海鳴記

歴史一般

大河平事件再考(14)

2010-09-24 07:46:20 | 歴史
 最後に、境界争いの話に移るが、これは、想像以上に根深い問題だった。江戸の初めから、15代当主隆芳の代まで続く因縁のある争いだったのだから。
 もっとも、これは家臣との間に起った争いではなさそうである。だが、何とも言えない微妙なところもあるので、やや詳しく追ってみようと思う。
 
 私が最初に「山林原野御下戻願」を読んだとき、最後のほうに、大河平と境を接する小林郷の八重尾一族の「下戻願」も添えられてあった。当時、土地(境界)争いなどという視点はまったくなかったので、そのまま読み飛ばしていたのである。そして今回、改めて読み直してみると、始めに述べたように、この土地争いという問題がいかに長く尾を引いていたのか、また平地の少ない辺境で生活する郷士たちにとっていかに山林原野の確保が重要な問題だったかを思い知らされた。
 まず、なぜ隆芳の「下戻願」の中に、この小林郷の八重尾一族の嘆願書も掲載されているのかというと、隆芳が提出した山林原野の中の150町歩余を、八重尾氏が先祖伝来の土地として異議を申し立て、それぞれその根拠を国側に弁明しているからである。
ともかく、この「下戻願」の中にある八重尾氏の言い分から見てみる。

 そもそも、争点の山林原野(以下<論山>という)は、八重尾氏が諸県郡真幸(まさき)院(野尻、高原、高崎、小林、須木、飯野、加久藤、吉田、馬関田の総称)の領主だった北原久兼から、天文年間55年(とあるが、1532~1554まで22年間)、祖先の八重尾与次郎重増が受領したものであるようだ。ところが、天正年間(1573~1592)、北原氏が島津氏側に付くようになって伊東氏に攻められ、八重尾家一族の当主も含め、幼弟一人を残して全滅してしまった。その後、天正16年(1588)、島津氏が伊東氏を滅ぼし、諸県地方を統一すると、当主の弟だった重紹が義弘に呼ばれ、その家臣となった。そして、論山である旧領を拝領し、以後300年余連綿としてその山林原野を受け継いできたという。
 このあと、これが、明治12年の地租改正の際、誤って官有林に組み込まれてしまった理由として、「私共一同ハ小林町ヲ距(へだた)ル四里余ノ山間ニ生長シ曾(かつ)テ文字ヲ解セザル故」と述べている。しかし、明治14年になって、鹿児島山林事務所の官吏が、その論山周辺の山林も官有林として差し出すように強要するので、初めて論山が飯野村(大河平)の境界内に組み込まれていることを知ったというのである。


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