目の遣日使節が来航する。アレクサンドル1世の親書を携えたニコライ・レザノフ(1764~1807)一行が、今回は最初から長崎に入ったのである。前回のラクスマンの時に、通行許可書を与えていたため、幕府も無碍(むげ)にできず、対応に苦慮した。しかし、清国・朝鮮・琉球・オランダ以外は通信・通商の関係は持たないという「祖法」を楯に追い返すだけだった。レザノフは、漂流民を返しただけで、翌年3月、長崎を去った。

 これに対するロシア側の報復と思われる事件が翌年の文化3(1806)年の9月に起こった。レザノフの部下だったフォヴォストフが、樺太島のクシュコタンを襲い、翌文化4年4月にはエトロフ島に、5月には利尻島に侵入した。彼らは、各地で会所を襲撃して略奪したうえ建物を焼き払い番人を連れ去った。

 のちに、彼らは日本人を解放したが、通商を拒否するなら、こういうことができるぞという手紙を置いて去ったという。これは、フォヴォストフ個人の腹いせと思われるが、蝦夷地では「むくりこくり」(蒙古・高句麗)の襲来として緊張が高まっていた(『幕末の海防戦略』上白石実)ようである。今も昔も乱暴狼藉なお国柄である。これらのことから、この年の12月に、幕府はロシア船打ち払い令を出す。

 この後のロシア船の来航は、文化8(1811)年6月、海軍測量船ディアナ号のクナシリ島出現で一区切りがつく。艦長のゴローニンが、同島に上陸して、現地の役人に捕らえられる事件が発生した。事件は煩雑なので詳細はさけるが、2年後には何とか帰国する。以後、ロシアは、1853年のプチャーチンの長崎来航まで「通商」を求めて日本と接触することはなかった。ロシア・ロマノフ朝の関心は、ヨーロッパに移ってしまったのであろう。

 当時のヨーロッパにおけるロシアの状況を簡略に記述しておく。トルストイの『戦争と平和』に描かれている時代の頃である。1812年、ロシアがナポレオン戦争で彼らを撃退すると、アレクサンドル1世は俄然強気になり、彼の提唱で、ウィーン(反動)体制を維持すべく、オーストリア・プロシャ・英国、さらにフランスと同盟を結び、ヨーロッパの盟主になろうとした。そして遠い極東より、身近なオスマントルコ領域側からの南下政策に切り替えたのである。つまり、黒海から、ボスポラス海峡、ダーダネル海峡を通り、地中海に抜けるという、ロシア側にとって最短で最善の南下ルートを目指すことにしたというわけである。

 もっとも、これは、ロシアに地中海に入ってもらいたくない英国などの利害が絡みなかなか思い通りはいかなかった。

 1830年、ギリシャがオスマントルコから独立したのちの条約では、ボスポラス、ダーダネルス海峡通過の権利は得たものの、翌年から2回にわたるエジプト・トルコ戦争では、その権利も失ってしまう。そして、1853年からのクリミア戦争で惨敗したことで、ロシアのヨーロッパ側の南下政策は失敗してしまった。その結果、ニコライ1世が自殺したとさえいわれたのである。

 以上、禁教後、ロシアが「通商」を求めて日本に現れた最初の国だったということを述べておく。また、『幕末の海防戦略』によれば、これが、「海禁」後の第一波だという。


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