海鳴記

歴史一般

薩摩藩77万石とは(2)

2009-10-29 10:42:10 | 歴史
 ともかく、この籾高というのは、通常の玄米高にすると半分ぐらいになってしまうようなのだ。もっと具体的にいうと、籾米一升が、その籾をとった玄米で量ると、5合ぐらいになってしまうということなのである。だから、籾高換算している薩摩藩の石高は、実質的には、約37.5万石ということになってしまう。
 このことは、私の店に来る郷土史家の人たちもたいてい知っていたが、だからといって、今までいわれてきたこの石高を訂正して、たとえば薩摩藩37万石あるいは38万石などと唱える人は誰もいなかった。だいたい、鹿児島でもっとも有名な歴史の先生が声高に薩摩藩77万石と言っていたのだから。籾高云々などという説明もなく。
 私は、加賀100万石とか伊達62万石という数字には耳なれていたが、薩摩77万石あるいは島津77万石という数字は、他所(よそ)では聞いた記憶がなかったので、耳にする度、気になってしかたなかった。
 加賀前田家100万石とか、仙台伊達家62万石というのは、玄米高の換算であることは間違いない。それにたとえば、侍の役職の給料にあたる何人扶持の一人扶持というのは、一日玄米5合と定められている。
 つまり、江戸時代の「米」というのは、すべて玄米を基準にして換算されていたようなのである。だから、米俵のなかは玄米の状態で収納されていると思い込んでいる人がほとんどである。

 私が静岡に移って以来、さまざまな人に俵の中には籾米の状態で入っているのか、玄米の状態で入っているのか尋ねてみた。すると、まず例外なく玄米だという。ただ中には、鹿児島の場合もそうだったが、農家出身の人が、米は「籾米」の状態で保存しておく、と言った。もちろん、これは年貢として納める米俵の中に籾米を入れておくということではない。が、米の「保存」という意味で、重要なことなので、ここでも強調しておく。
 ところで、今私が住んでいる清水港は、江戸時代、幕府直轄地であった甲州の年貢米を富士川経由で清水港まで運び、一旦そこにある蔵に納め、そこからまた江戸に送るという、いわば中継基地だった。そしてその年貢米の一部を駿府代官所の役人の給料にも充てていたようなのだ。その際、蔵から出した年貢米の籾をとり、玄米としてかれらに渡していた形跡があるのである。
 どういうことかというと、甲州から富士川舟運で運ばれてくる米(俵)は、籾米の状態で運ばれてきている、ということなのだ。



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