海鳴記

歴史一般

松方正義と生麦事件 (45)

2011-01-02 06:24:23 | 歴史
 さて、奈良原繁と松方の関係は、繁が沖縄県知事として沖縄に赴任した16年間は、やや疎遠になった。沖縄からの上京の際は必ず面会しただろうが、以前のように頻繁に会うことも、手紙を出すこともなくなった。事実、松方が、明治29年9月から同31年1月まで総理大臣だったときも、彼に宛てたお祝いの手紙も見当たらない。だから、繁の沖縄県知事時代は、より多く閣内で力を保持していた伊藤との関係にウエイトが移ったのは仕方あるまい。この時代、伊藤への頼み事をしている一通の手紙が残っているだけなのだ。
 この依頼の内容は、琉球王の系譜である尚寅、尚順両氏が華族に列せられたが、その大礼服を拵える余裕もない。そこで、一万円ほど下賜願いたいというのである。ここでは、松方にもこの件を依頼したことはわかる。しかし松方は、伊藤と相談してからにするから、先ずもうすぐ帰朝する伊藤を待つようにと言っているようなのである。ところが、繁は繁で東京に長居はしておれず、明日沖縄へ出発しなくてはならないので、いわば置手紙にして伊藤にその依頼の内容を伝えている。
 奈良原繁は、「琉球王」と揶揄されるほど長きにわたって沖縄に「君臨」した。その間、彼の周りに集まる人物たちを優遇し、特に郷土出身者には様々な利権や利便を与えた。また、彼自身、土地整理という大事業で、民間に渡った土地の一部を貰い受けている。これらの相当のキックバックに加えて、年俸3,600円という報酬も確実にあったのである。
 だから、明治41年4月、75歳でその職を解かれた後でも、普通は何不自由なく悠々自適の生活を送れたはずだ。ところが、彼は死ぬまで「普通」の生活を送ることができなかった。
 大正7年8月13日、彼は鹿児島の1、800坪の中にある「奈良原殿屋敷(ならばらどんやしっ)」で85歳の大往生を遂げた。しかしながら、その4年前の大正3年4月26日付け松方宛書簡で、めんめんと恩給の少なさを訴え、何とかならないか、何かの職につけないかなどとしきりに懇願しているのである。これが冗談でないことは、彼の死後1年足らずで、彼が所有していた1、800坪のうち、孫の名義にした100坪ほどの土地を残して、すべて金貸しの手に渡っていることで充分説明できるだろう。
こういう人物に対して、松方はどう対応し、どう考えていたのだろうか。

         





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